アメリカの二代目ブッシュ大統領の政権下で、国務長官を務めた、ドナルド・ラムズフェルドという人が、こんなことを言いました。

“知っていると知られていること
知らないと知られていること
知らないことが知られていないこと
三つ目は往々にして厄介な問題となっていることがわかる”

うまいこと言うなと思うわけですが、知らないでいることで、世の中は厄介なことになっているのに、世界のほとんどに人がそのことに気づかない、そういうことがよくあるんだよと。
サタンの勢力と、神の国を拡大させる使命を持った私たちとの戦いにおいて、それを知ることが重要であります。第一コリント八章二節には、『自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。』とあります。

「聖書の中に答えがある」とよく言われますけど、すべての答えが聖書にあるとは言えません。例えば、聖書には宇宙の起源については書いてはないし、方程式の解き方とか、ビジネスのノウハウとか、経済の仕組みとか、あるいはガンの治し方とか、そういうことは聖書には書かれていないわけです。
しかし、私たちに聖書が語っていることは、私たちの神さま、あなたの神さまがどのようなお方で、また、あなたがどのようにしたら神さまと出会って、罪から悪魔の支配から救われて、神さまとの良い関係を建て上げることができるか、ということについてであります。
そして、それらがあなたの人生において、あなたが経験をして、また様々遭遇する出来事に対し、「答えとなるもの判断していくための基準」を与える。これが聖書の中にあるわけです。
私たちが聖書に書かれて、みことばに込められている価値観・世界観に基準を置いて世界を理解していく、ということが必要です。

先ほどヨブの話がメッセージの中で語られていましたけど、ヨブは神さまの圧倒的な知恵の前に「私はあなたの噂を耳で聞いていました。しかし私は今あなたをこの目で見ました。それで私は灰の中で悔い改めます。」(四十二章)と言いました。「人間的な教養としての『知識』を得る」ために聖書を読むというのではなく、みことばを通して「神さまご自身を知り、神さまの価値観・世界観を私たちの価値観・世界観に照らしていく」ことが、私たちにとって重要なことであります。

信仰生活おいても、教会の営みにおいても、私たちは神さまについて、神さまのからだである教会について、私たちは「知っているよ!」と言い切ることができるのでしょうか。もちろん、祈りというもの、賛美というもの、礼拝というもの、リバイバルというものは、こういうものであると、私たちは言い切ることはできません。神さまの深みに及ぶのは、私たちの一生において完全に到達しうることはできません。だから私たちは、人生が続く限り求め続けることが必要となってくるわけです。

そのために何が必要なのでしょうか。第一ヨハネの手紙二章二十節(新改訳第三版)、

『あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。』

最初にお読みしたエペソ人への手紙の一章十七節には、「神を知るための知恵と啓示の御霊を受けますように」とありました。「聖霊によって私たちは心の目がはっきりと見えるようになる」、その事によって以下の十八節、十九節に書かれていることを初めて知ることが可能になると、聖書は私たちに教えています。
それは何かというと、

1.神の召しによって与えられる恵み
2.聖徒が受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものであるか
3.信じる者に働く神の力がどれほど偉大なものであるか

これらを私たちが神さまから知恵と啓示の「聖霊」を受けて、心の目が開かれて初めて知ることができると教えています。

聖書に書かれている神さま、天地を造られて私たちに命を与えられた神さま。そして私たちの救い主なるイエスさま。また私たちの助け主となる聖霊さま。この神さまによって与えられる恵みとは何か。願っていた大学に合格することができました、素晴らしい奥さんご主人と出会うことができました、これも恵みです。経済的な恵み。私たちの人生すべてにおいて良いもので満たすことのできるお方が、私たちが信じている神さまであります。問題が解決しました、病が癒されました、これも主がくださった恵みであります。すべての苦しみ・困難・迫害に打ち勝つことができます。それらを通して私たちを鍛えてくださいました。私たちに起きた事柄が益とされる。これも主を信じる者に現される恵みであります。

これらを一つにまとめるならば、私たちの人生の王座に主がついてくださるということであります。「私たちの人生の中に神さまの支配と神さまの主権が現される」ということであります。そのために私たちはまず神さまと出会い、そして神さまを知るわけなんですね。目が見えるようにならなければならないのです。
言い換えますと、人間的な知恵や努力によっては、私たちの目は、今申し上げた十八節・十九節の三つの恵みについて理解することができません。私たちは自己中心の罪を悔い改めて、神を知るための知恵と啓示の聖霊の満たしを祈る、祈り求めることによって、神の知恵は私たちのうちに現され増していくことができます。
そして、私たちが、自分が正しいとか、自分の持っているこの見解は正しい見解だと思っている部分にこそ、もしかしたら神さまから霊的な語りかけ、霊的な悟りを受ける必要がある部分であるかもしれません。

第一コリントの手紙一章三十節を見ますと、

『しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。』

ここに書かれていることは、実はイエスさまを神のみ子として信じることが神からの知恵である。これがなければ、これまで申し上げてきた聖霊による知恵と啓示もない、ということであります。なぜならば聖霊さまは、父なる神さまが、み子イエスの名によって遣わされるからだと、書いてあるわけです。

ヨハネの福音書十四章二十六節にはこう書いてあります。

『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』

四元雅也の知恵や努力ではなくて、またゴータマ・ブッダの名前ではなく、マホメッドの名でもなく、他のいかなる名前、手法、知恵によっても、私たちの主イエス・キリストの名の他に、私たちが聖霊に満たされることはできない。
そして私たちが神を知るということは、聖霊によらなければできない。こう聖書は私たちに語っているわけです。だから、私たちが神さまを求めるということは、神さまを知るということは、三位一体なる神さまの全位格の働き・助けによらなければならない、ということであります。

だから私たちはこの神さまを求めていかねければなりません。神さまと出会うために、教会に来なければなりません。教会という所は、神さまについて、父・子・聖霊について、みことばから、聖霊によって深く教える、そういった場所であります。

私たちは二〇二二年に向けて、今まで語られたメッセージが本当に主にあって、新城教会の上に、私たち一人ひとりの人生の中に、実として結ばれていくことを信じ、期待していきたいわけですけど、そのために、私たちは三位一体なる神さま、私たちと共におられ、教会と共におられ、臨在される聖霊さまご自身を求めて、聖霊さまによって探られ、照らされ、満たされることを求め続けていきたいと思います。

私たちを助け励まし導いてくださる方をお迎えして、この神さまの深みをさらに知ることができますように、心から飢え乾いて、主を探し求めていきたいと思います。