イスラエルにおいては七年毎に安息年が巡ってくるのですが、それを四回続けて四十九年、次の五十年目が「ヨベルの年」でした。これは社会の格差をすべてリセットする、特殊な年であったわけです。その年になると、借金は全て免除され、チャラになるのです。奴隷たちも解放されます。また、生活に困って、先祖からの土地を手放した場合、その土地は元の所有者に戻されました。これを五十年に一度実行せよ、というのが神からの命令でした。
しかしながら、古代イスラエルから、現代イスラエルまで歴史を調べる中で、ヨベルの年がしっかりと守られた記録はない、と言われます。この制度は、貧しい者にとっては福音ですが、富む者にとっては最悪の制度であるからです。
イエスさまの時代、どんな時代背景であったのかと言うと、富む者はどんどん富んで、貧しい者たちはさらに貧しくなる、大きな格差が社会には生じていました。特に、エルサレムの富裕層と、神殿を牛耳る宗教家たちが組んで、市民を圧迫していました。
そんな中、当時、最も貧しいとされた羊飼いたちに、主の誕生が最初に告げ知らされたことは、まさにイザヤが預言した「貧しい人に良い知らせ」でした。
「聖書の世界は、現実よりも、霊的世界に関することだ。」と理解するのですが、もちろん、霊的世界も深く関わっているのですが、社会にある様々な制度と問題を改革する為の救いという側面を意識する必要があります。その中で霊的世界も取り扱われるからです。
ヨベルの年とは、社会全体の格差を解消し、回復するという目的がありました。同時にそれは、霊的解放の年でした。
悪霊どもはどこに強く働きかけているのか。それは「経済の世界」であると言えます。
人は経済界から逃れて生活する事はできません。悪魔は人の最も必要とする、経済を背後に強く働いています。イエスさまは、「神と富とに同時に仕えることはできない。」(マタイ6:24)と言われました。富とは無機質なものではなく、「マモン」という経済神を背景に成り立っている世界なのです。富の背後に悪魔・悪霊どもが強く働いています。
どういう形で働いているのか。それは少数の富裕層と、極度に貧しい世界に生きる貧困層の二層・二極化、すなわち「格差社会」を作って、人々の中に働く戦略です。
しかしたとえ、そんな世界になったとしても、ヨベルの年さえ実行されれば、格差社会は一瞬にしてリセットされ、二極化は解消されます。そうなれば、悪魔は働きの土台を失いますから、社会全体は悪しき者の手から解放されるわけです。
けれども、その制度が正しく守られなかったら、束縛は継続します。イエスさまの時代、それは極度に経済格差が生じていた時代でした。
このような状況を現代に照らし合わせると、まさに、イエスさまの時代と重なります。
数年前、こんな発表がありました。世界人口の半数、三十六億人の持っている資産と、富裕層八人が持っている資産は同じ、というものでした。たった八人が、世界の半分を所有しているのです。
コロナ騒動を通して、世界の格差はさらに広がっています。新型コロナとの戦いを、単に、人類を脅かす感染症との戦いのように考えますが、その視点だけでは不十分です。全ての事象に、経済という軸を入れないと、真実は見えて来ないと言われます。
最近の報道は、オミクロン株一色です。世界は新たなる恐怖に見舞われています。
オミクロン株はどこから発生したと言われているのでしょうか。それは、南アフリカだと言われます。しかし直近の報道では、アフリカで発見される以前から、すでにヨーロッパに存在していたとも言われます。
なぜここに来て、アフリカを持ち出すのでしょうか。ここに、経済という軸を入れると分かる気がします。
現在、世界で最も儲けている人たちは、ワクチンを作って販売している製薬会社です。ファイザー、アストラゼネカ、モデルナとかです。先日、こんな記事がありました。
ところで皆さんは、一分間にいくらぐらい稼ぎますか?あの三大製薬会社は、毎分「七百五十万円の利益」があるそうです。売り上げではないく、利益です。現在、ワクチン会社は大儲けしています。
しかし、三社のワクチンは主に富裕国にだけ提供されているというのです。低所得国へのワクチン接種は、「二パーセント」にとどまっていると言うのです。
そして、最も接種率が低いのがアフリカです。これからワクチン・ビジネスを拡大出来る可能性がある場所はアフリカなのです。オミクロン株は恐ろしいウイルスなのかもしれませんが、一方、ビジネスの手法で、タイミングを計って発表されているのも分かります。
この背後に、格差をさらに広げて、世界を独り占めにし、悪魔の王国を樹立しようとする勢力が働いているのです。
私たちは金と切り離して、生活はできません。しかし貨幣経済の中に、巧みな悪魔の策略がある事を知る必要があるのです。
イエスさまの十二弟子の一人に、「イスカリオテのユダ」という人物がいました。彼はイエスさまの弟子の一人で、ある意味、エリートです。彼はイエスさまの働きに、感動した一人でもあったはずです。また、皆からの人望も厚かったと思われますし、イエスさまからも信頼されて、会計係を仰せつかったわけです。
イエスさまと一緒に行動していると、イエスさまは病人を治したり、悪霊を追い出したりと、大衆の支持を大きく受けて、多分、イエスさまと弟子たちのグルーブには、多くのサポートがあったことでしょう。それらすべてを、ユダが管理していたのです。
その中でユダは、徐々に金に囚われるようになったはずです。金の奴隷ということは、イコール、悪魔の奴隷ということになります。
ある神学者が次のように書いていました。
“貨幣は換算可能という便利な性質から、貨幣の危険な面が生じてきた。それは世にある物の価値は何でも貨幣で測れるという錯覚をもたらすことである。主イエスが十字架にかかる心づもりをしていらした時、ベタニアのマリヤが主のために愛の表現としてささげたナルドの香油を、イスカリオテ・ユダが「三百デナリで売れるのに。」と換算したことがある。人の愛も命も金に換算するという貨幣の罠である。ユダは銀三十枚でイエスを売った。”
ユダは初めはイエスさまに純粋に仕えていたはずです。しかし金を扱うようになって、金に捕らえられて、最終的には、イエスさまを裏切り、銀三十枚で売ってしまったわけです。弟子として選ばれたエリートでもこうなるわけですから、相当気をつけないといけないテーマなはずです。
クリスマスは、世界経済と共にあります。経済の背後に働くマモンに捕まることがないように、主のお生まれは「貧しい者への福音」である事を心にとめるべきです。
数年前、NHKスペシャルで、人はどのようにして、金の奴隷になるのか?という番組をやっていました。たいへん興味深かったです。聖書の概念と共通していましたので、以前にも、紹介したことがあります。
金とは、「あくまでも手段」です。もしも車が三百万円ならば、金はあくまでも、車を手に入れるための「手段」です。
しかし人が金の奴隷となるのは、手段と目的が入れ替わる時だと言うのです。一人の経済学者がこのように語っていました。“お金が道具でなく目的になってしまうんだ。”と。またニューヨークの投資家は“いつのまにか貯め込むことが喜びになってしまう。お金さえあれば未来が安全だと錯覚してしまう。”と言うのです。
日本人は、その傾向が強い国民だと言われます。日本人の貯蓄高は世界でも高いらしいです。貯蓄は悪いことではありませんが、金が多くあったら未来は安全だと考えるのは間違いです。知らないうちに目的と手段が入れ替わるからです。
仕事とは、そもそも金を得る事が目的になりやすいです。知らないうちに、手段と目的が入れ替わってしまうのです。神から与えられた使命感を持っ
て働くことが重要ではないかと思います。
その番組では、ドキッとさせられるようなことを言っていました。「人はどうして金の奴隷となるのか?」
「それは、・・・人は貯蓄によって金の奴隷となる。」と結んでいました。
貯蓄にも目的意識が必要です。そうでないと、貯め込んだら未来は安全だという考えになり、神よりも、金に信頼するようになるからです。知らないうちに、闇の力に捕まえられてしまいます。
教会って素晴らしいです。貯蓄に回す可能性のある金を主にささげて、宣教のために使うからです。
何年か前から新城教会では、ネパール宣教を始めました。ネパールは、最貧国の一つだと言われます。なぜネパールに行って宣教するの?と言われます。
そこには聖書的な意味があるからです。なぜなら福音とは、「貧しい者への福音」であるからです。
このような国に福音を伝える事により、主はご自分の計画を世界に実行してくださると信じます。コロナが明けたら、また、ネパールの山にも行かなくちゃと思います。若い方々、是非とも、ネパール宣教に参加してください。皆さんの人生を大きく変えるきっかけになります。
金を目的とするのではなく、手段として遣わすのです。ネパールに行くことができない方々は、諭吉さんを遣わせばいいです。「諭吉よ、私の代わりにネパールに行け!」と遣わしたら、諭吉さんが働いてくれます。献金は、ある意味において、暗闇の勢力からの解放です。
クリスマスのための献金がなされていますけれど、目的は、神の国の実現と拡大です。
イエスさまの誕生は、ヨベルの年と同期しています。その理解は、とても大切だと思われます。そしてヨベルの年のゴールとは何でしょうか。
それは、極度な格差社会のただ中に起こる、「キリストの再臨」です。
イエスさまがいつ帰って来られるのか分かりません。案外、私たちは世界的患難、試練、困難に目をとめがちですが、根源にヨベルの年の実現があります。格差社会が広がって、少数の人に富が集中し、極度の格差社会が広がるただ中に、世界をリセットするために、イエスさまは帰られるのではないでしょうか。
そのような視点で世界を見ますと、現代は、まさに終末の時代ということができるのかもしれないのです。
現代人は、情報の洪水の中に生きています。しかし、情報に惑わされることなく、しっかりとした神の国の価値観をもって、日々を歩みたいと願います。
オミクロン株で、三発目のワクチンだとか、いろいろ新しいことが起こってくるかもしれません。各自、祈りつつ、選択が必要です。クリスチャンの祈りによって、世界は変えられるからです。
特にこの十二月は、経済という軸を入れて、祈りたいと願っています。
The Gospel「福音」、それは、「貧しい者への福音」です。
さらに、ベツレヘムの近郊で飼われていた羊について、前回、少し触れました。
“エルサレムとベツレヘム及び周辺の野原は、普通の羊が飼われているのではなかった。ユダヤ人の規則によれば、「神殿奉仕のための羊」であった。ベツレヘムの羊飼いたちは、やがてエルサレムの神殿で犠牲となる運命にある羊たちを見守っていたのである。”
ユダヤ教からクリスチャンになり、聖書学者になった人物がそのことについて書いていました。ユダヤ教のミシュナーには、羊を野外で飼っていい時期も決まっていたそうです。それは「後の雨から、初めの雨の期間」、三月から十一月くらいの期間です。
羊飼いに天使が現れた時、彼らはすぐに理解して、救い主に会いに出かけました。彼らには、メシヤ預言に関する知識があったということです。普通、羊飼いは、貧しく、教育もない人たちでした。
しかしベツレヘムの羊飼いたちは、預言に関して知識を持つ、特別な羊飼いであった可能性が強いです。
そして羊飼いたちが聞いたメッセージは、動物犠牲の終結を告げ知らせる、被造物全体への福音であったのです。
福音は、神が創造されたすべての被造物に対する良い知らせです。ヨベルの年とは、被造物全体が解放される年でもあるからです。
「すべての造られたものに福音を伝えなさい。」新改訳聖書では、残念ながら「造られた者」と、人になっています。しかし英語の聖書は“preach the Gospel to every creature.”とか、”to all creation.”と、「すべての被造物」になっています。なぜならば、ギリシャ語では「クティシス/創造」という言葉が使われているからです。
「地の果てにまで福音を伝えろ!」とあります。昔の人たちは、地球は平らで、端っこに行ったら、滝壺に落ちると考えていました。人の住んでいない地の果てにまで行け、とイエスさまは語られました。人以外の被造物しか存在しない場所まで、福音を伝えろと語られたのは、福音は人から始まり、すべての被造物に至るものであるからです。