〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
〜十字架の死による大勝利!Part2〜

イエスさまの勝利は、十字架がクライマックスです。新城教会の十字架は、等身大です。ある人が、「迫害の時代が来たら、牧師がここにつけられるぞ!」と言いました。しかし心配はいりません。その時は、取り外せるようになっていますから。
今日、ここに十字架が立っています。イエスさまが十字架につけられたのは、このくらいのサイズの十字架に釘付けにされたと思われます。たいへんリアルですね。
教会に十字架があるのは、「イエスさまの十字架の勝利を覚えなさい」という意味であり、同時に、その勝利を記念するためのものです。

イエスさまは十字架上で七つの言葉を語られました。ご存じでしょうか?もちろん、もっと多くの言葉を語られたとは思いますが、福音書の記者たちは、七つの言葉を重要な言葉として、記録し、散りばめています。
それらの言葉は、死の恐怖に怯える人類に対する、十字架からの勝利の宣言です。残された時間、イエスさまが十字架上から語られた、七つの言葉を確認したいと思います。これは私たち一人ひとりに、語ってくださった言葉でもあります。

ルカ二十三章三十四節に、十字架からの第一の言葉として、次のように記録されています。

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』

これはイエスさまを十字架につけたユダヤ人たち、また、一個人、ひいては全人類に対して語られた言葉でもありますが、一義的には、十字架の足元で作業をしていたローマ兵たちに対しての、とりなしの祈りであると思われます。
当時、イスラエルはローマの支配下にあり、死刑を執行する権限はありませんでした。死刑はローマ帝国が執行したわけです。政治犯や犯罪人たちが、見せしめとして、十字架刑が日常に行われていたようです。その為に、エルサレムには、死刑を執行するローマ兵たちがいました。特殊任務に就く、彼らへの報酬は、犯罪人たちが身につけていたものだったようです。それを自分たちで分けて、所有物としていたようです。今のように布とか、そう簡単に手に入る時代ではありませんでしたから、それらが特別手当だったのでしょう。
イエスさまを処刑する時も、彼らは同じように、イエスさまが身につけていた下着を分けようとしました。するとイエスさまの下着は一枚織で、結構良い物だったらしいのです。イエスさまの周りには、裕福な夫人たちが仕えていましたから、アマ布製の下着を着ていたようです。それで「これはちょっと破るのは惜しいな・・」ということで、くじ引きで、誰が受け取るのかを決めようとしていました。
イエスさまはその光景を見ながら、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのかわからないのです。」と祈りました。なぜ、このように祈られたのかと言うと、ローマ兵たちは、ただ自分の利益のために、くじ引きをしていたのですが、実に、この行為は、詩篇二十二篇の成就だったからです。彼らは全く気づかず、ただ本能で行動しいてたと思われます。しかし彼らは知らずして、神の計画に組み込まれていたのです。
私たちも日々、様々な行動をとっていますが、神はしっかりとした計画の中で私たちを保ってくださるのです。そして「父よ、彼らをお赦しください。」と、とりなしてくださっているのです。

兵士たちに対するイエスさまのとりなしの祈りは、すぐに実現しました。なぜならば、イエスさまの死と共に地震が起こったり、岩が裂けた光景を見て、異邦人である百人隊長と、イエスを見張っていた兵士たちが、「この方は本当に神の子であった!」と告白したからです。
イエスさまのとりなしって、すごいですね。ものの数時間後、ローマ兵たちはイエスさまを、神の子として信じたのです。
それは、取りも直さず、全人類に対してのとりなしの祈りでもありました。

ウクライナやロシアで戦っている兵士たちは、自分では何をしているのか、分からずに戦っていると思います。特にロシア兵たちは、その傾向が顕著です。すでに二万人以上が戦死したとも言われます。ロシア兵たちに対して、私たちは、あまり良いイメージを持っていません。しかし実際、彼らにも家族がいるし、子どもたち、愛する人たちがいます。戦死した兵士たちの周辺には、大きな悲しみがあるはずです。
プーチンの命令によって、何をしているのか分からずに戦っている兵士たちが戦場には多くいます。ゼレンスキーが命令することによって、多くのウクライナ兵たちも戦死しています。
しかし神は、そのような人たちに対しても、目を留めておられることを信じ、とりなす必要があります。

第二に、ルカ二十三章四十三節、

『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』

私はこの言葉を読むたびに、イエスさまってすごい、と思います。
イエスさまは、他に二人の強盗と共に十字架につけられました。彼らは正真正銘の犯罪人だったわけです。彼らは、イエスさまの両脇から、悪口雑言を語りました。「おまえが神の子なら、十字架から下りて、自分を救え。俺たちも救え。」と、無茶苦茶言っていたわけです。
しかしイエスさまの対応は冷静でした。その光景を見た一方の強盗は、「この人は、神の子に違いない。メシアかもしれない!」と、途中で考えを変えたのです。それで、「イエスさま、あなたがみ国へ行かれる時には、私を覚えてください。」と頼んだのです。
するとイエスさまは、「あなたをパラダイスに入れてあげます。」と約束されたのです。
私ならば、絶対にありえません。そんなことを言われたら、「おまえ、舌べろが渇かんうちに、よくぞそんなこと言えたもんだ!おまえなんか地獄のどん底に落としてやる!」と言ってしまいそうです。しかしイエスさまは、十字架につけられた強盗に対しても、愛を表わされたのです。
十字架は、肉体をお持ちのイエスさまにとって、たいへんな苦みであったはずです。しかし極限に際しても、余裕ある言動を見ることが出来ます。

三番目は、ヨハネ十九章二十六〜二十七節、

『イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。』

十字架に際して、イエスさまの弟子たちのほとんどが、逃げてしまいました。しかしヨハネという若い弟子は、マリヤと共に十字架の下まで行ったみたいです。
ここに等身大の十字架がありますので、ちょっと想像してみてください。マリヤは足下にまで行ったわけです。ヨハネも一緒に行きました。十字架を見てイメージしたら、すごい臨場感です。
そんなただ中、イエスさまは、十字架の下で泣いているマリヤに対して、「お母さん」とは呼びかけていません。「女の方」と呼びかけています。ローマ・カトリックが言うように、マリヤは神の母ではありません。彼女は一つの役割です。だから「お母さん」とは呼ばずに、「女の方」と呼んで、気遣っておられます。「そこにあなたの息子がいます。」と言って、一緒にいたヨハネに彼女を託したのです。イエスさまは、十字架上から大きな配慮をマリヤに与えたのです。

時に私たちも、老後のことなど考えると、「やっていけるかな。年金も少なくなるらしいし…。」と心配になります。私の楽しみな日は二ヶ月に一度訪れる十五日、年金が振り込まれる日です。夜零時が過ぎると即、振り込まれます。しかし、これだけで本当に生きていけるかと、時々、心配になります。
しかしイエスさまは、十字架上で、マリヤの人生を気遣ったように、我々にも配慮してくださるお方です。

そして第四番目は、午後三時、命を父なる神さまに渡す寸前に、大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれました。これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
この言葉を、多くの反クリスチャンたちが、「なんだ。キリストは。弱いなぁ。最後に神に見捨てられて、悲しんで死んでいったじゃないか。」と罵ります。しかしそれは聖書をよく知らない人の意見です。

この言葉が福音書に記述された事はすごいです。例えば、私がイエスを教祖として、何らかの宗教をでっち上げようとしたら、この言葉は絶対に入れません。こんなこと書いたら、みんなが誤解するからです。「イエスは弱いじゃないか・・。」と。
しかしあえて、この言葉が入っているのは、詩篇二十二篇と関連のある、重要なメシア預言であるからです。後ほど、その点について見たいと思います。
家に帰ったら、ぜひ、詩篇二十二篇をお読みになってください。そこには、実に、イエスさまの十字架にまつわる場面が預言されています。それは、イエスさまがお生まれになる、千年ほど前、ダビデを通して語られた預言です。そこにはイエスさまが着ていた服をくじ引きで分けることまで、預言されています。ということは、十字架の七つの言葉は、すべて、旧約聖書の預言の実現なのです。

第五番目に、ヨハネ十九章二十八節に、

『この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。』

これも旧約聖書の預言の成就でした。詩篇二十二篇十五節、詩篇六十九篇二十一節の預言の成就です。ご自分がメシアであり、救い主であることを知らせるために、これらの言葉を語られたのです。

そして六番目の言葉は、ヨハネ十九章三十節、

『イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。』

「完了した」という言葉は、ものすごく前向きな、肯定的な言葉です。普通ならば、志半ばで、「無念じゃ…。」という言葉を残して死んでもいい場面です。日本の侍ならば、間違いなくそのように叫ぶでしょう。
しかしイエスさまは「完了した」という言葉と共に、霊を父なる神さまにお渡しになったのです。

そして最後七番目、ルカ二十三章四十六節、

『イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。』

イエスさまは殺されたのではなく、自ら命を父なる神さまにお渡しになられたのです。そもそも死ぬ寸前、大声で叫ぶことはできません。イエスさまは死の直前、大声で叫んでおられます。これは、全世界に対する救いと贖いの完成宣言です。
ということは、この宣言の中に、私たちも含まれているのです。

十字架上からの七つの言葉は、取りも直さず、イエスさまの勝利の宣言であるのです。

「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉について、

“イエスが十字架の死に際して叫んだこの言葉は、イエスの深い苦悩を示す言葉でもある。しかし同時に、神の永遠なる計画の成就を告げ知らせる言葉でもある。”

この言葉は、イエスの最後の言葉となるのですが、詩篇二十二篇では、最初の言葉となっています。詩篇二十二篇一節、

『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。』

これはダビデの叫びです。ダビデが神に見捨てられたと思って、神に訴えている言葉です。それと同じ言葉を、イエスさまは十字架上で、最後の言葉とされました。それは同時に、全人類を代表する叫びでした。
その意味について、ある方が、次のように解説していました。

“それは単に預言がイエスの十字架の死の場面で実現しただけでなく、神の永遠の計画において、時間の流れを超えて、互いが互いの原因として結びつき合った、永遠の円環を結んでいるとも考えられる。”

深い理解だと思います。
ダビデが、「わが神。わが神。どうして私を見捨てるのですか。」と叫んだ言葉が原因となって、イエスさまの十字架上の叫びに繋がったと言うのです。
同時に、イエスさまの十字架上の叫びは、過去のダビデの叫びの原因となったと言うのです。
ということは、未来においてもそれらが原因となり得るということです。