2021年8月22日(日)新城教会牧師 岡本信弘
マルコによる福音書4章26〜29節
『神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』
ハレルヤ! 主のみ名を心から讃美します。
ネットで参加されている方にも、あらためてごあいさつします。おはようございます。二部制ですけれども、こうして礼拝を持つことができ、主の恵みの中にあることを心から感謝いたします。
八月になって暑い日が続くと思っていたら長雨が続き、各地で大きな災害が出ています。教会の周りはほとんど被害がなく感謝でしたが、先週の水曜日、災害を実感する時がありました。その日は仕事があって、豊橋に車で出掛けて行きました。途中の国道で「通行止め」の表示があって、何のための通行止めかもわからず迂回していくと、次には「冠水のために通行止め」とあり、そこで初めて道路が冠水していることを知りました。次には二十センチくらい冠水していたのですが、お客さんとの打ち合わせの時間が迫っていて少し焦っていた私は、軽バンだったこともあって、そのまま突っ込んで水しぶきを上げながら車を走らせました。そこを通りながら、「教会員の皆さんは大丈夫だったかな?」と心配になって、お祈りさせていただきました。
水害も心配ですが、新型コロナウイルスの感染も爆発的に拡大していて、愛知県も緊急事態宣言が出されるのではないかと言われています。お互い「気をつけましょう」と言っても、皆が同じようにマスクをして、同じように消毒をし、さまざまな感染対策をしているので、あと私たちにできることは、祈ることだけだと思います。最大の防御策は、祈ることともいえます。
すでに八月も後半ですが、八月五日には順先生が七十歳になられ、私は八月十四日で六十五歳になりました。前期高齢者と呼ばれる高齢者の仲間入りをしたわけですが、実際にも歳を感じるようになりました。特に、疲れていても朝早く目が覚めてしまう時には、自分も歳を取ったなぁと思います。同じような経験がある方もおられると思います。
一方で嬉しいこともありました。皆さんに祈っていただき、娘のところに二人目の娘が、私にとっては四人目の孫が元気に誕生しました。じじバカぶりを発揮して写真を一枚お見せしたいと思います。
イザヤ書のみことばにある「琴を奏でる」という個所から、奏(かな)と名付けたようです。ちょっと見ると男の子みたいですが、可愛い女の子です。健やかに成長するよう、お祈りいただければと思います。
さて今日は、先ほど読んでいただいたマルコの福音書から、『生きているクリスチャンとして実を結ぼう』というテーマで共に学んでいきます。
聖書には、信仰成長を植物や果物に例えているところが出てきます。イエスさまご自身が語っている個所もあります。
植物の成長を見ていると、不思議だなぁと思うことがたくさんあります。花を咲かせたり実を実らせたりするまでには、神の法則があります。当たり前のことですけども、種はそのままでは芽を出すことはありません。しかし、地に蒔かれ、水分や養分を吸って初めて芽を出し、成長していきます。
皆さんの中にも家庭菜園をしておられる方もいるかもしれません。種を蒔き、水をやり、しばらくすると芽が出てきたのを見て、収穫を楽しみに肥やしをやる。そうやって、育てておられるのではないでしょうか。
稲を見ると、春に蒔いた種が芽を出し、苗として田に植えて、だんだんと成長して穂に実が入っていく。今まさに、穂に実が入って大きくなっている時期で、農家の人たちは秋に多くの収穫ができることを期待して楽しみにしていると思います。
先ほど道路が冠水していたことをお話ししましたが、ある田んぼで、稲がほとんど全部水に浸かっている様子を見ました。「こんな状態で、水が引いたとしてもちゃんと収穫できるんだろうか」と心配になりました。農作物に大きな被害が出ないことを祈るばかりです。
イスラエルの代表的な果実の一つにブドウがあります。モーセの時代、二人の人がブドウを担いできたという記事がありますが、その一房は二十キロくらいあったそうです。「ということは、一粒はどのくらいの大きさだったかなぁ?」と想像すると楽しくなりますし、そんな大きなブドウを見てみたいという気もしますが、これらのブドウも、しっかり幹につながっていて、水分と養分を吸って成長して大きな実となるわけです。
それでは、種が蒔かれて収穫するまでのプロセスを学んでみたいと思います。
『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。』(ガラテヤ人への手紙六章七節)
ここに、蒔いた種は必ず刈り取ることになるという原則が書かれています。
皆さんは、今までどんな種を蒔いてきましたか。人間には原罪という罪があると聖書は教えています。私も六十五年の人生の中で、数々の、ある意味では悪い種も蒔いてきたと思います。どんなに清い生活をしたいと思っても、人は、知らず知らずのうちに妬んだり、恨んだりするものです。人を激しく憎むことによって、殺人につながってしまうことも時にはあります。それが、原罪といわれるものです。そのことは皆さんもよくご存じだと思います。悪い種であっても成長して刈り取ることになる、ということも私たちは覚えておかなくてはいけません。しかし一方では、神さまが私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことにより、それを信じるクリスチャンは、それまで犯したすべての罪を贖っていただけるのです。それは、ただただ、主のあわれみによるわけです。
パウロはテモテへの手紙でこう語っています。
『私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。』(第一テモテへの手紙一章十三〜十六節)
パウロという人は、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていて(使途の働き一章九節参照)、イエスを信じる者たちを迫害する者で、自分を罪人のかしらと呼んでいました。しかし、主に触れられイエスさまに出会ってあわれみを受け、それまでの罪を赦していただき、異邦人に救いをもたらすための器として選ばれて、リバイバリストとして素晴らしい働きをしました。
私たちも悪い種を蒔いたことがあるかもしれないけれど、それも全部、神さまの恵みによって帳消しにされて今あることを覚えて、そのような恵みにあずかっていることを感謝しましょう。
先週の十五日は終戦記念日でした。日本はかつて大日本帝国として東南アジアや多くの国々を占領しました。その際、各国に神社を建て、強制的に偶像礼拝をさせました。また日本の教会も、宮城遙拝することを強いられ、偶像礼拝をした罪があります。それは紛れもない事実です。
先日リバイバルミッションが配信したJoy Joy Everyday Revival in Summerの中で、望先生がこの事について語っておられました。日本が韓国や東南アジアに対して犯した罪をしっかりと受け止めて、クリスチャンがまず代表して悔い改め、これからは福音の種を東南アジア諸国に届けていく。そのような役割を、この日本の教会が、日本のクリスチャンがしていく必要がある、ということが語られ、共に祈る時を持ちました。戦後七十数年がたちましたが、日本が犯してきた罪がすべて消えたわけではないということも、私たちは覚えておかなくてはいけません。聖書は、偶像礼拝は罪だとはっきりと言っています。
今、新型コロナウイルスがまん延していますが、これも単なる偶然ではなく、今までの偶像礼拝に対する神さまの警告の一つではないかと思わされています。
一方で、そんな悪い種ばかりでなく、良い種も蒔いてきたと思います。それは、伝道の種であり、祈りや奉仕、また献げものという種です。
重要なことは皆さん一人ひとりが、良い種を持っているということを自覚し、それを蒔き続けていくということが大切だということです。
プレイズでは、数十種類のトラクトが発行されていますけれども、私の恵みの証しを書いたトラクトが一種類だけあります(私が書くのは最初で最後かと思いますが…)。
私は、会社に来た営業マンに、(いつもできるとは限りませんが)仕事の話のついでに伝道します。先日は熱心に聞いてくれたので一時間くらい伝道をして、帰る時に「これを読んで」とトラクトを渡しました。
また、私はコンビニによく行きます。アルバイトのお姉さんとも顔見知りになっていて、私が牧師だということを知っていますので、彼女に、「これちょっと読んでみて」と手渡しました。
「私には伝道する力はありません」と思っておられる方でも、友人、知人にトラクト一枚を渡すことはできるかと思います。ある程度知っている人であれば、すぐに「いりません!」とは言わないと思いますので、渡された人が読むかどうかは別として、ぜひ渡してみてください。私はいつでも渡せるように、自分の鞄や車の中に何枚か入れてあります。そこでまず種を蒔くことができると思います。
また、先ほども触れたJoy Joy Everyday Revival in Summerは、七日間開催され、毎日いろいろな内容で配信されました。この働きは、個人への伝道はもちろん、日本の教会全体に対して、また全ての年代の方たちに対しての一つの種蒔きだと感じました。私は大変恵みを受けましたが、皆さんはいかがだったでしょうか。
本来は、私も配信側のスタッフなのですが、若い人たちにほとんどお任せしていて、ただ参加させていただいていました。それを見ながら、「これだけの企画を考え準備をする。本当に大変なことだっただろうな」とつくづく思わされました。私も若い時には様々な奉仕をさせていただき、大変だったこともあったなぁと思い出しながら、これに携わった方々に、本当にご苦労さまと言いたいです。
最終日に有賀先生がメッセージをされました。一九七〇年に、日本のリバイバルを求め、田中政男先生、滝元明先生などの先生方が日本リバイバルクルセードを始められ、その働きを土台として全日本リバイバルミッションが発足し、一九九三年には全日本リバイバル甲子園ミッションが行われました。あれから時が流れもう三十年近くたちましたが、今回のいろんな企画、すべてのことを若い世代が本当に頑張っている姿を見て、すごく感動したと言われていました。私も「アーメン!」と言って、祝福をいただきました。
七日間の配信の中では、若者ワーシップウェーブという、月に一度行われている若者たちの集会も含まれていたのですが、そこで中学生の上條主共(あると)君が賛美リードをし、奏楽者もみな若者であるのを見ました。「私とこの子たちとはどれだけの年齢の差があるのだろう」と考えてみたりして、それだけ時が流れたんだなぁと思いながら、若者たちが頑張っている姿にすごく恵みを受けました。
また、『百円玉に誘われて』というドラマが配信されました。田中政男先生が救われ、献身に導かれた証しを書かれた本を元に作られたのですが、今日の午後も配信されます。劇の中では私の母役の姉妹が、救われた証しをしていました。母は、あんなに美人ではなかったと思いますが…(笑)。母は私が母の胎にいる時、大きなお腹で洗礼を受けました。田中先生は、その三年くらい前から教会に通っていたと聞いていました。