ジョシュア・ムンフ師特別メッセージ

2026年3月15日(日)

イザヤ書6章8節

私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」

私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

ハレルヤ。ありがとうございます。ここに来ることができ、まるで私の新しい故郷に来たような感じがして、感謝しています。

今日の朝、とても大きな音が聞こえました。それは、花火を使って神々を起こしているのだと聞きました。キリスト教と他の宗教との違いは、他の宗教では神々を起こさなければならないという点にあります。しかし、私たちの神は、わざわざ起こす必要のある方ではありません。神は、むしろ私たちを起こしたいと願っておられます。

今日は皆さんに、目覚めてほしい、起き上がってほしいというメッセージをお伝えしたいと思います。「新城教会よ、目覚めよ」というメッセージです。

今日のメッセージのタイトルは「誰が私についてくるか」です。聖書、イザヤ書6章8節をお読みします。

私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」
私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

神はイザヤに質問されました。誰を遣わそうか。誰がわれわれのために行くだろうか。するとイザヤは、こう答えました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

同じ質問を、今、神は皆さんにも語っておられると思います。皆さんは、どのように答えるでしょうか。

アメリカのクリスチャン活動家であるチャーリー・カークが亡くなりました。この方の奥様が語っておられた言葉ですが、チャーリー・カークのお気に入りの御言葉が、このイザヤ書6章8節だったそうです。チャーリー・カークは毎朝、神に祈っていたそうです。「神さま、私はここにおります。私を使ってください。遣わしてください。」

真の礼拝とは、神の問いかけに対して、私たちが答えることです。私たちは神に多くの質問をすると思います。神さま、なぜですか。何をしてくださるのですか。私の祈りに応えてください。しかし、真の礼拝はそれとは違います。真の礼拝とは、私たちの問いかけに神が応える瞬間ではありません。真の礼拝とは、神が問いかけ、私たちがそれに応える瞬間なのです。

神は皆さんに問いかけています。「われわれは誰を遣わそうか。」

私のために神が何をしてくださるかということではありません。本当の答え方は、神のために私は何ができるのだろうか、という問いです。皆さんも、神にこのように応えてください。「神さま、あなたのために私は何ができますか。」
20年前、私たちの教会はモンゴルの東の方へ開拓に出かけました。その地域にはクリスチャンが一人もおらず、田舎の小さな村でした。そこで私たちは福音を伝えました。そして新しい光、「ニューライトチャーチ」がそこに差し込みました。

その小さな村から、7年間のうちに七つの教会が始まりました。この教会開拓の働きは、モンゴルの中でどんどん拡大しています。

ここで少し写真をご紹介したいと思います。これが教会開拓20周年記念の写真です。これが一つの教会です。この教会は、来年新しくスタートする教会の一つです。ゲルの教会です。新しい教会です。

こちらは、この小さな町の教会のメンバーであり、初代メンバーです。こちらもまた違う地域ですが、新しく教会開拓をする教会です。これは一つの民族の教会です。この人たちは、もともとシャーマンの影響を受けて生活していた人たちです。こちらが最近生まれたばかりの教会です。私たちの働きの中で仕えているカザフ族出身の牧師たちです。

私の働きは主に、教会の人々を訓練し、開拓に送り出すことです。私たちの神学校を卒業したカザフ族の牧師たちです。私たちの最終的な目標は、このカザフスタンの手前にいるカザフ族の人々のもとへ、さらに西方へ開拓に出て行くことです。これが私たちのビジョンの一つです。

私たちは、この新城教会と共に、モンゴルの働きの中でさらに多くの教会を開拓したいと願っています。最終的には、モンゴルの中にいるカザフ族の人々の間に教会を開拓し、さらにモンゴルの外、国境を越えてカザフスタンにまで宣教を広げていきたいと願っています。

そして今日の午後の集会では、中央アジアについてもう少し詳しく、この働きについてお話しし、この夏の働きについても少し皆さんに紹介したいと思っています。

教会を開拓すること、そして弟子を育てること、人を育てていくことが大切です。

本来のリンゴの木とは何でしょうか。皆さんはリンゴの木から出るものはリンゴだと思うでしょう。しかし、本物のリンゴの木とは、リンゴの果樹園であると私は考えています。

教会の実とは一体何でしょうか。私は、それは多くの教会が生まれることだと思っています。

韓国でもお会いしたアイナというカザフ族の牧師の写真があります。20年前、私たちが村で教会を始めたとき、このアイナさんという方はイスラム教徒で、教会に反対し、迫害する側に立っていた人でした。しかし彼女は、今では牧師になりました。

ある時、神学校で礼拝をささげ、祈っている中で、彼女は神から一つの問いかけを受けました。「あなたは私を愛しますか。」アイナさんは、その問いかけに対して「はい、イエスさま、私はあなたを愛します」と答えました。そして「はい、私は行きます」と答えたのです。

そして彼女は今、教会開拓の働きに大きく携わり、多くの教会を建てています。

イエスを愛するということは、主の為に出て行くことではないでしょうか。イエスはペテロに「あなたは私を愛するか」と問いかけられました。ペテロは「主よ、あなたを愛しています」と答えました。そしてイエスは「私の羊を牧しなさい」と言われました。

愛とは、単に言葉で終わるものではありません。愛はただの感情ではありません。愛とは、私たちが従順に宣教の働きに応答することです。

私たちが60歳であっても、70歳であっても、80歳であっても、あるいは100歳であったとしても、限られた時間の中でどのように応答するかがとても大切です。

私もあなたを愛しています。その証しとして、行くべきところに私を遣わしてください。私は行きます、と答えるのです。

イエスは本当に私たちを愛してくださいました。今度は私たちが、神に応答する時です。

今日、私はもう一つの質問を皆さんに問いかけたいと思います。皆さんはイエスを愛していますか。

信仰とは、旅のようなものです。

信仰とは、何かから離れることでもあります。アブラハムは父の家を離れました。弟子たちは自分の船や網を離れました。初代教会の人々は、本当はそこに留まりたいと思っていました。しかし迫害によって、多くの人々が散らされました。その結果、多くの福音が世界中に広がっていきました。

かつてモンゴルで、スウェーデン宣教師たちが迫害されたことによって、日本へ行くことになりました。

私たちの人生は旅のようなものです。初代教会では、クリスチャンのことを「旅人」と呼んでいました。

昨年、望さんと香さんがモンゴルに来られました。私たちは東方の地域を旅しました。その中で、日本とモンゴルの戦争の場所にも行きました。私たちはその場所で取りなしの祈りをしました。

そこまで行くのに、約2日間の旅路がありました。旅を終えて取りなしをした後、再び引き返しました。その国境のエリアは、人があまり住んでいない、ただ広い場所で、道もなく、ただ草原が広がっている場所でした。

私たちは運転しながら、自分たちの行くべき場所を見失ってしまいました。電話も使えず、GPSも使えませんでした。そして完全に迷子になってしまったのです。

隣にいた望先生に、「迷子になりました」と伝えました。望先生の顔には心配の表情が現れました。私たちにできることは祈ることだけでした。車の中で、本当に祈りました。

すると、対向車が一台現れました。祈りが聞かれたと思いました。そしてその車が止まりました。しかし、その車から降りてきた人は、完全に酔っぱらったおじさんでした。下着だけで、ほとんど裸のような状態で車から出てきたのです。

一緒に来ていた望先生も驚いた表情でした。私たちはその酔っぱらった人に、「私たちは迷子になりました。今どこにいるのか教えてください」と尋ねました。しかし彼は、「私も自分がどこにいるのか分からない」と言いました。

そこで私たちは、さらに真剣に祈りました。本当は東にいたので、西の方へ引き返さなければならなかったのですが、間違えて北の方へ行ってしまっていました。

そして古い看板を一つ見つけました。そこには、「もうすぐロシアの国境です」と書かれていました。

私たちは西の方へ引き返しました。同じような景色を見ながら、ずっと運転が続きました。最終的に、行くべき道にたどり着きましたが、一日中運転を続けることになりました。

村の近くに来たとき、草原の中で本当に美しい夕焼けを見ました。素晴らしい絶景でした。望先生はその景色に感動していました。そして反対側には、美しい虹が出ていました。

その瞬間、私は神さまが「よくやった、良いしもべよ」と語られたように感じました。

私たちの人生は、まるでこの一日に経験した旅路のようなものだと思いました。旅路の中で、私たちは時々迷子になることがあります。本当に疲れてしまうこともあると思います。

しかし覚えていてほしいのです。常にイエスさまがそばにおられるということを。この忠実な方は、最後まで私たちを導いてくださいます。そして虹は神さまの約束です。

私たちの人生は、本当に大きな旅路です。ゴビ砂漠には地図がありません。神さまは私たちに地図を渡されません。なぜでしょうか。それは、私たちが完全に神さまに頼るようになるためです。

私たちにはGPSがありません。しかし私たちの心の中には、特別なGPSがあります。それは聖霊です。聖霊が、神さまと私たちをつなぎ、私たちを導いてくださいます。

ゴビ砂漠のような荒野は、私たちが神さまに頼り、神さまに信頼することを学ぶ特別な場所です。

私たちは居心地の良い場所にいると、神さまに頼らなくなることがあります。韓国や日本のように便利な場所では、神さまに祈らなければならないという絶対的な必要を感じないこともあるかもしれません。

しかしモンゴルの荒野では、神さまを一瞬たりとも見失わない生き方をしなければなりません。

昨年の夏、新城教会がゴビ砂漠に向かったとき、同じような経験をされた方もいると思います。

昨日の交わりの中で、「モンゴルでは、なぜ宣教活動がこんなに簡単に見えるのか」という話題がありました。その理由は、福音に対する飢え渇きだと思います。

砂漠の中で、飢え渇いている状態の人にとって、一杯の水は命を救うものです。しかし、すでに多くのもので満たされている場所では、一杯の水はそれほど重要に思われないかもしれません。

同じ一杯の水、同じ福音のメッセージでも、受け取る側の状態によって、全く違う受け取り方になります。

荒野とは、私たちを神さまとの深い関係へと導く場所です。深い発見をする場所です。しかし荒野は、一人で行く場所ではありません。

イエスさまは、「私はあなたとともにいる」と言われました。それは私たちにとって、何よりの安心です。

私たちは常に、神さまと出会うためには、自分の居心地の良い場所から一度離れる必要があります。皆さん、新城の外に出てください。ゴビ砂漠に来てください。そこには何もありません。だからこそ、神さまと直接出会うことができます。

神さまと出会いたい人を、モンゴルは歓迎しています。

しかし荒野は、一人で通過する場所ではありません。

新城教会の人たちが、8月にゴビ砂漠に行きました。そして砂漠の中の山に向かいました。本当に大きくて高い砂丘の山でした。そこを登ろうとしました。

皆で登り始めましたが、その山に登ることができなかった人がいました。その中の一人は年配の方でした。彼女は「自分にはそこまで登る自信がないので、リタイアします」と言っていました。

チームの中のもう一人も、体調が少し悪かったため、「私はこの砂丘に登るのをやめようと思います」と言っていました。

私はその人たちに、「一緒に登りましょう」と勧めました。その山の頂上は、本当に天国のような場所だから、一緒に行きましょうと勧めました。