〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
ほかに道はない!イエス・リスト

2022年7月31日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ヨハネの福音書 14章6節
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ルカの福音書 9章25節
人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!
和基君のすばらしい演奏を聞きましたが、クリスチャン・ミュージシャンたちのために是非、祈ってあげてください。
今日は七月の三十一日ですが、私にとって、大変思い出深い日です。私は霊感とか強くなく、幻を見たとか不思議な体験は少ないです。現実的な男です。しかし一度だけ、霊的体験というか、現実的に主が生きておられる事を体験したことがあります。
それは一九九二年七月三十一日でした。その年、七月の初めには霊的戦いが始まり、甲子園ミッションも動き始めていて、様々な問題が起こって、これからどうなるのかと、たいへん心が騒ぎ、暗かったのを覚えています。
その日の午後、名古屋で家庭集会がありました。集会が始まる前、少し時間があったので、また、暑かったので、木陰に車を停めて他の三人のスタッフたちと休んでいました。午後二時くらいでした。不思議な風が吹いてきて、右と左の木が交互に揺れ始めました。最初、右の木だけが揺れて、やがてピタッと止まると、左が揺れ始めて、不思議な風が交互に吹いて来ました。その時、ふっと空を見上げたら、真っ青な空に白い雲が浮かんでいました。
すると雲の中から、突然、十字架が飛び出て来て、引っ込んでいきました。びっくりしていると、もう一度、雲の風景のただ中に十字架が現れました。あまりにもびっくりして、すぐに周りの人たちに話すことはできませんでした。
雅也先生が一緒にいたのですが、帰りの車の中で「順先生、空に何か見ましたか?」と聞かれました。私は空の一点を見つめて、すごい顔をしていたらしいのです。
その日、十字架を見た体験は、私の人生に大きなインパクトとなりました。イエスさまが真実で、救い主であることが、心の中に焼き付けられて生き続けています。
空を見上げてみてください。私は今日を、勝手に十字架記念日としています。

最近、コロナ感染がまた増えて、先週は日本が世界一コロナ患者が発生した国だと言われました。これからどうなってしまうのか心配です。しかしあまり心配しないほうがいいのです。現在のコロナは、最初のコロナとは別物で、別の病気です。
昨日、政府が事実上、コロナ終結をほのめかしました。ご存知でしょうか。それは「新型コロナ『二類相当』見直しへ 第七波収束後、全数把握議論」という内容でした。これが何を意味するのかと言うと、現在新型コロナは、感染症の第二類というところに分類されています。それはコレラよりも上の分類です。それを見直すとは、二類から五類に落とすということです。そうすると、新型コロナは、インフルエンザと同じ分類となります。恐ろしい新型コロナも、だんだん優しくなって、インフルエンザと同じぐらいの勢力になったことを意味します。
ですから、二年前のコロナと同じように考えると、はまってしまいます。祈りの結果、新型コロナも人類と和解してきたということではないでしょうか。主に感謝したほうが良さそうです。やがて、必ず勝利します。ですから、あまり心配し過ぎないようにしましょう。

今週は私にとっては大変素晴らしい週です。それは何かと言いますと、別に大したことではないのですが、私の誕生日の週だからです。八月五日で私は七十一歳になります。昨日も孫娘に「来週誕生日だよね?じいじ、何歳になるの?」と聞かれたので、「七十一歳だよ」と答えたら、「すごい歳だね。」と言われました。人生って、あっというまですね。
しかし私、もしかしたら小学校二年生の時に、死んでいたのかもしれないのです。死にかけたことってありますか?もう駄目だ!これは死ぬぞ!という体験です。

私の幼少時代、親もあんまり構ってくれなくて、小学二年生の夏休み、一人で豊川に網を持って、魚取りしながら泳ぎに行きました。それも桜淵の加藤ボートの前に行きました。自分では泳げるつもりでしたが、しばらく泳いで、ちょっと深みの方に行きました。その場所は川底がすり鉢状になっていて、足下の砂がサラサラと落ちて、ズボッとはまり込んでしまいました。焦って口を開けて、水を飲んでしまいました。一杯目は喉が渇いていて美味しかったです。でも二杯、三杯水を飲んだら、どんどん体が沈んで、息ができなくて、小学二年生でも、「死ぬな・・」と思いました。水面がキラキラしていて、だんだん意識が薄れていく経験をしました。「これで終わりだな。短い人生だったな…。」と考える余裕はなかったですが、力尽きそうになった瞬間、奇跡が起きました。背中に熱いものを感じて、体が浮き上がって水面にバンッと出ました。奇跡だ!と思ったら、みよちゃんという小学六年生の背の大きなお姉ちゃんが、「あんた何やっとるだん。」と言って、私を抱き上げていました。彼女のおへそくらいの深さの所で、私は溺れていたわけです。
ぐったりした私を母、清子の所に連れて行ってくれました。それで彼女は何と母に言ったのかと言うと、この三河弁が分かる人は本物の三河人です。「順があぷあぷこいとった」と言いました。意味、分かりますか?岡本正広さんくらいしか分からないかもしれません。それは「溺れていた。」という三河弁です。「私が助けた。」と、彼女は自慢げに、私を母に引き渡してくれました。母は、「ありがとう。みよちゃん、ありがとう。」と、何度もお礼を言っていました。その日母は、なんとなく、虫の知らせと言うのでしょうか。私に何か起きるのではないかと感じて祈っていたそうです。
母はお礼を言うと共に、財布の中からお金をとり出して、みよちゃんに手渡していました。しかしその時、私はちょっと傷つきました。母がみよちゃんにいくら渡したのかと言ったら、昔の五十円玉って知っていますか?それを一枚渡していました。私はそれを見ながら、「俺の命って、たったの五十円かよ」と思いました。私の価値は五十円です。それを鮮明に覚えています。
あの日、助かったから、今日があります。二、三分遅れていたら死んでいただろうと思います。そうしたら、私は今日ここにはいません。本当に人生は不思議なものです。また時間が過ぎるのが早いです。

先日、インターネットを見ていたら、三十年前のグロリアシンガーズが歌っている映像が流れていました。一九九二年は賛美が盛り上がりまして、「ジェリコの歌声」という小坂忠さんたちと一緒に開催した、一万人賛美集会がありました。そこで歌っている映像が流れていました。三十年前を思い出して、見ていただきたいと思います。そこで新城教会のメンバーたちが共に歌っています。どなたでしょうか?

なかなか素晴らしい賛美です。主の臨在が溢れています。しかし人生は早いものです。三十年経つと、こんなにも人は変わるのです。けれども、私たちはずっと一つの道を歩いてきました。

先ほど読んだ聖書のことば、今日のメッセージの結論でもあります。ちょっとご一緒に読んでみましょう。これは聖書の中でも重要な二節です。

ヨハネの福音書十四章六節、
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』

ルカの福音書九章二十五節、
『人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。』

これは人類全体に投げかけられている言葉で、ある意味、人生の結論です。「キリスト教って、独善的ですね。これしか道はないって言い切ってるじゃないですか。」と時々、言われます。しかし逆を言えば、ここまで言い切ってもらえるのは、大きな希望です。「救われるかもしれない・・・、無理かもしれない・・・、救いはあなたの努力次第、奉仕次第」とか、統一教会のように「献金次第」ではないからです。
『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』・・この道以外には、神に出会う道はないと断言しています。イエスさまに注目したら、必ず、神のもとに行くことができるのです。

そしてもう一つ、『人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。』
現在、世界の中心は経済です。コロナ旋風の中でも、何しろ経済優先です。しかし全世界を手に入れたとしても、自分自身、命を損じたら何もなりません。この二つの言葉を、深く心に刻む必要があります。イエスさま以外に道はないのです。私はそれを体験し続けてきました。また世界中のクリスチャンたちが、体験しているわけです。
イエスと出会って、人生が変わった人物は歴史上数えきれません。一度しかない人生、この道を試してみないといけないです。

先程、死にかけた話をしましたが、人はだれでも、やがて死にます。死後、どうなるのでしょうか。
死後について、イエスさまは、はっきりと語られました。私たちの人生は、地上だけで終わりではありません。その後も、また、その後もあるのです。永遠に続くのです。
クリスチャンならば、よく知っていると思いますけれど、「金持ちとラザロ」のストーリーです。
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このストーリーにはいろいろな解釈がありまして、一つはイエスさまが創作された例え話だという説です。二番目は、このストーリーは、そもそもイスラエルではすでに多くの人たちが知っていた伝説で、イエスさまがそれを拝借して、使われたとする説。そしてもう一つは、「実話」という見解です。
ルカの福音書十五章、十六章を見ますと、イエスさまは結構、例え話をされていますから、これも例え話の一つかと思うかもしれません。しかし最初の部分を読むと、イエスさまは「ある金持ちがいた。」と断言しています。そして「ラザロ」という実名が出ています。イエスさまが例え話をされる時には、「ラザロ」のような個人名を挿入することはありませんでした。ですから、この話は「実話」、本当にあった出来事です。今も金持ちとラザロは、死後の世界にいるはずです。このストーリーを、読んでみたいと思うのですが、今日は「聴くドラマ聖書」で聴いてみましょう。私はこの頃、目が悪くて、聖書を読むよりも、「聴くドラマ聖書」をよく使います。これはすごくよくできていて、ドリアさんとか、リバイバル聖書神学校の卒業生が韓国の団体と一緒に作ったものです。有名な俳優・声優さんたちを使っているので、たいへんドラマチックです。十六章十九節から三十一節まで、ご一緒に聴いてみたいと思います。
しかし聴き方として、登場人物が三人出てきます。アブラハムという、イスラエルの元祖ご先祖さん、ラザロ、そして金持ちです。今日は、自分が「金持ち」になったつもりで聞いていただきたいと思います。そうすると、さらにリアリティが出て来ます。それでは、よろしくお願いいたします。

“ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”