2026年1月4日(日)ジョー・ハイト師
ヨハネの黙示録 22章1~3節
御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
おはようございます。少し肌寒いですね。 私のお気に入りの嫁が、こうして通訳をしてくれることを誇りに思っています。私たちは本当に幸運だったと思います。皆さんに会うために、この新城に、日本にまた来られただけでなく、正直に言うと、私たちの孫にも会うために来ました。
去年の7月までは孫は8人だったのですが、わずか1週間の間に8人から10人に増えました。それから色々なところを旅して、新しい孫に会ってきました。妻のロビンは私よりも2回ほど多くオハイオ州に足を運んで、チェルシーの新しい孫娘に会いに行きました。「もうこれで最後だ」と言いましたので、私の孫は10人です。けれども、望さんの19人の孫には到底及ぶことはありません。負けたと思っています。
昨晩は望さんと香さんの子供たち、そして孫たち全員と一緒に食事をすることができました。蒲郡にあるレストランを貸し切りにして、食事に行きました。私たちは何が起こっているのか分からないほどの「カオス状態」でしたが、それでも子供たちはちゃんと親の支配下にあったと思っています。そういうカオスの中で、おじいちゃん・おばあちゃんは一番いいポジションにいられます。親が責任を持って孫たちを治めるので、私たちはただそれを見ていればいいということで、本当に楽しかったです。
日本に来て、ピアスが頑張って子育てをしているのを見て、私は笑ってしまいます。なぜならピアスも子供だった時、私に全く同じことをしてきたからです。その光景を見るのは、とても楽しいものです。
ヨハネの福音書7章を見ましょう。37節から39節です。先週の水曜礼拝でもこの箇所を取り上げて話しましたが、カウントダウン礼拝でも少し取り上げました。ここで語られている「終わりの時の約束」について、もう一度皆さんに語らせていただきたいと思います。神様が私たちに素晴らしいものを約束してくださっています。そして、神様が私たちに回復されたこの「神の御国」を約束してくださっています。神様は「暗闇にいる人たちにこの約束のメッセージを伝えるように。そして、彼らが生き返って永遠の御国で生きることができるように」と、私たちにおっしゃってくださっています。
ヨハネの福音書7章37節から39節をお読みします。
37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
イエス様が「だれでも渇いているなら、わたしの元に来て飲みなさい」という有名な言葉を語られました。これは「仮庵の祭り」の時に語られたものです。そして、仮庵の祭りの時に何が起こるのかということが、聖書の中で説明されています。それは大勢の人が列になって器を持ち、その中に水を入れて、神殿の階段のところに注ぐように並びました。人々がそれをするうちに、階段からその水が流れ出て、階段が滝のようになり、町の道の中にも流れ込んでいくのです。その儀式がなされている真っ只中で、イエス様はこの言葉を語られました。 「だれでも渇いているなら、わたしの元に来て飲みなさい」
この生ける水の川が、イエス様から当時の人々の元に流れるだけではありません。人々の心の奥底からその水が流れ出て、その人たちからまた周りの人へと流れ出て、それが祝福となる。人々自身が神殿となって「生ける水の川」が流れ出ると約束されたのです。
この「水」とは、聖霊の象徴でした。「この聖霊が来られる」と言われたのです。イエス様は「この後、わたしは死に、よみがえり、神の右の座に座るときに、聖霊が送られる」と言われています。人々が列になって並んで水を注いでいる光景が、後に来る(当時まだ来ていなかった)聖霊が下ることを示していたのです。イエス様はそのことを知っておられました。そして、聖霊が彼らの中に宿って、彼らの内から生きる水が流れるようになるということを知っておられました。そのことが預言されていて、人々はその成就を希望のうちに待っていましたが、イエス様がその預言を成就されたのです。「もう待たなくていいのです。今、わたしがここにいます」と言われました。
今ここに集まっておられる皆さんの誰もが、イエス様と喜びの時を過ごしたことがあると思います。しかしまた、苦しい時も過ごしたことがあるでしょう。私たちは今、この地上で御国を体験し、味わっています。しかし、その御国はまだ完全ではありません。私たちは困難な時を過ごすことが多くあります。私たちの内にイエス様がおられなければ、その困難な状態から回復することはできません。
ここで「生ける水の川」によって「私たちの心が回復し、元気を得る」という言葉が使われています。ギリシャ語では、この言葉は「硬貨を作る言葉」に関わりがあります。 当時使われていた硬貨は、金や銀などの柔らかい金属で作られていました。そのため、長い間使われるうちに少しずつ劣化していくのです。ですから、劣化した硬貨を磨いて新しくします。それが「硬貨が回復される」という風に使われました。すると、その価値も回復されるのです。刻まれている文字もはっきりと見えるようになって、新しくその硬貨が作り直されるのです。
福音書の中で、イエス様は何度も「私たちを生き返らせる」「新しい人とされる」という風に語られています。その言葉は、硬貨が新しくされる、磨かれる、文字も新しくされるという言葉と同じ言葉が使われています。当時の人々がイエス様の言葉を聞いていたとき、「回復することができる」「価値を回復することができる」、そして「美しさも目的も新たにされる」というメッセージを受け取っていたのです。
7章でイエス様が「わたしのもとに来なさい、飲みなさい」と語っている裏には、多くの層の意味と約束があるのです。「わたしのところに来て、飲みなさい」。この約束が今、ここで成就しているのです。そしてヨハネの福音書7章で起こっていることは、エゼキエル書47章で起こっていることの象徴でした。
エゼキエルが幻を見ました。その幻は「回復の幻」でした。それは後に来る回復を示していました。他の預言者の幻と合わさって、「救い主が来る。救い主が来て、私たちのすべてを変える」という預言でした。この世界が何をしようとしても、この世界が私たちを打ち砕く何かを仕掛けてきても、イエスによって打ち砕かれるという約束でした。
このことは神の心から湧き出たものでした。この約束を忘れないために、毎年イスラエルの民は神殿に水を持ってきて、この行為をしていたのです。この回復の約束、これからの回復と希望の約束、そして後に来る希望が残っていることを覚えて、神殿でこの行為をしていました。私たちはイエス様に従うように招かれています。そして「イエス様の重荷は軽い」と書いてあります。私たちを縛り上げている「罪のくびき」や「この世に対するくびき」は打ち砕かれると書かれています。
イエス・キリストにくびきを置くことができます。イエス・キリストの道は私たちを回復させます。イエスの回復の道は、イエス様の御国の道へと繋がっています。すべてのものが新しくされます。
しかし時に、私は「新しくされている」と感じることができない時もあります。毎朝起きて、「今日はどこが痛いか」と思ったりします。今、自分の身に起こっていることだけに意識を集中させるならば、本当に心が疲れてしまいます。 しかし、何が起こったとしても「すべてのものがいつの日にか新しくされる」と、イエス様は私たちに希望を与えてくださいます。「喜びを与える」と言ってくださいます。そして実際に私たちに喜びを与え、回復させてくださるのです。
そのシンプルな現れの一つは、孫かもしれません。私たちの人生におけるすべての人間関係を通して、神様は私たちを成長させ、回復させてくださいます。 何年か前に、私のすべての子供たちが家を出ました。その時、「これから何をすればいいんだろうか」と思いました。「子供たちなしで、私は何をすればいいんでしょうか?」と。 しかし今は、その子供たちが私たちの家に来てくれる時は、本当にその時間を楽しみます。もっとも、しばらく経つと「いつ家に帰るんだろう」と思ったりもしますが(笑)。
子供たちが家を出てどうすればいいんだろうと思った時、孫が生まれました。私のように少し年を重ねている方もいらっしゃるかもしれませんが、孫というのはとても良いものですよね。「新しい命」のことを私たちに思い出させてくれます。神様が私たちの人生の中で働き続けて、新しい人間関係を与え続けてくださいます。自分の孫だけではなく、この教会の中にいる孫たちも、本当に喜びです。
ジョン牧師が今、私の教会の主任牧師です。ジョン牧師も、望さんと香さんのような「おじいちゃん・おばあちゃん」になりつつあります。ジョン先生には6人の子供がいます。その6人の子供たち全員が「地に満ちよ」という命令を受け継いでいます。私はジョン牧師の孫の名前や、誰が今度生まれるかといったことを把握しきれていません。でも、私はジョン牧師の孫に関わって、アイスクリームをあげたりしても怒られません。本当に楽しいです。新しい命が溢れ出ているのは、本当に喜ばしいことです。
神殿でユダヤ人が行っている祭りは、エゼキエル書47章から来ています。この箇所を今は読みませんが、ぜひ皆さん後で読んでみてください。 47章の冒頭には、神殿から東に水が流れていると書いてあります。神殿から水が出て、階段を流れ出ていました。このことを、まさにヨハネの福音書の中で人々は行っていたのです。
そして、その水が流れる先は、流れれば流れるほど深くなっていました。最初はくるぶしのところまで来ました。次に膝まで水が達しました。そして腰まで達しました。さらにその水は深くなって、泳げるほどの川になりました。誰かが何かをしたわけではなく、この川はただ流れ出ていたのです。これはただ神様から出て、より多くの川が、水が流れ出たのです。その水は、本来なら流れ出していく先で浅くなっていくべきものですが、逆に深くなっていったのです。
私たちもこの御国のために働くとき、神様に寄り頼んでいくとき、その水はもっともっと多くなります。この書の最後の方では、この川の両岸に木が立っていると書いてあります。その木の葉は私たちを癒やし、癒やしを与える木の実もなったと書いてあります。
私たちは壊れた世界に住んでいると思います。人間関係も、経済も、健康も完全ではありません。しかし神様は「私たちが神に従い、神の水の中で泳ぐとき、物事は良くなる、どんどん良くなる」とおっしゃっています。 この水は、最終的には「死海」に流れました。死海とは、地上で海抜が最も低い場所の一つです。何も生きることができません。植物も魚も、その中では生きることができません。しかし、このみことばによれば、死んだ海であっても、神の生きる水が流れ入り込むならば、その水も生き返ると言っています。
神様の生ける水が流れ出るとき、死海でさえも魚でいっぱいになると言っているのです。漁師が来て、たくさんの魚を獲り、みんなに分け与えることができる。癒やしと命を与える木が、かつて死んでいた海の周りに生い茂ると言っています。このことは、イエス・キリストが父と子と聖霊によって死を乗り越え、死を打ち砕いたことに繋がっています。
時に私たちは「もう希望はない」「自分たちはもう死んだ」と思う時があるかもしれません。「誰も私を愛していない」「永遠の目的などない」「私の周りはすべて死だ」と。そのように思えるときにこそ、このみことばが私たちの内に来る必要があります。何も命がないところに、生ける水が流れ込む必要があるのです。その水から実がなります。その水から癒やしが来ます。 おそらく、それは私たちが思っている通りの形では起こらないかもしれません。しかし、それは神様にしか作り出すことができないことなのです。私たちの価値と、私たちのアイデンティティを回復させる、その水です。