金持ちになった気分はいかがでしたか。いや〜、金持ちになって、世界を手に入れても、その後の世界でこんな目に遭ったら、金持ちにならないほうがいいなと感じたでしょう。
このストーリーの意味は、金持ちは地獄に落ちる!天国は貧乏人たちのものだ!と、共産主義者のように理解する人がいますが、決してそうではありません。
また、金持ちは、ラザロに対して慈悲深くなかったから、こんな目に遭ったと考える人もいます。
しかしそうでもないのです。なぜなら、この金持ちさん、もしかしたら結構、心優しい人ではなかったかと思われます。十九節に『金持ちの家の門前にラザロというできものだらけの貧しい人が寝ていた。』と記されています。これを原文で見ますと、ラザロは自分で動くことができず、誰かに運ばれて、門前に置かれたという受動的意味なのです。
例えば皆さんの家の前に、ラザロのような人物が毎日連れて来られて置かれたらどうでしょう。一日くらいは良いかもしれませんが、毎日、置かれたら、現代ならば警察に通報します。しかしこの金持は、別に、ラザロを追い払うわけでもなく、玄関先に連れて来られても文句を言いませんでした。この家の食卓から落ちるもので腹を満たしたいとラザロが思っていたので、残飯を与えていたわけです。
当時の富裕層は、食事の時に手を拭いたそうです。手拭きはおしぼりとかではなくて、パンで拭いたそうです。手を拭いたパンは外に投げたそうです。それが犬などの食糧になっていたのです。ラザロはそれを食べていたようです。金持ちはラザロの存在をある意味、容認していたのです。
金持ちは生まれつきの富裕層に属する人物でした。当時は階級制度がはっきりと区別されていた時代でした。にもかかわらず、貧困層のラザロの面倒を見ていたことになります。ですから、金持ちはラザロに対して、哀れみの心がなかったとも言えないわけです。

それではこれは、どういう意味のストーリーかということです。
二十二節、「しばらくして、この貧しい人は死に、みつかいたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた死んで葬られた。」とあります。ここまでの二人の人生は、一般人と全く同じ展開です。

しかし死んだ瞬間からは違いました。ラザロは葬式なんかなかったと思われます。どこかに捨てられたかと思います。金持ちには、壮大な葬式が営まれたのでしょう。
けれども、死んだ後の二人の扱いと道は違いました。我々もやがて死ぬわけですが、死ぬ瞬間、何が起こるのでしょうか。
ラザロの所には、み使いたちが来て、アブラハムの懐に連れて行きました。「アブラハムの懐」とは、別名「パラダイス」です。これは死後の世界を表します。
金持ちは「死んで葬られた」とはあり、葬式があったことは分かります。しかしその後、誰がどこに連れ去ったのかは、この時点では分かりません。
しかし次からの記述から分かります。十六章二十三節、

『金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。』

ここからは、「死後の世界の話」に移ります。イエスさまは神の子でしたから、死後の世界までご存知だったわけです。
先ほど、「自分を金持ちに置き換えてみませんか?」と言いましたけれど、置き換えたくなくなりますね。
『金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、』遠くのほうにラザロが見えたと言うのです。なんと、死後の世界は、二つの領域が存在するようです。
それは「パラダイス」と、金持ちが行った苦しみの場所「ハデス」という、二つの場所です。
死後の世界では、互いにコミュニケーションが可能みたいです。会話だけは可能みたいです。しかしそこは、地上とは断絶した世界です。そのような場所があるとイエスさまは告げられました。
ここでどんな会話が交わされたのかというと、金持ちは『父アブラハムよ、私を憐れんでラザロをお送りください。ラザロが指先に水を浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』と叫んでいます。
するとアブラハムは、『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。』と答えました。死んだ瞬間、金持ちは苦しみのただ中に落ち込んだみたいです。

『そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』

死後の世界には二つの領域があって、互いに会話はできるものの、その間には淵があって、互いに越えることができないようです。その為に、ラザロを金持ちの領域に遣わすことはできないと拒否されています。

金持ちはさらに食い下がって、『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。』と懇願しています。
これは、先祖たちが今何を、叫んでいるのかを告げています。日本人は先祖に大きな関心があります。八月には盆があって、先祖たちについて考えます。日本の先祖たちの位置づけは、金持ちの置かれている場所と同じ苦しみの場所です。盆の目的は、苦しんでいる先祖たちを何とかしなくては!という発想です。

金持ちは死後、すぐに気付いたことがありました。それは「俺の考えは間違っていた!」ということでした。そして「なんとか自分の親族たち、兄弟たちがこんな苦しい場所に来ないように、ラザロをよみがえらせて遣わしてください。」と懇願したのです。
しかし、アブラハムの答えは、つれないものでした。

『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』

拒否されています。それでもなんとか食い下がって、金持ちはアブラハムに言いました。

『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

ここでピシャッと完全に断られています。
これはどういう意味なのでしょうか?そもそも、この金持ちとは、何者なのでしょうか。

文脈を見ると、誰に語られているのかが分かります。たぶん、これは、イスラエルの指導者階級の一つ、パリサイ派の人たちに語られているのではないかと思われます。しかし前回もお話ししたように、聖書は「調べて読め」とあります。
よく調べると、当時の人たちならば、すぐに分かる情報がここには含まれているのです。現代人では分からないけれど、イエスさまから直接話を聞いた人たちには、すぐに理解できる情報が含まれているのです。
「金持ちとは誰か?」に関して、よく調べると次のようになります。

“興味深いことに、「ルカ十六章十九節」に金持ちが「紫と上質の亜麻布」を着ていたという、驚くべき手がかりが与えられている。それは、出エジプト記二十八章八節の祭司の服装であり、イエス時代、「サドカイ派」の祭司たちが着ていた衣装であった。”

当時、イスラエルの指導者階級には、パリサイ派だけでなくて、サドカイ派という人たちがいました。パリサイ派は、支配者階級であったことは間違いありませんが庶民派で、サドカイ派は紫の衣を着た祭司階級で、彼らは心底、貴族でした。
エルサレムには「サンヘドリン」という議会があり、七十人の議員で構成されていました。そのほとんどが、サドカイ派によって占められていたと言われます。ここに出てくる「金持ち」とは、サドカイ派の人物だと分かります。そして、彼らがどのような考えを持った人たちであったのかを知る時に、金持ちとラザロのストーリーが、サドカイ派に対して語られたものである事を理解できます。
サドカイ派の人たちは、次のような考え方を持っていました。

サドカイ人たちは、『宗教家であると共に、エルサレムの最上流階級、貴族でした。彼らは「死者の復活を否定」し、「死後のいのちも否定」していました。魂は死後、滅亡すると主張していました。そして、霊的世界、「み使い、悪霊なども否定」し、さらに、宗教よりも政治に関心を強く持っており、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の手先となり、莫大な利益を得ていた』というのです。
彼らは、「死後の世界なんかない。み使いなんかいない。」と豪語していました。しかしパリサイ派は、逆に、サドカイ派の主張とは真逆の考え方を持っていて、庶民に受け入れられていました。

イエスさまの語られた話は、サドカイ派の金持ちが死んだという話です。
彼が死んだ瞬間、何が起こったのでしょうか?
それは彼らが信じていたのとは、全く真逆の世界が広がっていたのです。死後の世界は実在し、魂は不滅であって、慰めの場所もあれば、苦しみの場所もありました。そして、み使いもいれば、悪霊たちもいたのです。サドカイ派が考えていたのとは、全く、逆の世界が存在していたということです。
イエスさまがこのストーリーを話し始められた際、人々はすぐに「あっ、サドカイ派に当てつけて話している!」と気づいたはずです。死とは、彼らの理解に反して、シビアな現実がある事を告げられたわけです。
彼らはローマ帝国を背景に、イスラエルにおいて最高の権力を保持していました。その地位を利用して、庶民から金を巻き上げ、毎日、贅沢な暮らしをしていました。イエスさまは彼らに、地上だけに目を留めるのではなく、永遠について考えるよう、忠告したかったのです。

金持ちが「ゲヘナに落ちた理由」は、アブラハムと金持ちの会話から、二つある事がわかります。一つは、金持ちには、悔い改めがなかったという点です。キリスト教の救いの条件は、「悔い改め」です。自分の罪を認めて、神の前に出ることです。金持ちは神の前に、自らの間違いを悔い改めていなかったという事について、彼は死後、すぐにその点に気づかされたのですが、残念ながら、悔い改めのチャンスは過ぎていました。

そして、『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』とアブラハムに指摘されましたが、もう一つの理由はその点にありました。この、二つ目の指摘は何を意味するのでしょうか。

旧約聖書は四十七巻ありますが、サドカイ派は「モーセ五書」しか聖典としての認めていませんでした。しかしパリサイ派は、モーセ五書も、預言書も含めて聖典として認めていました。アブラハムは「モーセ五書だけではなく、預言者の書も認めない限り、救われません」と告げているのです。

これは何を意味するのでしょうか。それは旧約聖書全体を認めない限り、メシアが誰であるのかを知ることはできないと言う意味です。
当時のサドカイ派の人たちが「金持ちとラザロ」のストーリーを聞けば、イエスさまが何を指摘しているのか、すぐに理解したはずです。

イエスさまがどういう方であるのか。モーセと預言者たちの書、旧約聖書全体から理解できるのです。イエスさまは、ただの人ではなく、「キリスト」すなわち、メシア・救い主です。
「悔い改めない」とは、「イエスをメシアとして認めない」事を意味します。「イエスがメシアであると認めること」が「悔い改め」なのです。
これはサドカイ派に限ったことではありません。人類全体にも言えることです。死後、神の領域で生きるために必要なことは何か。それは、「イエスはメシアである。救い主である。」と信じるか否かにかかっているのです。

『人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。』

「自分自身を失い、損じる」とは、イエスがメシアであると認めないことです。それが死後の世界を決定づける、唯一の条件だからです。

今日、心からおすすめしたいのは、イエスさまがキリストであり、「イエスさま以外に道はない」と信じることです。いくら施しをしたり、修行をしても、盆の理念を実践しても、救いはないのです。

以前にもお話ししましたけれど、世界で最も善行を積み、日本人が考える盆の理念を実践した人物は誰かと言うと、仏教の発祥地、インドで隣人愛という修行を積んだ「マザー・テレサ」以外にはないと思われます。誰もマザー・テレサ以上のことはできません。
しかしこのマザー・テレサ、晩年に次のような手紙をある人に送っています。それが現在、本になって出版されています。