カウントダウン・ワーシップ

『神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。』
全ての人々に愛を示し、みことばは完全であり、純粋です。そして主は私たちの盾となってくださり、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。「主は完全である」方です。もう一度、二十九節を読んでみたいと思います。

『あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。』
リビングバイブルでは、
『今や私には、どんなに高い城壁でもよじ登り、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられています。』
とあります。二〇二二年は、私たちに悪魔、悪霊どもがどんな強力な軍隊で向かって来ても立ち向かい、また今までであれば不信仰になってしまっていた「どんなに高い城壁」でもよじ登り、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられています。と言うのです。二〇二二年は今まで開かなかった所、高くそびえていた壁、動くことのなかった問題や病、また様々な出来事も「主は完全です」。完全な力を持って、扉を開いてくださるというみことばです。私はとても励まされました。

私は家内の病のためにも祈っておりますが、もう一つどうしても勝利を頂きたい問題、祈りの課題があります。それは私の姉のためです。浜松市で教会を牧会しています。しかしその教会には問題があり、多くの主にある兄姉が傷ついて、せっかく主を信じたのにも関わらず、クリスチャンを辞めてしまったり、心に傷を負ってしまった方々がおられます。私はどうしても、その事を主にあって解決していただきたいと切に願っています。是非とも皆さんもそのためにお祈りください。先ほどのリビングバイブルをもう一度読んでみたいと思います。

『今や私には、どんなに高い城壁でもよじ登り、どんなに強力な軍隊でも襲う力が与えられています。』
いままでどれだけ祈っても、霊的戦いを進めて来ても動かなかった大きな岩です。しかし三十節、
『神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。』
これもリビングバイブルで読んでみますと、
『なんとすばらしい神様でしょう! 神様はあらゆる点で全く完全です! そのお約束がすべて真実であることは、明らかです。 その背後に隠れる者には、盾となってくださいます。』
とあります。私たちの主はすばらしい主です。そしてあらゆる点で全く完全なお方です。私たちの盾となってくださり、神の備えてくださるその道は完全です。「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」と語ってくださっています。三十二節の所に、

『この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。』
というみことばがあるのですが、この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にしてくださる。主が完全なる方であるので、今年は決着を付けてくださる。完全に勝利をいただく年と信じています。詩篇十八篇三十三節〜三十五節の所をもう一度読みます。

『彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。こうしてあなたは、御救いの盾を私にくださいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。』
この所をリビングバイブルで見てみますと、

『私の足を、岩山ででもしっかり立つ野やぎのようにし、絶壁の上をも安全に導いてくださいます。戦いに備えて私を鍛え、鉄の弓さえ引く力を与えてくださいます。主の救いは私の盾です。 ああ主よ。 右の御手が私を支えています。 主のご温情のおかげで、私は名の知れた者となりました。』

今まで登ることができなかった岩山も野やぎのようにしてくださり、絶壁の上に安全に導いてくださるとあります。今まで登ることもできない、解決が見えない問題がありました。しかしどんなに険しい絶壁でも安全に立つことができて、そこで戦うことができる。戦いに備えて私を鍛え、鉄の弓さえ引く力をくださり、完全な勝利を頂くことができる。というのです。「主は完全だ」。とても励ましとなるみことばを頂きました。期待しましょう。生きて働き、「完全なる主」が働く年となり、圧倒的な勝利を見せてくださる二〇二二年であることを期待しましょう。二〇二一年は享子先生のすばらしい完全勝利を見せて頂きました。それが導火線となって、二〇二二年は新城教会に様々な大きなみ業、私たちが驚くような、出来事がおき、すばらしい主の業を見る年とさせていただきましょう。そして「あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。」とあるように、更に主からの謙遜を頂いて、主に栄光をお返しする教会。主を賛美する教会とさせて頂きましょう。 二〇二二年は「完全なる主」が働く年となります。信じましょう。ハレルヤ!

 


≪≪岡本信弘 牧師≫≫

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美いたします。皆さんのお祈りに支えられて、この二〇二一年も健康が支えられ、主の働きをすることができました。またプレイズのためにもいつもお祈りいただき感謝いたします。

昨年私がこの場所に立って語らせていただいた二〇二一年対するみことばは、イザヤ書三十章二十一節でした。

『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。』

この一年、どうしたらいいだろうかと迷う時がありましたが、そんな時、神さまは背後から優しく語りかけ、『これが道だ。これに歩め』と、みことばをもって道を示しアドバイスを下さり、励ましてくださいました。それによって働きを続けてこられたことを主に心から感謝します。

さて、二〇二二年に向けて私に与えられたみことばは、第一テサロニケ五章十六〜十八節です。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

皆さんもご存じの有名なこのみことばから、「主にあって喜び、祈れ、感謝せよ!」というテーマでお話しさせていただきます。

この個所は何度も語られていますし賛美にもなっていますから、皆さんも覚えておられるみことばだと思います。私もよく知っていますしそのようにしたいと思っていますが、一方で「これを完全にやるのは無理でしょ」という思いがあるのも事実です。
このみことばの中で注目すべきは、十八節の後半に書かれている『キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること』だと思います。クリスチャンであれば誰もが、神さまの望んでいることを行いたいと願っていますね。
ここに、『キリスト・イエスにあって』とありますが、聖書中、『主にあって』、また『キリスト・イエスにあって』ということばは、八十回ほど出てきます。普通に考えたら、自分の力でどんな時にも喜び、祈り、感謝する、なんてことは到底できないことだと思います。しかし、人間的には不可能であっても「神さまの手の中にあって」なら、喜び、祈り、感謝することができるのではないかと、私はこのみことばを学びながら思わされました。

新城教会は、今年で創立七十一年がたちましたが、この歴史をすべて知っている人はほとんどいません。六十年を知っている人も数人になってしまいましたが、私はその中の一人です。
私が献身したのは四十年近く前です。その頃私は実家のスーパーを手伝っていてその仕事が大好きでした。しかしビジネスをしながらも、神さまのために働きたいという思いは失われることがありませんでした。そんな中で、一度はビジネスを捨てて主の前に献身させていただいたのですが、今こうして牧師をしながらプレイズという印刷出版、福祉事業のビジネスをさせていただけていることを考えると、不思議なことだなぁと思うと同時に、主にとても感謝しています。
先週、順先生がメッセージで昔のこと振り返り、「エレキは悪魔の楽器だと言われて反対された」と語られました。その時のことを私もよく覚えています。そう言われても音楽を捨てず貫き通した順先生は、音楽がすごく好きなんだなぁと思います。そして今では、そのような楽器が教会の音楽になくてはならない一つの武器となっているということを思う時、順先生が諦めなかったのは、神さまの導きだと思わされています。
私もプレイズを始めた頃、「ビジネス!? 金儲けなんて献身者のやることじゃない。教会のやることじゃない」と言われたことがありました。そう言われて、「まぁ確かにそうだよね」と思うところが私の中にありましたが、そんな時、神さまが私に語り与えてくださったみことばは(いつも私の心に残っているみことばですが)、

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。』(ピリピ人への手紙 二章十三〜十四節)でした。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、…』とあり、神さまご自身が私たちの思いの中に志を与えてくださるというのです。私はこのみことばに励まされ、ビジネスをしてきました。「主にあって、何かをしたい!」とビジョンを持つならば、神さまはそれを行わせてくださるのです。人間的には不可能なことであったとしても、多くの人が反対したとしても、みこころならば神はそれを必ず成し遂げさせてくださいます。私たちのすべきことは、『すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい』というみことばを信じ、実行することです。そうして私は今日まで支えられてきました。

さて、第一テサロニケ五章のみことばに戻りますが、「いつも喜んでいなさい」と言われたら、皆さんはどのように答えますか? 「いつもなんて無理です」と多くの人が答えるのではありませんか。皆さんは、どんな時に喜びますか。例えば、これから高校や大学の入試の時期になりますが、一生懸命勉強して勉強して自分の希望する高校や大学に合格したり、子どもが生まれたり、またビジネスに成功したりした時に、小躍りして、やった!と喜ぶと思います。しかし、例えば享子先生のように「あなたは、余命三カ月です」と宣告されたとしたらどうでしょう。目の前にすごく嬉しいことがあったとしても、心の底から喜ぶことができるかといったら、なかなか難しいのではないかと思います。
でも聖書の中にはこんなことが書かれています。

『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。』(ペテロ人への手紙 第一 四章十二〜十三節)

ここには、試練があって苦しんでいたとしても喜んでいなさいと言っています。喜びとは何でしょう。私たちクリスチャンは罪が贖われ、永遠のいのちという素晴らしい恵みをいただいている。これこそが大きな喜びです。
パウロは、キリスト・イエスに出会い、主を信じる者とされました。その後、何度も何度もさまざまな患難や苦しみに遭いましたが、彼は永遠のいのちを獲得したという大きな喜びをもっていたがゆえに、目の前に辛いことや苦しいことがあったとしても、そんなことは『ちりあくたにすぎない』と表現し、どうでもよいことだと語っています。
私たちもイエスさまの大きな犠牲によって受け取ったこの永遠のいのちを決して手放すことなく、またこの二〇二二年、主にあって本当の喜びに満たされ、そして「いつも喜んでいなさい」というこのみことばを実行できる者となりたいと思います。

次に、『絶えず祈りなさい』(十七節)とありますが、当然、二十四時間祈り続けることは不可能です。『絶えず祈りなさい』ということばの原語の一つに、「隙間がない。隙間なく」という意味があるそうです。それを読んで、一つのことが浮かびました。しつこい咳に悩まされている人がいるとします。その人は会社で、「今日の会議中に咳き込んで話もできなくなるんじゃないか」、また友達と会食する時にも、「咳き込んで迷惑をかけるんじゃないか」と考えて、いつも咳を意識して心配で咳が頭から離れないでしょう。同じように、いつもイエスさまが共におられることを意識するなら、いつもイエスさまの存在を認め、隙間なく主の臨在を意識して忘れないでいるなら、どんな時にも心から離れることはないでしょう。それが、「絶えず祈る」という意味ではないかと思います。