2022年2月13日(日)新城教会主任牧師 滝元順
使徒の働き1章8節
『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」』列王記 第二 4章4節〜5節
『家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。』
皆さん、おはようございます。ハレルヤ!仲一バンドの演奏、素直で素晴らしかったですね。私も、中学生時代を思い出しました。遠い昔のことですけれど・・。若い時代にイエスさまを知り共に歩めるのは、人生にとって最も幸せなことです。
コロナがなかなか収まらなくて、皆さんもご苦労されていると思うのですが、新城教会に登録されている方々は七百名ぐらいおられますから、毎週、いろいろなことがあります。職場でクラスターに巻き込まれたとか、濃厚接触に認定されたとか、様々です。ある少年は濃厚接触者に三回なりました。先週は、ついに陽性かと思われましたが、大丈夫だったとか、本当に祈らざるを得ない日々が続いています。しかし今まで、主が守ってくださったことを、心から感謝しています。
聖書の世界には、何千年もの歴史があります。創世記は世界の始まりから記録されています。何千年というスパンで聖書は成立しています。新約聖書でも二千年、経っています。そこに記録されている事柄を、どのようにして信用できるのでしょうか。もちろん私たちは、聖書が神のことばであると信じていますが、記録されて長く経っていますから、原典では神の言葉であっても、途中で誰かが書き加えたのでは、削除したのではないか、また、うまくでっち上げたのではないかと言う人もいます。
しかし現代において、聖書が真実であると分かるのは、聖書の時代と同様に、聖霊さまが今も働いてくださるのを目撃し、体験するからです。初代教会と同じように、聖霊が注がれる現象が現代でも起こるのは、聖書の世界が真実であり、内容が事実である証明です。
今日は「二月十三日」ですが、この日は新城教会にとって、大きな記念日、忘れられない日です。なぜならば、一九九二年二月十三日に、聖霊さまがこの教会に、激しく訪れてくださったからです。
その時は折しも、「甲子園ミッション」という、大会を控えていて、事務所が甲子園球場のすぐ近くに開設された週でした。私の父を中心とするリバイバルクルセードのメンバーたちがその大会を計画したのですが、甲子園球場は六万人ぐらいの収容人数があります。活動を始めて分かったことは、考える以上にたいへんな働きであると言うことでした。周囲には先行きが怪しい暗い雰囲気が漂っていました。
私は、「祈るしかない!」という気分になりました。その週、ちょうど愛知県民の森で「役員・信徒聖会」が開かれていました。私たちはその集会のスタッフとして働いていたのですが、聖会後、夜中に愛知県民の森に入って一週間にわたり、真剣に祈りました。「これからどうしたらいいのでしょうか??」と主を求めて、真剣に祈りました。自分たちの力では、どうすることもできませんでした。それで「聖霊さま、来てください。」と真剣に祈りました。
九十二年二月十三日は木曜日だったと記憶していますが、夜中の十一時頃、使徒の働き二章に記録されているのと同じように、祈っていると少し離れた所から音が聞こえ始めました。「ゴーッ」という音でした。時々、県民の森上空は飛行機が通過しますから、「飛行機のエンジン音だ。」と思っていました。しかしそれが私たちに近づいてきました。
すでに一週間近く、徹夜祈祷会をやっていましたから、みんな疲れていました。その晩の祈祷会、声を出して祈る人はいませんでした。しかし音が聞こえ始めてから、皆が熱く祈り始めたのです。「リバイバルを起こしてください!聖霊さま来てください!」と祈りがどんどん激しくなって行きました。
するとゴーッという響きが、祈りの輪の中に突然、入ってきました。その夜の祈祷会には、たった八人しか参加していませんでした。しかし、私を含めてほとんどの人が、聖霊さまの力に圧倒されて、硬いコンクリートの上に倒されてしまいました。本当にびっくりしました。それは自分たちの意思に全く反する現象でした。
私はそのことを「主が立ち上がられた日」という本に記録しました。まだ読んだことがない方は、ぜひ、お読みになっていただきたいと思います。本の表紙に赤い屋根の小屋がありますが、ここが主が訪れてくださった場所です。
それから、この教会に聖霊さまが力強く働いてくださるようになりました。甲子園ミッションは、多くの困難もありましたが、それらをすべて押しのけていきました。準備期間中、自分であって自分でないような気分でした。聖霊さまがブルドーザーのように、困難の山を押しのけてしまわれました。
甲子園ミッションは、三日間の集会で、延べ十二万人近くが集まりました。愛知県民の森に注がれた聖霊の働きが、球場レベルで再現されたような、すごい集会になりました。甲子園ミッションは、聖霊さまの強いバックアップによってなされた、歴史的な集りとなりました。
詩篇七十六篇八節に、
『天からあなたの宣告が聞こえると、地は恐れて、沈黙しました。神が、さばきのために、地の全ての貧しい者たちを救うために、立ち上がられたそのときに。』
とありますが、まさに、主が霊的に貧しい日本の民を助けるために、天から下りて来てくださった瞬間でした。
今日は記念すべき、二月十三日です。午後から、愛知県民の森で記念の祈祷会を行います。このチャンスに、是非とも参加して力を受けて下さい。聖霊体験は重要です。
現代の教会は、聖書のことばを重要視します。それは最も大切な事であり、信仰の基礎です。しかし、聖霊が実際に今も働いてくださるという、「体験」となると、二の足を踏んでいます。けれども、聖霊の実際的働き・体験は、みことばを確信させるための、重要な鍵なのです。
詩篇二十四篇七節、八節に、
『門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。』
とありますが、九十二年二月十三日、主が入ってこられた瞬間でした。いまでも主は、私たちのただ中に働いておられます。
聖霊体験は、結果的にどこに繋がるのでしょうか。ただ感情の高まりだけで終わるものでしょうか。そうではありません。先ほど読んでいただきましたが、
『聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」』とあるように、「世界宣教」に繋がるのです。
この教会に聖霊が注がれた結果、どのようになって行ったのでしょうか。ご存知のように、新城教会も、リバイバルミッションも、国内だけの働きだけでなく、世界に押し出されて行きました。
私たちは毎年のように、ネパールのチェパン族の中で宣教活動を続けております。今、コロナで行くことができませんが、チェパン族の為の働きは、まさに、「地の果て宣教」であると思われます。
その他にも、ペルーで、アンデスからきた貧しいインディオの人たちのただ中に入って、医療ミッションを行ったり、イスラエルでも苦しい立場にあるパレスチナ難民の方々への宣教に遣わされています。
また、日本と敵対しているアジアの諸国、とりわけ韓国の働きにも導かれ、北朝鮮の方々のために祈るようになったり、ハワイで、アメリカで、ヨーロッパで、世界の様々な国々、地域で、世界宣教へと導かれました。
「聖霊を受けたのだから、世界宣教をやらなくちゃね!」と、意図的に計画したことではありません。自然に世界へと、戸が開かれて、今日があるのです。これはまさに、聖霊さまの働きそのものです。
ということは、今後も主が開かれた路線を進み、さらに聖霊を求めなければいけない事を教えられます。
九二年二月に聖霊が注がれて、私はある意味、鬼の首を取ったような気分になりました。聖書には記されているものの、今まで見たことも、体験したこともないことが、私たちのただ中に起こったからです。「リバイバルはすぐに起きる!」と思いました。
しかしその後事態は、私たちの期待とは違う方向に進んでいきました。そのきっかけが、一つのみことばでした。それは、「第二列王記四章一節から七節」のみことばでした。
聖霊が注がれた後、私は東北で集会があり、出向いて行きました。東北新幹線の車内で、このみことばを鮮やかに主から教えられました。
「リバイバルのために働く前に、この内容をしっかりと理解し、実践しなさい!」と、第二列王記の四章一節から七節を与えてくださいました。
いつも申し上げていますように、旧約聖書は、新約聖書に起る実体の影となっています。
第二列王記四章一節から七節は、預言者エリシャが、やもめの家族を油を増やす奇跡によって助けたというストーリーです。一節から読んでみますと、こうなっています。
『預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」』
ここにやもめの一家が出てきますが、彼女のご主人はエリシャという強力な預言者の弟子の一人でした。エリシャには弟子たちがいたようです。そもそも預言者とは、神から直接、言葉を受け取り、人々に伝える重要な働きをする者たちでした。いわば、神に最も近い存在でした。
しかしながら、その預言者の一人が死に、家族の上に、大きな不幸が臨んでいたのです。
預言者のご主人の死後、残された奥さんと子どもたちは、毎日のように債権者に苦しめられていました。債権者たちは、借金返済の代わりに、子どもたちを奴隷にしようと狙っていたのです。
これを現代的に言えば、クリスチャン家庭に起こる問題と重なります。クリスチャン家族の中にも、様々な問題が起こり得るということです。
私も二年半ぐらいに渡って、大きな試練に見舞われています。私は牧師をしていますし、様々な、主のための働きをしているのですが、それにもかかわらず、家内に重大な病が発見され、皆さんにも助けていただき、戦っています。
しかし先日、家内は皆さんの前で証しすることができました。本当に感謝しています。
イエスさまを信じたら、災いは起こらないのかと言ったら、そうでもないです。エリシャの弟子の家族と同じように、様々な問題を体験することがあります。
けれども、このストーリーは、ただ神の奇跡を紹介するだけではなく、問題を抱えた家族が、どのようにして問題を解決したのかという、プロセスと秘訣をも教えています。
この物語を慎重に読み進んでいく時、現代においても、それが適応可能である事に気づかされます。
続いて二節、
『エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」』
このストーリーは、実際に油が増えたという奇跡の物語です。しかし「油」とは、新約聖書の影となっています。なぜなら新約聖書では、「しばしば油は聖霊の象徴として描かれている」からです。ですからエリシャが起こした、油が増える奇跡は、油を「聖霊」と置き換え、理解することが可能なわけです。どのように聖霊に満たされるのか、問題を解決できるのかという秘訣をも示していると言えます。
私はこのメッセージを、毎年一回は語ることにしています。なぜならば、九二年に、主から強烈に教えられたからです。「リバイバルのために立ち上がる前に、まずは、このみことばを学び実行して、わたしについてきなさい!」と教えられたからです。この内容は本当に重要であると信じています。