クリスマス!私の宝もの。救い主がお生まれになりました。

聖書の中にローマ書十二章十節に、

『兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。』

とありますけど、尊敬をもって互いに人を自分より優っているということは、イエスさまご自身が一番まさっていると思ってくださった、社会の最下層の人々として見下げられ、底辺の人、その人は誰かというと、羊飼いだったのです。その人たちを自分よりもまさっている。そのような苦しんでいる人を特別愛して下さる神がイエスキリストだと教えるために、夜中野宿をしていた羊飼いに表れ、救い主の誕生を知らせて下さったのです。

今自分と、また私たちの毎日のことを照らし合わせてみると、様々な出来事があって、辛く苦しいことがあります。
家内の介護があったり、毎回食事を作ったり、また洗濯したり、また洗い物したり、自分って何しているんだろう?と、思ってしまう時が多々あります。しかし救い主イエスキリストは、社会の最下層の人々として見下げられ、底辺の人を愛されたと思うと、『人を自分よりまさっていると思いなさい。』イエスさまが生まれたことを一番最初に、羊飼いに、あなたたち最高だよ!その言葉を持ってイエスさまが生まれることを告げてくれました。すべての人の救い主。それがクリスマスにお生まれになったイエスキリストです。そしてその羊飼いたちはイエスさまが生まれた馬小屋に出かけてきました。東方の博士たちとは違って何一つ贈り物を手にしていません。その羊飼いはイエスさまの誕生を見て、喜び、礼拝したのです。東方の博士らが来て、黄金、乳香、没薬を贈り物しました。しかし羊飼いは何にもプレゼントすることができないような、そんな貧乏人であった羊飼いを、イエスさまが特別愛してくださった。そして最初にイエスキリストに出会う特権を与えて下さった。イエスさまの深い深いこのクリスマスの愛を感じることができます。続いて有名なみことばで、イザヤ書四十三章一~五節を読んでみたいと思います。

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。』

とあります。これは本当に有名なみことばです。私のような弱い存在に向かって『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』と、私たちに語ってくれています。わたし、そしてあなたを高価でたっとい人。私をあなたを愛していると、言って下さっています。そして

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』

あなたを造り出した方、主が「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』と語って下さっています。

今日皆さんで一回、この聖書の箇所を宣言してみたいと思います。

「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

このみことばを大声で宣言しましょう。

「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

イエスさまが、神の位を捨てて、この地上に来てくださったイエスキリストが「あなたの名を呼んだ。」とあります。イエスキリストはあなたの名前をご存知です。そしてイエスさまが、「あなたはわたしのものだ。」と言って下さっています。今度はさきほどのみことばで「あなた」というところを自分の名前を入れて読んでみましょう。

「わたしは上條実の名を呼んだ。上條実はわたしのもの。」

「イエスキリストは上條実を呼んだ。上條実はイエスキリストのもの。」とても親近感が湧くと思います。二節、三節を読んでみると、

『あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。』

川の中、足元が悪く、水かさが多くて渡るのが難しくて大変なときも助け、決して水はあなたの上にあふれることがない。また、火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがないとあります。絶体絶命なときでもしっかり私を守って下さり滅びることがない。どんな最悪状態でも助けてくれる神です。

『わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。』

敵の手に渡されていたとしても、エジプトをあなたの身代金として買い取って下さる神。他のものを犠牲にしてでも、敵の手から救い出して下さる方だと語っています。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。』

イエスキリストは、あなたは高価で尊い。イエスキリストはあなたを愛している。一人ひとりがどんな状況があったとしても、どんな苦しい中にあったとしても、あなたの名を呼んで、今日イエスさまがあなたを助けてくださるのです。当時、何の力もない、そして夜に、寒い外で夜番をしながら、外敵から守らなければいけない羊飼い、社会的に地位のないような人に、イエス・キリストの誕生を、王の王であり、この全世界の、人類の王であるイエスさまが生まれたということを、一番最初に言ってくださった。これは大きな大きな素晴らしい計画があります。

今日、私たちは、イエス・キリストを信じましょう。私のために、こんな私のために、「わたしはあなたを呼んだ。わたしはあなたのものだ。」そして「あなたを助けてあげるよ。」と、この十字架にかかってくださったイエスさまが、私の神であること。そしてその神を知ることができたことを、心から喜びたいと思います。

聖書の中に、司会者の方がお読み下さった後半のみことばマタイ十三章四十四節に

『天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』

ここに、天のみ国は、畑に隠された宝のようなものだとあります。この当時宝物など大切なものは、地中に隠しました。当時のパレスチナでは、貴重品を守るために、銀行などありませんし、公の保管所があるわけでもなかったので、自分の貴重品を守るために、土地に埋めたようです。お金が必要になったり、宝石類の売買、交換の必要が生じた時には、それらを埋めている場所に出かけ、夜中に壺や箱を掘りだして、必要なものを取り出し、またそれを戻していたようです。
では私たちの宝物とは何でしょう?私たちクリスチャンは、クリスマスにお生まれになったイエスキリスト。私たちを救うために、ご自身を犠牲にしてくださり、永遠の命を与えて下さったイエスキリストが宝物と言えるでしょう。地面に隠されていた宝物がありました。このパレスチナ地方は数百年の間、戦場となっており、様々な敵が攻めて来て、その土地を奪ったりしました。また飢饉などで食料がとれないので、人々が移動してしまったりして、土地の所有者もかわり、自分が埋めた宝物も手放さなければならない状況がありました。そんな中。ある人が土地を掘っていたら、宝物が出た。その宝物を見つけた人は再度宝物を隠して、『大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』というのです。私は、『大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。』というみことばが心の中に残りました。
神の計画の中で、神に選ばれてイエスキリストを信じた私たちですが、その宝物であるイエスキリストを、本当に宝物と思っているだろうか?先ほどものみことばのように、見つけたら大喜びし、自分の持ち物を全部売り払ってでもイエスキリストを、宝物を守っているか考えさせられました。日本には宗教の自由があるし、戦いもないので、イエスキリストが真の宝物となっているのかと思いました。イエスキリストを信じていながら、なんでこんな病気があるんだろうか?こんな問題がなんで起きるのだろうかと、宝物から目が離れてしまっていないだろうかと思いました。年末で忙しさが増してくると、「これもやらなかったらいけない。これもやらなかったらいけない。」と忙しくなると、宝物から目が離れます。私は掃除が苦手なのですが、お風呂の床などを見ると汚いなぁと思い、お風呂の床を磨いたりします。そんなときこんな事を思います。「なんで俺こんな事やってんだ?」自分が家事をし、介護したりするのがつらくて、何で神さまは、私にこんな大変な思いをさせるんだろうとか思ってしまいます。イエスさまにはすべて計画があり、将来と希望があるにもかかわらず、今しか解らないのでつぶやいてしまいます。イエスが宝物にはなっていません、調子が良いときは、イエスキリストは救い主であり、全能な方であり、奇跡を行う方であり、癒しを行う方、また私たちを守ってくださる方などと解っているし、信じています。しかし知らず知らずイエスキリストから目が離れ、なんてで自分がと不信仰になってしまいます。
昨日も子どものクリスマス集会の最後にプレゼント抽選会がありました。買ったら何百円とか、何千円ぐらいの品物が抽選で当たるような時でした。しかし子どもは「これが当たります」と品物を見せられると「おぉ?!」と感動して「ほしいー!」と大声を出して、当たるように願っていました。そして当たったら、「やったー!」と大喜びしていました。その姿を見て、教えられました。このクリスマスの時、初心に帰り、イエスさまを心から信じて、大喜びする自分でありたいと思いました。裁きから天のみ国に入ることができる。その喜びをもう一度受け取りたいと思います。どのくらい皆さん、イエスさまを信じた喜びがありますか?第一コリント十五章三節から五節に、

『私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。』

このみことばはとても大切なみことばです。このクリスマスにお生まれになったイエスキリストは、あなたを救うために、天からこの地に来て下さった。そして神さまご自身が私のために、命を捨てて十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえって下さった。以前二〇〇四年にメル・ギブソン監督が作成した映画で「パッション」という映画がありました。イエス・キリストの受難と十字架刑を描いた物です。それを見ると、十字架刑をとても忠実に、リアルに描かれた作品でした。とても残酷で直視して見ていられない自分があった事を思い出します。鞭打たれて、肉片が飛び、血が流れ、罵倒されたシーンを見て、イエスさまが私のために苦しんで十字架にかかり、私のために身代わりになって下さった。それは私を天のみ国に入れて下さるためであった。そんな大きな犠牲を払って下さったのに、その天のみ国を喜ばず、自分の持ち物をすべて売る犠牲が私にはないと痛切に教えられました。今日私たちはそのしっかりとした神さまの選びを心の底から喜び、感謝して、主にお返ししていきたいと思います。