2022年8月21(日)新城教会副牧師 滝川充彦
民数記14章6〜9節
『すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』
ハレルヤ!今日、皆さまとみことばを受け取る時が与えられていることを心から感謝します。先ほどの森バンドの賛美も本当に素晴らしく、イエスさまに出会って救われて、もうそれより前には戻りたくないと歌っておられましたが、今私たちは救われて、神さまご自身の恵みの中で、愛の中で生かされて、そしてみことばをいただくことができることを心から感謝したいと思います。
昨日は、結婚式が行われました。結婚式前の写真を撮らせていただいたのですが、本当に幸せそうですね。たくさんの方々がお祝いにかけつけられ、本当に神さまの祝福が溢れている時でありました。お二人にもう一度お祝いの拍手をささげましょう。おめでとうございます。
そして先日は、サンセットアロハが行われました。祈っていただいて本当に祝福されました。当日は突然の台風を神さまが送ってくださって、急遽、会場が中になりましたけども、その中にも神さまご自身のみこころが現されて、祝福された時でありました。
このようなアウトドアキッチンをホールに用意し、また中庭ではマスのつかみ取り。すごいですね。獲ったマスをバーベキューにして即食べるという事で、とても楽しい時を過ごしました。またこのように子ども達も喜んで過ごしました。
またコンサートも大変素晴らしく、滝元堅志君をはじめ、ウクレレのTomokiさん、またDJ.DAISHIZENさんが素晴らしいコンサートを届けてくださいました。プロのDJが新城に来たというのは初めてのことではないかと言われておりましたけども、記念すべき主の恵みの時でありました。
この夏、七月、八月と、神さまが私たちの前を力強く突き進んで、素晴らしい勝利と祝福を与えてくださっている、注いでくださっている、そのようなことを覚えさせられます。更に神さまご自身が私たちの前を進み続けてくださいますが、今日はその主についていくための励ましのみことばとして受け取っていければと願わされ、示され、みことばを用意させていただいております。
その神さまご自身を特に「見る目」、「新しい目」というものを私たちはいただきたいということを私自身教えられ、願わされております。今日は「目」ということをテーマにして、みことばを受け取っていきたいと思います。
人間の目の仕組みについてですが、人間の目も、カメラのレンズもそうですが、光を取り込んで様々な色や形を像として脳に伝えて見ているわけですね。光の情報を取り入れているというわけであります。神さまが目を造られて、素晴らしい機能を与えてくださったなぁと思います。では私たちは今、物を見て、それらを理解していると思っていますよね。
ではここでクイズタイムをしたいと思います。
この三角形の中にある線、どちらが長いように見えますか?上ですか?下ですか?実はこれ同じ長さです。では、次はどうでしょうか。
上と下どちらが長く見えますか?下ですか? 同じなんですよね。では、この形はどうでしょうか?
どちらが大きく見えますか?下?はい、同じですね。
では続いて、このオレンジの丸は、どちらが大きく見えますか?右か左か?右ですか?はい、同じですね。
では続いてこちらはどうでしょうか?
皆さんには何が見えますか?おじいさんがいますか?皆さんの目は大丈夫ですか?見えますか?
はい、皆さんが見る焦点によって、同じ絵の中に色んな絵が見えてきますね。
では、こちらはどうでしょう?何が見えますでしょうか?
星。パックマン!あぁ、そういうふうにも見えますね。人それぞれ、同じ絵を見ても違った理解をしていますね。また線はないですけど逆の三角形なんかも見えてきますね。ないものが、あるように、私たちの目には見えてくるというわけです。
私たちは見えていると思っても見えていないこともあるのではないか。また私たちは物事を、様々なものを、自分が見たいように見ている、理解している、判断している。そのような者ではないかと思います。
神さまは光であって、その光なる神さまご自身を、私たちは見つめながら毎日を過ごしています。しかし、このような人間の目の構造を考える時に、私たちは神さまの本質をしっかりと正しく理解して見抜けているのだろうかということを少し疑わしく思ってしまいます。今日は私たちが主ご自身の本質をしっかりと見ていく目というものを持っていきたいと、願わされ、主から教えられてみことばを用意させていただいております。
今日は民数記十四章を最初に読んでいただきましたけども、民数記の十三章、十四章の場面から、みことばを受け取っていきたいと思います。
その民数記の十三章、十四章ですが、背景としては、イスラエルの民がエジプトにおいて、四百三十年、苦しみの生活の中で、やがて過酷な労働が課せられて、奴隷のように扱われていきました。そのような苦しみの中で神さまに叫び求めた時に、主がモーセをリーダーにしてエジプトから脱出させてくださいました。そしてシナイ山において十戒を与えられ、イスラエルの民と神さまご自身は契約を結んでくださいました。また幕屋も与えてくださり、神さまご自身のご臨在、神さまと共に歩む、素晴らしい恵みが与えられたわけです。
そして約束の地、乳と蜜が流れる地が用意されており、その約束の地へと旅立っていく、荒野の旅がちょうど始まる頃のところだったということです。
そのような中で、約束の地に向かう前に、十二部族から一人ずつ選んで、十二人の斥候たち、偵察部隊をその乳と蜜が流れる約束の地へ遣わすわけです。彼らは四十日間に渡って、南から北まで偵察して行きました。その地は神さまが確かに約束してくださった乳と蜜が流れる地であって、「一房の葡萄を取って二人で担いだ」という、そんな素晴らしい豊かな恵みが溢れる神さまの約束の地であったわけです。
しかし一方で、その地には先住民族がいました。巨人のような人々だったということであります。ですから、斥候たちの中では、悪い報告をした者もいたのです。民数記十三章二十七節〜二十九節では、
『彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」』
と、この斥候たちは、このような自分たちより大きな存在を見て、また町は城壁のある強固な町があり、恐れたわけです。そして悪い報告をしました。しかしその悪い報告の中で割って入ったのがカレブでありました。十三章三十節、
『そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」』
カレブは違いました。神さまが約束された地を必ず神さまご自身が与えてくださると宣言しました。
しかし、さらに悪い報告がなされていきます。十三章三十一節〜三十三節、
『しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
その敵の存在に対して恐れを抱いた十人の斥候たちは、悪い報告をしました。その時に神さまご自身が約束された約束を彼らは見ることができなかったわけです。
そんな悪い報告を聞いたイスラエルの民はどうしたかというと、その悪い報告をそのまま受け取ってしまいました。イスラエルの全会衆はその後、大声で泣き明かしたと民数記の中にあります。泣き明かしただけではなくて、モーセとアロンに対しても不平をぶちまけます。そして「エジプトで死んだほうがマシだった。苦しいエジプトに新しいリーダーを立ててもう帰ろう。」と言い出すのです。また「荒野で死んだほうがマシだった。」とか、まだその約束の地に向かって戦ってもいないのですが、「自分たちは剣で倒されるんだ。」「妻子はさらわれてしまう。」と、まだ起こってもいないことを、あたかももうすでに起こったかのように宣言してしまって、嘆き失望しているのです。
先ほどの三角形の線がないのに、逆三角形の形が見えてしまう図をお見せしましたが、ないものがあるように思えてしまうわけです。私たちの目はそのような目であり、時として神さまご自身を見ることができず、目の前にある敵や状況に恐れてしまう。そのような者であるのかもしれません。
イスラエルの民はそのように敵に対して恐れてしまう目を持って、神さまが用意された良いものに目をとめることができず、また共におられる神さまを見ることもできなかった。そしてまたそのような目は、神さまがしてくださった出エジプトでの鮮やかな十の奇蹟も、また紅海を分けて乾いた地を進み行かせてくださったことさえも忘れさせてしまったわけです。神さまご自身を見れない目というものは、私たちを不信仰にさせるだけではなく、主への反逆と言えるような態度を取らせてしまうように導いていくということが、ここから学ぶことができるのではないでしょうか。
しかしヨシュアとカレブは違ったわけです。民数記十四章六節〜九節、
『すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、
イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。
もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」』
ヨシュアとカレブは、乳と蜜が流れる約束の地にある、神さまが用意してくださった素晴らしい良いものに目を留めて、約束に目を留めていたわけです。そのような目は、どのようなことを導いたかというと、目の前にいる敵に対して恐れるのではなく、主を恐れて、主に背くことなく、主に従うことを選ぶことに導いていったわけです。また共におられる主を見る目を与えました。
そして『彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。』とありましたが、未来に用意されている、まだ神さまご自身が勝利をくださったわけではないのが、もう敵には守りがないんだと、恐れる必要はない、私たちには神さまが共におられて、神さまが導き入れてくださるなら、必ずその地を与えてくださる!勝利させてくださる!と、未来に向かって、将来に向かって、まだ起こっていない素晴らしい神さまご自身のみ思い、ご計画、奇蹟をもうすでに受け取っているのです。主が用意された未来を受け取ることのできる目となっているわけです。
もう一度簡単に、ヨシュアとカレブのことを見ていきたいと思います。彼らの目は、主の約束を見る目でありました。そして主の用意された良いものを見る目であります。そしてそのような目は主ご自身を見ることができる。それは目の前に見える敵や人を恐れる目とならず、主を見て、主を恐れ、主に従う者とされていきます。
また、まだ起こっていない主の用意された良き未来、将来を先取りで見る目とされていきます。そしてまた、過去に主がなしてくださった業をも覚えて、忘れることなく、目を留めて、そして主についていくことができるわけです。
このような目を持っていたヨシュアとカレブだけが、また二十歳に満たない、登録されていないイスラエルの民だけが、乳と蜜の流れる約束の地へと入ることができたわけです。
私たちは今、新天新地という、乳と蜜が流れる、素晴らしい神さまご自身が、この地上に打ち立ててくださる神のみ国への旅を神さまと共にしている中にあります。主の約束を受けとり、主の良いものを受けとりながら、その道のりを主と共に進み続けている者として、この民数記のヨシュアとカレブが乳と蜜の流れる約束の地へと主と共に旅をして入ることのできた彼らの目、態度から、私たちは学ぶべきことが多くあるのではないでしょうか。ヨシュアとカレブのような目を持って、私たちは新天新地、神さまが約束されている素晴らしい恵みを、約束を、祝福を、受けとりながら、主についていきたいと願わされます。それは私たちの見る「目」というものが一つ、キーワードになってくるということを、今回、覚えさせられております。