〜2022年〜 「それは主の復讐の年」
〜十字架の死による大勝利!Part2〜

2022年5月15(日)新城教会主任牧師 滝元順

ヘブル人への手紙2章14〜15節

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

ハレルヤ!
素晴らしいピアノの演奏を聞かせていただきました。楽器を使って主を賛美する生物は、人間だけです。すべての被造物は音を発して賛美していますが、楽器を駆使するのは人間だけです。
昨日はプレイズ・ミュージック・スクールがあり、大勢の方が楽器を練習していました。それらはすべて、主をほめたたえるためです。
ともに、主を礼拝できることを心から感謝します。

なかなか新型コロナも収まらず、ぐずぐずしている日々が続いますが、先日も「終わりはいつ?」という番組をやっていました。世界の終末のようですが、新型コロナ・ウイルスの終結についてでした。
新城教会も六月から、シフト・アップしたいと考えています。もう少し交わりができたり、新しいプログラムを加えたりしていきたいと願っています。社会の動きを見ながら、祈りつつ対応していきたいと願っています。是非とも、続けてお祈りいただきたいと思います。
最終的には、新型コロナ・ウイルスも、我々の味方にならないといけないですよね。ウイルスだって人間がいなかったら、生きていけません。彼らは、人間にとりつくしかないわけですから、人間が死んだら自分たちも生きていけないわけです。人との間に和解がなされて、一刻も早く、共に主を賛美できるように祈りましょう。

六月五日は、特別講師をお迎えします。金子道仁(みちひと)先生が来てくださいます。彼は秀才です。東大の法学部を卒業して、その後、外務省の官僚となり、七年間くらい世界中を飛び回っていました。
しかしその後、もっと素晴らしい職場を見つけて就職しました。それが、「リバイバルミッション」でした。東京リバイバルミッションの準備のために、彼は二年間、東京事務所で働いて下さいました。現在は、グッドサマリタンチャーチの牧師です。
先生は七月の参議院選挙に出馬します。是非とも祈ってあげてください。これ以上のことは言えませんが、彼は政治家にぴったりだと思います。政治の世界にクリスチャンがいないといけないです。現在、日本にはクリスチャン政治家が、ほとんどいません。彼は選挙戦のパンフレットに「牧師として、神を愛し、国を愛し、隣人を愛す」と大胆に出しています。

コロナのただ中で、様々な新しいことが起こっています。これからクリスチャンの役割が、本当に重要になると思います。神の側に立って、国のためにとりなす人たちがいないと、国は滅びてしまいます。国々とは、以前にもお話したように、最初はネフィリムという存在が王となり、形成されていった経緯があります。そのため、国々はそもそも悪魔の支配下にあるわけです。これに対抗できるのは、神の側に立つクリスチャンしかいないのです。

今から皆さんと一緒にみことばを学んでいきたいと思いますが、二週間前に語らせていただいた、「十字架の死による大勝利!」というテーマ、バート2です。先週も雅也先生が、同じテーマで話してくださいました。

最近、死にまつわる報道が多すぎます。ニュースと言ったら、ほとんどが死にまつわる、悲しいニュースばかりです。
新型コロナ問題において、アメリカでは死者が百万人を越えたとか、日本では三万人を越えたとか、ウクライナ問題においても毎日のように「何人死んだ」というような、ニュースばかりです。
それに加えて私たちの知人、愛している方々が天に帰られたりして、「死」という言葉で押しつぶされそうな今日この頃です。
しかしこんな時にこそ、私たちは、聖書に基づく死の概念をしっかりと受け取ることが求められます。

おさらいになりますが、前回もヘブル人への手紙の二章十四節からのことばを引用しました。
イエスさまは死の力を持つ悪魔をどのように滅ぼされたのかについて教えています。
『ご自分の死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、』と記されています。キリスト教会の中心は、イエスさまです。同時に、イエスさまの十字架が中心です。しかし考えてみれば、イエスさまの死は、本当に不条理な死です。
当時、十字架刑は犯罪人を処刑する為の、最も不名誉な死刑でした。同じ死刑でも、「あの人は、十字架につけられて処刑された。」と聞いたら、他の死刑よりも、不名誉なことだったわけです。
ゆえに神の元から来た救い主が十字架にかかるなど、ありえないことです。一般的には、「イエスは十字架上で志も半ば、救いの任務を完了することなく殺された」と見られても仕方ない結末です。なぜなら当時、最悪のイメージが十字架であったからです。
しかしヘブル人への手紙によりますと、イエスさまの死は人の死とは全く違ったものであったと告げています。そのことを、よく理解する必要があります。そしてイエスさまの十字架の死の意味を身にまとうことが、一般に流れる死の情報に打ち勝つためにも、この世を生き抜くためにも、たいへん重要です。

『これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』

毎日、死というテーマの報道がなされる度に絶望感が増します。しかしイエスさまは、死の力を持つ悪魔を、ご自分の死によって滅ぼしたと言うのです。
「死を持って死を制する」なんて、普通の人間ではできません。しかしイエスさまは、ご自分の死をもって、悪魔を滅ぼされたわけです。ゆえに、私たちの中心は、十字架にあるのです。

イエスさまが十字架で死なれた瞬間、なにが起こったのかについても、復活祭の時から続けて学んでいます。マタイの福音書二十七章五十節〜五十四節を読んでみたいと思います。

『しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」』

イエスさまが死んだ瞬間、何が起こったのか。それは、神殿の幕が真っ二つに裂け、地震が起きて、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返ったと記録されています。これはイエスさまが、三日目によみがえった瞬間ではなく、死なれた瞬間に起こった出来事です。しかし、よみがえった聖徒たちは、イエスさまに優先することはなく、イエスさまのよみがえりに続いて、墓から出て来たのです。彼らがよみがえったのは、イエスさまが息を、父なる神さまに渡された瞬間でした。

「この出来事は、死と墓に対するキリストの力の証明であった」と解説されていました。続けて、

「神はイエスの死によって死の力を滅ぼし、死そのものを廃止されたという証拠として、眠った多くの聖徒たちを生き返らせた。これらの聖徒たちは、主が昇天するまで地上に留まり、その後、罪、サタン、死、そして墓に対する彼の勝利のトロフィーとして、イエスと共に天に勝ち誇って凱旋した。」

イエスさまは天に戻られる時、捕虜を引き連れて帰られたとありますが、このよみがえりは、イエスさまが公生涯で死人を生き返らせたのとは、全く別レベルのものでした。イエスさまのよみがえりは、二度と死なないからだでのよみがえりでした。聖徒たちのよみがえりも同じでした。その初穂となってくださったのが、イエスさまです。やがて私たちも、彼らに続く者たちとなるのです。
イエスさまが死なれたのは、ニサンの月の十四日でした。今年は四月十五日でした。

「イエスの復活、死に対する勝利は、十字架刑の三日後ではなく、イエスが死なれた瞬間から既に始まった」という解釈についてを、先日、お話しさせていただきました。

悪魔は、みことばの理解にちょっと手を加え、変えて、その中にある神の力が使えないようにする名人です。悪魔はどこに働くのかと言うと、思考の領域、理解の中に働くのです。しかし、みことばを真っ正面から捉えるならば、現実として、力として、機能するはずです。そうでなければ、十字架に大勝利があっても、受け取ることはできません。
聖書をよく学びますと、イエスさまの復活の勝利は、十字架の三日後ではなく、「イエスが死なれた瞬間から、既に始まっている」のです。
悪魔はイエスさまの十字架の死は敗北で、三日目にやっと勝利したように言いますが、そうではないのです。イエスさまは、ご自身の死という剣で、悪魔という死の力を打ち砕かれたのです。
ということは、私たちも、「イエスの死によって、死に勝利できる」のです。そしてその勝利の結果として、復活があるのです。

ある人が、「人生は、死刑囚と同じだ」と例えました。先日、九十八歳で天に帰られた服部さんは、刑務所の看守として一生涯働かれました。刑務所に囚われている人たちを世話された方です。死刑判決が出されても、すぐに死刑が執行されるわけではありません。法律では「六ヶ月以内に執行せよ」となっているみたいですが、現実は、拘置所に移されて、何年も執行の日を待つというのです。死刑囚は、「今日か?明日か?」と刑の執行される日をおののきながら待つわけです。怖いですね。
死刑執行の前日は、ちょっと豪華な食事が用意されるようです。しかし翌朝、数人の看守たちが来て、「独房を出てください。」と言って、死刑場に連れて行かれるのです。
これは、死刑囚に限ったことではありません。人間は生まれた瞬間に、既に、死刑執行の日が決まっているのです。その意味では死刑囚と同じです。
私も今年で七十一歳ですから、あまり未来のカレンダーは見たくありません。何年後なのか知りませんが、死ぬ日が来ます。そんなふうに考えると、人生、暗くなってしまいます。

しかし、「クリスチャンの人生は死刑執行猶予期間ではない。神が命を与え、生かされる、恵みの期間なのである!」と、ある人が書いていました。
いくら歳を取っても、若くても、クリスチャンにとっての死は、一般の概念とは違うのです。神が命を与え、生かされているという、恵みの期間であることを、しっかりと理解し、心に捉えましょう。そうしたら、人生は豊かになるはずです。
特に最近、死にまつわる報道が溢れていて、どのように対処したらいいのかが問われています。それは根源の概念を変える必要があるのです。
あなたの人生は死刑執行猶予期間ではありません。神が命を与え、生かされている恵みの期間なのです。

私の家内は二年半以上前に、「あなたの命はあと三ヶ月、四ヶ月しかありません。」と宣告されました。膵臓癌末期、その事を聞いた時、どう表現していいのか分からないのですが、今まで体験したことのない気分になりました。家内の顔を見たら、案外、落ち着いていました。「家内とあと三ヶ月、四ヶ月しか過ごすことができないのか・・・」と、複雑な思いになりました。
しかしこの時にこそ、クリスチャンの真価が試されると思いました。そして、「死の力に立ち向かえ!」と主から教えられ、立ち向かう日々が始まりました。
そして皆さんの祈りに支えられて、すでに家内は二年八ヶ月生きながらえ、本当に元気にしております。
今日話している事柄を、私は身をもって体験しました。

今、様々な問題で、病で、苦しんでいる方々がおられます。教会に来たくても来られず、ネット礼拝されている病の方もおられます。死の霊と戦うためには、「イエスさまの十字架の死=我らの復活」という理解が必要です。イエスさまの十字架の死を掲げて立ち向かうのです。
家内は、いろいろ臓器を切り取りましたから、不具合はありますが、それでも元気にしています。この頃はよく、サイクリングに出かけます。先週はちょっと遠くまで二人で出かけました。どこまで行ったのかと言うと、家から県民の森まで行きました。往復三十六キロでした。彼女の自転車は電動アシスト付きです。しかし私の自転車は、息子が三十年前に使っていた自転車です。本当にこれは復活の力だと思います。
イエスさまの十字架の死を、ネガティブに捉えてはいけないのです。
「十字架の勝利とは、三日後ではなく、イエスの死と共に始まった!」のです。このことをしっかりと理解すると、信仰も、生活も変わります。