神さまご自身の働き、必ず私たちの思いを越えて、あらゆる領域の垣を越えて行きます。しかも、さらにスピードアップして、主の働きが進んでいきますので、そのことを信じて、本当に戦い続ける者でありたいと心から願います。私のメッセージはここまでにさせていただきます。ハレルヤ!

 


≪≪滝川充彦 副牧師≫≫

ハレルヤ!今日こうしてカウントダウンワーシップにおいて、みことばを皆さんと共に分かち合う時が与えられていることを心から感謝します。
私がこの二〇二一年に与えられたみことばは、第二サムエル記の六章からでした。ダビデが契約の箱をダビデの町に運び入れる時に、彼が王服を脱いで力の限り喜び躍って賛美し、箱をお迎えした。その箇所からでしたけれども、私たちは神の民として、主の栄光を覆ってしまうような、自らの王服を脱いで、そしてダビデのように祭司として亜麻布のエポデをまとって、モルデガイのように主の権威を伴う王服を主から着せていただいて、主の前にへりくだって、ただただ主に従い、そして力の限り主を賛美し、主をお迎えしていく、そのようなことを語らせていただきました。今年、二〇二一年、私自身の歩みを振り返ってみて、神さまご自身が私に新しい服をたくさん着せてくださったのかなと、そのような印象があります。
特別、私自身が求めたことではなかったのですが、図らずも、主ご自身が副牧師という新しい服を着せてくださって、さらに主に仕える者とさせてくださる、ということがありました。それはただただ、皆さまの愛とお祈りの支えによるものだと思っております。本当に心から感謝申し上げます。

では二〇二二年に対して、私自身が神さまから示されているみことばをお分かちしていきたいと思います。それは詩篇四十六篇一節、

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』

そして七節と十一節、

『万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ』
神さまご自身は、私たちの避け所であり、またとりでであるということです。
十二月八日の水曜礼拝において、この詩篇四十六篇全体から、私はみことばを取り次がせていただいたのですが、その時期にこの箇所を読んでいたとき、みことばが私の目から体の中に飛び込んでくるような、とても強い印象を受けました。
このみことばに触れられて、私の思いの中で、これは二〇二二年、来年に向けてのみことばであるかもしれない。そんな思いが与えられました。きっと主が語ってくださったのだと思います。ですからこのみことばを今晩、皆さまと分かち合っていきたいと思います。

まず詩篇四十六篇一節を見ていきたいと思います。『神はわれらの避け所』の「避け所」という言葉は「マハセ」という言葉が使われています。「避難所」「シェルター」という意味があります。雨や嵐、危険や詐欺、また騙し事からの避難、またそのようなものからの守り、そんな意味合いがあるのですが、その言葉を更に学ぶと、語源には、「避け所を求めていく。保護のために逃げていく。」そんな意味合いがあるこが分かります。
この「マハセ」、避け所という背後には、「神さまへの信頼」というテーマがあります。例えば、病気になったら病院へ私たちは駆け込むわけですよね。なぜならば病院へ行ってお医者さんに診てもらえば病気が治るというお医者さんへの信頼があるからです。私たちも主への信頼があるがゆえに、主なら助けてくださるという信頼があるゆえに、主のもとに駆け込むわけですね。その時に主ご自身が私たちの避け所になってくださる。そのような意味合いがあります。
私たちの神さまは天地万物を造られた、創造主であって、全能の主であります。また救い主、いやし主、助け主、奇跡を行う方、この主に私たちは信頼して、私たちの身をただ寄せていけばいいのです。その時に主が私たちの避け所となってくださり、私たちを完全に守ってくださる。そのような約束のみことばであります。

この詩篇四十六篇を元に、「神はやぐら」という讃美歌が作られたそうです。その讃美歌は、宗教改革の時に、多くの宗教改革に携わった人々を励ましたと言われます。そして宗教改革をもたらしたルターが作ったと定説となっている曲であります。このルターが残した言葉の中で、“人が神以外のものに心を寄せるなら、それは全て偶像礼拝である。”そんな厳しい言葉がありました。
しかしその意味合いを見ていくと、彼が「偶像」という言葉を使う時には、被造物を意味するそうです。この被造物、主が造られたもの、山や木々や、鳥や海、空、星々、本当に美しいものでありますけども、それは素晴らしいものでありますが、永遠に続いていくようなものではないですね。変化するものです。そして衰えていくものです。絶対的な存在ではない。本当に信頼しきることのできる存在ではないわけです。
しかし私たちの主はそれを創造された創造主、そしてアルファでありオメガであり、初めであり終わりです。万物の創造者、完成者、絶対の方です。本当に信頼しきることのできる方であります。ルターはそのような主に心を寄せることが大切であると説いたのかもしれません。
信頼し切ることのできる主が私たちのすぐそばにおられます。「そこにある助け」とあります。主への信頼を大きく私たちは持っていく二〇二二年とされていきたいと、そのように覚えさせられています。

そして、詩篇四十六篇の七節と十一節、

『万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ』

次に「とりで」という言葉を見ていきたいと思いますが、これは「ミスガブ」という言葉が使われているそうですが、「高い所、砦、やぐら、安全な高台、逃れ場」、難攻不落な安全な場所という意味合いがあります。砦ということですけれども、ここはイスラエルにあるマサダという所です。
マサダの要塞であります。要塞、ある意味、砦ですね。天空の城とも言われる場所ですけれども、ユダヤ人がローマ帝国に対して蜂起して、ユダヤ戦争が起こりましたが、その時、紀元七〇年、約千人の人々がこのマサダに立てこもったと言うのです。
そしてローマ軍一万五千人に取り囲まれました。ローマ軍がここを攻めていくのに三年半かかったと言うのです。このような高台にあったので、本当に難攻不落な、まさに砦であったわけですね。
この詩篇の「とりで」には、戦いの要素があるという事を見ることができます。また「万軍の主」とありますが、軍の将、万軍の主が私たちと共におられる、ここにも戦いの要素があります。究極的に、私たちは主という砦の中に身を寄せて万軍の主によって私たちは守られるわけですが、この砦、戦いという要素がある中にあって、私たちは、その避け所とされた砦の中で守られて、主が守ってくれるからじゃあ安心、何もしなくていいかと言うと、そうではないことを覚えさせられます。
あのマサダの要塞においても、立てこもって攻撃に対して作戦を練ったり、また時には反撃してローマ軍を攻撃することもあったと思います。そうしなければ簡単に攻め落とされてしまうわけです。
私たちは究極的な主ご自身の避け所、シェルター、砦があるわけですが、そのような場所においてなすべきことがあるということを覚えさせられます。

この詩篇四十六篇の背景には、ある一つの聖書の出来事があると言われます。それは、第二歴代誌十八章から十九章に書かれてあります。南ユダのヒゼキヤ王の時代です。エルサレムがアッシリアの大軍に取り囲まれます。大軍が押し寄せてくるんですね。エルサレムは地理的に砦、要塞のような場所でありました。
おびただしい大軍に取り囲まれて、この南ユダの人々、ヒゼキヤ王は恐れおののいたわけですね。そしてそのアッシリア、敵たちは、「おまえの神は本当により頼むことができるのか。助けることなんかできないだろ。」と主を冒涜するのです。そんな不信仰を煽るような言葉を敵はかけてくるのです。これは悪魔のささやきであると思います。
そんな中で、ヒゼキヤ王は何をしたかというと、主の宮へ行って、敵が冒涜した言葉を手紙で送ってきたのですが、その手紙さえも主の前に差し出して、「敵がこんなことを言っている。主よ、助けてください。」と主に祈りをささげました。
その祈りに対して、預言者イザヤを通して「その祈りをわたしは聞いた」と神さまは応えられ、そして主によって天の使いが遣わされ、一晩で十八万五千人の敵が滅ぼされ、大勝利がもたらされたのです。アッシリアの大軍は撤退していきました。
砦において、私たちは神さまご自身に、万軍の主に守られるのですが、何もしないのではなくて、その中で私たちには「祈る」という使命が委ねられていることを、ここで教えられ、覚えさせられます。
二〇二二年、私たちはさらに、主ご自身の砦の中で、避け所の中で、守られながら、戦いの意識、霊的戦いという剣を、今一度しっかりと握りしめて、祈りの剣を掲げるようにと主ご自身から語られているような思いをいただいています。
二〇二二年、どのような年になるか、私たちには分かりませんが、確かに主が帰られる日は近づいていて、終わりの日が近いこの時代、悪魔も必死に私たちの信仰を落とそうと、滅ぼそうと、不信仰を煽り攻撃してくることは必至だと思います。
私たちはそのような中でも主への信頼を失うことなく、主に身を避けていくならば、主が必ず私たちを守ってくださる、避け所となってくださる。そして私たちはそのように主に避け所を設けて、何か逃げていく、撤退していく、弱い存在だと自分自身で思ってしまうような状況に立たされる時が、たとえあったとしても、撤退した場所、逃れた場所は、主という避け所、砦であって、そこは霊的軍事施設であります。そこで私たちは霊的戦いという剣を握って、祈りの使命を果たしていくならば、ヒゼキヤ王の祈りを聞き遂げた主によって、天の使いが遣わされて、一晩で十八万五千の敵が滅ぼされたように、万軍の主が共におられて、万軍の主によって私たちが信じられないような大勝利を二〇二二年は受け取る年とされる、そのように覚えさせられています。
今晩このみことばを二〇二二年に対して私が主から与えられたみことばとして信じて、お分かちさせていただきました。ハレルヤ!

 


≪≪公畑フェルナンド 牧師≫≫

ハレルヤ!この二〇二一年、神さまは私たち夫婦、また私たちの家族と教会全体、日本人と外国人を守ってくださり、祝福してくださいました。心から感謝します。
昨年に、この二〇二一年のために与えられたみことばは、
「主を喜ぶことはあなた方の力だからです。」でした。そしてこのみことばは、今年私を支えることばとなりました。インターナショナル部会のために、今年起こった多くの問題や困難の中を通りぬけるために、神さまにある喜びは力となりました。

そして二〇二二年のために、神さまからこのみことばをいただきました。
「この年は満ち足りた年になる。」というものです。スペイン語で言うと、「Año de plenitud.」と言います。「満ち足りた」の部分は、スペイン語で「plenitud」ですが、これには「完全、充満、全部」という意味があります。
おそらくあなたの人生、昨日までは部分的な勝利があったでしょう。しかし神は「二〇二二年、あなたは覚悟しなさい」と言います。なぜなら、イエスさまの名前によって完全勝利の年となるからです。この年は中途半端な祝福で終わらず、完全な祝福の年となります。この年は今までと同じような年を繰り返すものではありません。あなたの人生の全ての領域で満ち足りた年となります。イエスさまのお名前によって、完全で、満たされた、全面的な祝福の年になります。

しかしこの「満ち足りた人生」とは、「気楽な人生」という意味ではありません。問題のない人生という意味ではありません。危険が伴わない人生ではありません。

聖書のある登場人物についてお話ししたいと思います。そしてその人の人生の中に、この言葉が出てきます。神さまが私たちに語られている、満ち足りた人生を生きた人が出てきます。ヨブ記四十二章十二節~十七節(新改訳2017)、

『主はヨブの後の半生を前の半生に増して祝福された。それで彼は羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハ・プクと名づけた。ヨブの娘たちほど美しい女は、この地のどこにも見つからなかった。彼女たちの父は彼女たちに、その兄弟たちの間で相続地を分け与えた。この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。』

もし神が、イエスさまをこの地上に遣わされるよりも先の時代に、ヨブの後の半生のように祝福を与え、祝福に満ちた人生を与えることができたのなら、そして長い人生と満ち足りた人生を与えることができたのなら、神はあなたにもそれを与えることができます。
ヨブは最初の良い例として名前を挙げられています。神様からの祝福に満ち足りた生涯を送った良い例として挙げられる中の一人です。
満ち足りた生涯であったとは、彼が気楽な人生を送ったのではありません。問題のない人生を送ったのでもありません。問題の不在があなたの人生を充実させるのではなく、神さまの臨在があなたの人生を充実させるからです。ヨブは多くの問題に直面しました。皆さんもご存じだと思いますが、彼は財産をすべて失いました。家族、子どもたちを失い、また彼自身の健康も失いました。しかし一度も神との親しい関係を失いませんでした。

人生の中では失うかもしれない多くのことがあります。しかし神との友好関係を手放してはいけません。ヨブは、人生の良い時にも悪い時にも神を慕い求めることを学びました。彼は人生のどんな時でも神を慕い求めることを学びました。もう一度言います。その満ち足りた人生というのは、問題がないということではなく、神の臨在があるということなのです。
ですから、二〇二二年、あなたが満ち足りた年を望むなら、神さまをさらに慕い求めることを決心しなければなりません。あなたの人生において神の臨在を第一にすることを決心しなければなりません。
ですからこの新しい年、神さまから離れてはいけません。神さまにつながりましょう。求めてください。神の臨在を熱望してください。