特に預言することを熱心に求めなさい

2026年3月8日(日)新城教会副牧師 滝川充彦

コリント人への手紙 第一 14章1節
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

ハレルヤ。皆さんおはようございます。 今日こうしてこの聖日、主の前に出て礼拝を捧げられる主の恵みと特権が私達に与えられていることを感謝いたします。

早速ですけども、みことばを皆さんとともに受け取っていきたいと思います。昨年の12月末頃から私の心の中に不思議に「預言的に生きる」という思いが巡っていました。 そのような中、私自身「預言」ということを学んでみました。今日は「預言」ということを学んでいきたいと思います。コリント人への手紙の第1の14章1節で「特にに預言することを熱心に求めなさい」ということですので、神さまが与えてくださる重要な賜物の一つが「預言」であるということです。私達はこの「預言すること」を熱心に求めるものとなっていきたいと思います。このコリント人への手紙第一の12章から14章の中に賜物について書かれてあります。12章には「賜物の統一性と多様性」ということが書かれてあります。賜物には様々な働きがありますが、それは一つの聖霊さまの働きですよということが書かれてあります。 そして13章には「最も優れた賜物としての愛」について書かれてあります。そして14章になって「預言と異言の賜物について」書かれてあります。この賜物ということでありますけども、コリント人への手紙の第一12章10節から読んでみます。

「10ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 11同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。 12ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」

とあります。教会、キリストの体の中に、主の霊によって様々な働きが与えられているということがこの箇所でも書かれております。「ある人には預言」とあります。教会の中にはそのような機能が備わっているということです。私達一人ひとりに神さまから備えられているということです。その預言、また預言者ということで、最もわかりやすい存在というのがモーセだと言われます。 モーセは預言者のひな型だと言われます。ちょっとそのことが分かりやすい聖書箇所が申命記の18章18節になります。

「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」

この「わたし」は神さまです。預言は神さまが与えてくださるものです。そして、「彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような1人の預言者を起こして」とありますので、この預言者という存在は、イスラエルの民、主を信じる民の中から、神さまが選ばれ任命された、召し出された人物、それが預言者です。そして、「彼らのために」とあります。モーセを通して神さまの言葉が預けられイスラエルの民が導かれました。預言者の役割は、主を信じる民イスラエルの民を導くために起こされ存在ということです。 そして、「彼の口に私の言葉を授ける」とあります。預言という言葉は「預かる」という言葉が使われています。神さまがこの預言者に対して神さまの言葉を授ける、預けるということです。 そして「彼は私が命じること全てを彼らに告げる」とあります。預言者の役割は、神さまから預けられた言葉をそのまま民に語るということです。人を恐れて留めてしまうことなく、主を恐れて、預かった言葉を民に告げることが預言者の役割ということです。ですから。預言者というのは端的に言うと「神の代言者」という基本概念があるということです。 神さまの言葉を預かり、語るということです。

また、神さまの言葉を預かってそのままに、人々に述べ伝えるという行為は、その背景には「神さまに従う生き方。みことばに生きる生き方」を見ることができます。預言者というのは、一義的には「神の代言者」という意味があるということをまず押さえていきたいと思います。

そして、預言の賜物が与えられた私達一人ひとりが神さまから言葉を預かることの中心は何かというと、それは主です。主が与えてくださるわけですから、主権者は主であるということを預言の賜物を熱心に追い求めていくにあたって、私達が覚えておかなければいけない前提となります。また、預言者は主から語られるわけですから、主に触れられて、聖霊が注がれて、神さまとの霊的な交わりがあります。霊的な体験があるわけです。不思議に神さまの言葉を語りかけられるこのような預言に対して、オカルト的なイメージ、シャーマニズム的なイメージを持たれるかもしれませんが、決してそのようなことはないということです。 預言者が、何かの霊に憑かれて、自分の意識を失い、訳のわからないことを語り出す。予言というのはあらかじめ言葉をもらって、未来のことについて告げる、占いもそのような類です。そういった状態では預言者はないということを覚えて欲しいと思います。 預言の領域には神さまの秩序があるとコリント人への手紙の第一の14章32節から見ると分かります。

「コリント人への手紙 第一 14章32節~
32預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。 33神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」

と、預言者たちが、気が狂ったようになってしまう、自我を失ってしまうような状態にはならないです。秩序のある平和の神さまご自身が臨んでおられるからです。 また14章の39節からには、

「39ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることを禁じてはいけません。 40ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」
とあります。私達預言を受け取る側が秩序正しく預言を行うことができる。もしも秩序を乱すようなことがあったならば、それは果たして本当に神さまからのものだかどうかということを吟味しなければならないです。また、秩序という領域が、神さまの言葉を正しく預かっているかの規範にもなります。

主権者は主ということで、もう一つみことばがあります。 エペソ人への手紙の2章の20節から

「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」

とあります。教会キリストの体は、預言者たちという土台の上に建てられていて、最も重要な土台の石がイエス・キリストであるということです。 私達の中心がイエス・キリストでなくなってしまった場合は、預言の賜物熱心に求めていくために必要なことであります。イエス・キリストの土台の上にしっかりと私達が立たされなければ、神の言葉を正しく預かることができない、独りよがりの人間的な自分の考えを神の言葉として発してしまう危険性があるということです。

最近、新城教会の中でも子どもたちが不思議な夢を神さまから見せられたりして、神さまからの言葉を語られたりすることが多くあります。 子どもたちのことが話されることが多いのですが、大人になった私達には起こらないと捉える必要はないんです。新約の時代は、全ての人が預言者の役割を果たすこのことを覚えていきたいと思います。使徒の働きの2章16節からには、

「16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」すると彼らは預言する。

とあります。旧約時代のモーセを筆頭に士師たちやサムエル、エリヤ、エリシャ、エレミヤ、イザヤといった特定の人物を思い浮かべるかもしれません。しかし、新約の時代は、私達全ての一人ひとりに主の霊が注がれ、神さまからの言葉を預かって、この地に神さまの言葉を宣言できる、そのような主の恵みと預言者としての特権が与えられています。そんなことを考えると、自然と主への期待が膨らみます。また、この新約の時代に生かされている私達に任されている神さまからの大きな責任を感じさせられます。 コリント人への手紙の第一の12章28節には、

「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」
とあります。教会の中で、私達一人ひとりは神さまご自身によって選ばれている、モーセのように任命された者です エペソ人への手紙の4章11節にも、

「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」

とあります。私達は大胆に預言者として任命されていると受け取っていきたいと思います。私は、夢で語られたこともない、直接に神さまから言葉を聞いたことがない、そのように思う方もおられるかもしれません。しかし、神さまは様々な形で私達に語りかけてくださいます。私達には受け取る特権があることを覚えていきましょう。

では、神さまは、どのように私達に神さまの言葉を預けてくださるか、預言の形態について今から学んでいきたいと思います。大きく4つの形態があると言われます。一つは、神の言葉の直接的な啓示、直接神さまの言葉を私達が受け取る、神さまの声を不思議に聞くということです。聖書の中でもそのことを見ることができます。もう一つは、民数記12章の6節で

「主は言われた。『聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。」
とあるように、夢や幻を見せられて、その中で語られることがあるということです。そして、もう一つは、説明的言葉に伴う比喩的振る舞いです。神さまが預言者に対して、ある行動をしなさいと言われるようなことがあるということです。 イザヤ書20章2節には、

「当時、主はアモツの子イザヤによって、すでにこう語っておられた。『行って、あなたの腰の粗布を解き、あなたの足の履き物を脱げ。』彼はそのようにし、裸になり、裸足で歩いていた。」

もし神さまがこのように皆さんに語られたらどうしますか。今から靴を脱ぎなさい。服を脱ぎなさい。裸で街を歩きなさいと言われたら、現代においては秩序がないので、真似しないでください。これは、エジプトやエチオピアがアッシリアに捕虜となったときの姿を語っているということです。神さまがされようとしていることをある比喩的行動を通して人々に伝えることがあるということです。そして、最後は指針を書き記す。神さまの言葉を文字にして書き記すことです。このように様々な形態を通して神さまは私達に語ってくださいます。
最近、教会のある小学生にあった不思議な話をお分ちします。その子は小学校6年生で、この1月に中学受験にチャレンジしたそうです。地元中学校に行くこともできるのですが、市外の中高一貫校の中学校の勉強の仕方に興味があり、チャレンジしたいということで受験したそうです。12歳の小学生が進路を決めることはなかなか不安なことだと思います。本当にその学校へ行くべきか、地元の中学校へ行った方がいいのか、何が一番良いのかと悩んでいたそうです。当日、試験会場に付き添った親御さんが不安になってるその子どものことを察して声をかけました。「イエスさまにお祈りしてみたら」と一言声をかけたそうです。その子は試験の前に神さまにお祈りをしました。「神さま、その中学校に行くべきでしょうか、それとも地元の中学校に行くべきでしょうか」すると、神さまが直接的に言葉をかけてくれたそうです。その言葉は、「あなたが決めなさい。」でした。 不思議な答えです。そして、「どっちの中学校に行っても、私が祝福された中学校生活にしてあげるから、楽しい中学校生活にしてあげるから」と語られたそうです。私達が求めたら神さまは語ってくださいます。その子は神さまの言葉を受け取って、安心して試験に臨むことができました。
そして試験結果はどうだったかというと不合格だったそうです。しかし、その子は、全く落ち込まなかったそうです。なぜならば、神さまの言葉を受け取っていたからですが、実はその試験結果がわかる前日にその子は夢を見たそうです。その夢は、「自分が雲の中に引き上げられていって、目の前にイエスさまが座ってた。その前に座らされた。」そうです。 そして、目の前のイエスさまに聞いたそうです。「明日、合格してますか?」と。イエスさま「たぶん落ちるよ」と応えられたそうです。「たぶん」というのがすごいですね。イエスさま配慮がありますね。人間は未来のことは分かりません。まだ起こっていないことですからある程度期待もありますから。その子は、そんな神さまの言葉を聞いていたので落ちる結果も予想できていたようです。この試験の始まりから結果まで神さまの計画の中にあったことを受け取っていた故に、その子は落ち込まなかったわけです。神さまに求めたら、私達は神さまの言葉を受け取ることができます。信じましょう。