乳と蜜の流れる約束の地に向かって

話は変わりますが、この夏はさまざまな働きが神さまご自身によって開かれて成されているような印象を受けます。
七月の初めに、グローバル・プレイヤー・リレーという働きがありました。これはこの教会にいたジャマイカから来られていたキャリアンさんからの依頼でありました。先日の礼拝でも順先生が報告してくださいましたが、このグローバル・プレイヤー・リレーという働きは、世界各国をインターネットでつないで、世界のリバイバルのために祈る働きでありました。その中で、アジアのために祈る時間があるのでメッセージをしてくれる人、賛美をしてくれる人、そしてとりなしの祈りをしてくれる人を二人選んでくれないかという依頼でした。その内容は、全て英語で行われるということでありました。すべて英語で行うということですので、私たち日本語のみで暮らしている者としては、どうしようかなと思いました。
こんな世界を繋いで祈るなんていう大きな働きを受け取るなんて…、それも英語で行うなんて…と、私自身は恐れでいっぱいでありました。悪い報告をした十人の斥候たちと全く同じような者でありました。ちょうど、その依頼のメールは私にだけ来ていました。もしも私がこれで断ったら、ちょっと楽かな?なんて、正直思わなかったわけではなかったのですが、先生方に一度聞いてみようと思いました。
まず、開先生に「こんな話が来ているんですがどうですか?」と聞きました。そうしたら開先生が、「やったらいいよ!」と言うのです。さすがヨシュアとカレブの信仰を持っているなぁと思いました。そしてメッセンジャーは、やはり順先生に聞いてみよう!と思い、順先生なら引き受けてくださるだろうと期待して聞いたところ、なんと順先生の答えは、「あなたがやったらいい。」と言ったのです。順先生は、私が想像したよりもっとすごい信仰の持ち主でした。こうして、この祈りの働きを受け取ることになりました。
初めは恐れでいっぱいでありましたが、神さまご自身のご計画だと信じて受け取ろう!と、主を見上げて、主に求めていった時に、全てのことを神さまが備えてくださいました。Zawamekiの賛美、そして韓国のチェ先生、ネパールの宣教師のパク先生が、とりなしの祈りをしてくださいました。そして私もメッセージをさせていただきました。私はただこの新城教会と皆さまの証しをさせていただいただけなのですが、そのような中で本当に聖霊さまが働かれて、素晴らしい祈りの時がもたれました。世界中の方々が熱く祈ってくださいました。
この図は仏教の伝播の一つのルートになります。ルーツはネパールであり、中国、アジア大陸、東南アジアを通して日本に入ってきました。今回のアジアのチームは不思議に、この赤い丸の領域、アジアの領域をカバーするような祈りの働きとなりました。私自身、最初にこのような主ご自身の素晴らしいご計画というものは見ることができませんでした。ただただ恐れている者でありましたが、本当に神さまの恵みと憐れみの中で、この働きの中に加わらせていただいて、神さまが素晴らしい勝利の祈りを与えてくださいました。

このアジアのために祈る時間にどれだけの国の方々が関わってくださっていたかというと、ジャマイカだとか、ここに出ている国々の方々が、この働きに参加し、真剣に熱く祈りをささげてくださったのです。
もしも私が恐れるから、怖いから、英語ができない!なんて思って、この働きを「ちょっと難しい」と断ったら、こんな神さまご自身の素晴らしい恵みと祝福を受け取ることはできなかったわけです。私たちは主ご自身を見る目というものを持ち続けていきたいということを強く覚えさせられます。

そんな神さまご自身の素晴らしいみわざが現された翌週は、ヘブンズアイスクリーム&コーヒーの一周年記念が行われました。大雨にも関わらず多くの人たちがこの所に押し寄せました。まさしく主のみ手のわざでありました。
この夏、主ご自身が私たちの前を進んで新しいことを押し進めてくださっている。人の計画ではなく、力や能力でもなく、主が偉大なみ力を持って前進して、新しい扉を開いて、主の約束が、主によって成され始めているという事を強く覚えさせられています。何かこう、聖霊さまの激しい大きなうねりのようなものを感じ、後押しされているかのように感じながら、この夏を過ごさせていただいております。
恐れを持ってしまうような私ですので、神さまご自身がこのような励ましのみことばを与えてくださっていると信じます。皆様とともに、みことばをさらに受け取っていきたいと思います。

七月には、Zawamekiの賛美集会、新城大会が二年四ヶ月ぶりに、この教会でも行われ、賛美の中で神さまご自身がご臨在を現し、素晴らしい恵みを注いでくださいました。その日は加古川バプテスト教会の梅谷先生が来会しておられ、みことばを取り次いでくださいました。この時にかなって心に響くみことばでありました。
ルカの福音書の五章から、語ってくださったのですが、私が心に残ったことは、ペテロが神さまご自身のことばに従った時に、多くの魚が取れたというところであります。梅谷先生はそのペテロのことを「でも」という言葉をキーワードに上手に描写し、三つのポイントで解説してくださいました。
第一に、ペテロは漁師として自分の知識が正しいんだというところに立ちませんでした。そして第二に、夜通し働いた、そして取れなかったという自分の経験、漁師としての経験など自分の経験には頼らなかったということです。そして第三に、自分の計画があったのだけれども、そこにも頼らなかった。この三つのポイントでお話しをしてくださいました。
ペテロは目の前にいるイエスさまご自身に目を留めて、イエスさまのことばに従いました。その時にたくさんの魚が捕れて、その後、ペテロは人々を捕る漁師、神さまご自身のみわざを受け取る器とされていったわけです。
このヨシュアとカレブも、主ご自身を見て、主の約束を握って、彼らの判断、彼らの経験に頼らず、勇気をもって主とともに前進していった時に、約束の地へと入ることができ、このペテロの歩みとも重なるところがあることを覚えさせられます。私たちにも自分自身という存在があって、知識がある、経験がある、私の計画がある、思いがある、私というものを握ってしまいがちだと思います。年齢を重ねていけば特に多くの経験をしていくので、そういったことが多くなることを感じさせられます。

話は少し変わるのですが、私は三人の子どもが神さまによって与えられています。とても可愛い子どもたちであります。その中で出産の状況を三度経験しています。
三番目の子がちょうど生まれる時、私の妻が病院に入って、今か今かと生まれるのを、上の二人の子どもを面倒を見ながら自宅で待っていました。いよいよ生まれそうだということで、私の妻から電話がありました。しかし、今までの二回の経験の中で、そんなにすぐに生まれるような状況ではない。声を聞いて、様子を聞いても、そんなに早く生まれる状況ではないと判断して、少し余裕を持って病院へ出かけました。今までの経験で、彼女が出産の時に飲む好きなジュースを知っていたので、私はわざわざ薬局によって、そのジュースを買って、病院に向かいました。いや〜、なんていい夫だろうと思い、自分自身を握って、うぬぼれて、車を運転しながら進みだした時、一通のメールが来ました。
妻からでした。「産んじゃった。」と。頭が真っ白になりました。私の経験からそんなに早く生まれるはずもないし、これはきっと冗談かなと思いました。そこで急いで電話をしました。「産んじゃったって、冗談だよね?」と聞くと、「産んじゃったよ?」と言うのです。本当に出産が早くなって、第三子が与えられたということでした。私は出産に立ち会う予定だったのですが、その貴重な時を逃してしまいました。
ちょっと変わった例えですが、私たちは、自分の経験や知識やまた知恵に頼って、自分自身を握ってしまって、主を見損じたら、神さまご自身のみこころというものも損じてしまうということも往々にあるのではないでしょうか。
これから神さまご自身はさらに私たちの前を先に進んでくださって、新しい主のみわざを現し続けてくださいます。私たちは、私たちの過去の知識や経験など古い自分自身に頼るのではなくて、目を留めるのではなく、神さまご自身をしっかりと見る目というものを与えていただく必要が、私自身あるということを強く教えられております。

ルカの福音書五章三十六節〜三十八節では、

『イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。』

とあります。これはイエスさまが与えてくださる十字架の恵み、新しい福音というものは、古い律法主義、ユダヤの律法主義、そういった古い生活様式、その枠では、イエスさまの新しい福音というものを受け取りきれない、その器には満たすことはできないということを、新しい皮袋、また新しい着物の例えで語られている箇所であります。
神さまご自身はこの新しい福音というものを私たちに与えてくださり、さらに私たちの前を進まれて、新しい事をしてくださっていくわけですから、やはり私たちは新しい皮袋を用意しなければならないと思います。
その新しさというものは、どのようなものかと言いますと、二つの言葉がルカの福音書の五章では使われています。一つは「カイノス」という言葉と、一つは「ネオス」というギリシャ語です。「カイノス」というのは「質的に新しい、革新的に新しい、発展・機会に新鮮なもの、なぜならそのようなものは以前にはなかったから」、そういった意味合いがあります。
また「ネオス」というのは、「新しい、最近明らかにされた、今までになかったが最近発見されたもの」、こんな新しさですね。私たちが今までに見たことも経験したこともない、また発見したこともないような新しいものというものを神さまご自身はこれからさらに与えてくださるのです。この夏、神さまご自身が素晴らしいみわざをなし続けてくださっておりますが、更に神さまによって新しい扉が開かれ、神さまご自身のこのような新しいみわざが与えられるということを強く覚えさせられております。そしてそのために私たちは新しい皮袋となる新しい目が必要だということを教えられます。

また、話は変わりますが、昨年、新しい宇宙望遠鏡が打ち上げられ、その映像が送られてきたということが先日ニュースで報道されていました。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡というものが打ち上げられました。以前は、ハッブル宇宙望遠鏡というものが打ち上げられて、宇宙で素晴らしい星々の写真や映像を送ってくれていました。しかし、やはり新しい目、新しい望遠鏡は素晴らしいですよね。
送られてきた写真を見ましたが、左がハッブル望遠鏡、右がジェイムズ・ウェッブ望遠鏡なのですが、星の見える数が違うのです。輝きが違うのです。新しい目というものは、今までに見たこともなかったものを見ることができるようになるわけです。これもそうです。

同じ位置なのですが、星の見える数が全然違うわけです。

またこれはガスだそうですけども、今まではハッブル望遠鏡では見えなかった星々の様子なんかも、ジェイムズ・ウェッブ望遠鏡ではとらえることができるようになったということです。あのガスのような部分も鮮明に見えるようになり、あの中では新しい星々が誕生しているということらしいです。本当に遠い遠い、何十億光年も向こうのことのようなのですが、新しい目を持つ時に、今までに見えなかったものが見えてくる、こんな美しい情景を見ることができるようになるのです。
私たちが新しい目を持つ時に、神さまが用意されている、私たちが見たこともない、経験したこともない、今まで発見されたこともない素晴らしい恵みを、祝福を、約束を、勝利を、また癒しを、神さまが用意されているものを見ることができる。それを受け取ることができる。この素晴らしい約束を見ながら、神さまを見ながら約束の地へと神さまと共に旅をして行くことができると、そのように教えられます。