2026年1月1日(木)
≪滝元順牧師≫
2025年、様々な働きがありましたけれども、祈りに支えられ終えることができましたことを心から感謝します。
いよいよ2026年が始まりました。お隣の方に「今年もよろしくお願いします。主の年2026年を宣言します」と、ご挨拶ください。
2026年がどんな年になるかは「神のみぞ知る」ということでありますけれども、昨年も多くの恵みをいただきましたから、今年も必ず祝福してくださると信じております。
今年、私が与えられているみことばをご紹介したいと思うのですが、
ペテロの手紙 第一 4章1節と2節のところです。
1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。
2 それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
特に2節のところ、「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです」という箇所を、主から導かれている気がします。
昨年は「神が働きを加速される年」と主は語ってくださり、まさしく神が働きを加速してくださいました。けれども、今年はそれを引き続ぎながら、与えられているテーマは「2026年、残された時を神の御心に生きる」です。
新城教会は、多くの兄弟姉妹によって祈り、支えられています。教会に来ることができなくても、陰で支えている方々も多くおられます。病気で教会に足を運ぶことができない方もおられます。そのような方々のために覚えて祈っていただきたいと思います。ネットで礼拝を守っておられる方も多くおられます。
私は、家内が天に帰ってから3年間、一人で生き抜いて来ました。しかしこれも、一人の力ではなく、祈りの支えがあってのことです。家内が亡くなる半年ぐらい前でしょうか、自分で植えたあの「奇跡の花」、今どうなっていると思いますか。なんと、今日の写真ですが、まだ咲いています。3年以上咲いていることは、天と地が繋がっている証拠ではないでしょうか。天の教会と地の教会は繋がっているということですね。そして一人一人、支える方々がいて生活が成り立っているわけです。私たちは周りの方々にも心からの感謝をしたいと思います。
この暮れに、孫たちが私のところに来てくれました。まだお孫さんがおられない方々にはちょっと恐縮ですが、3年間一人で生き抜いてきた「じいじ」のためにということで、孫たちが来て励ましてくれました。「主イエスを信じない。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という約束が実現していることを感謝しております。
実は今年、新城教会はある意味で記念の年です。それは新城に教会ができて70年という記念の年であるからです。献堂式がなされたのが1956年9月でした。今年は2026年ですから、70年が経ったわけです。聖書の中で70年は大変意味のある年です。
それは「ヨベルの年」と言いまして、一般には50年を指しますが、第二歴代誌36章21節によると、70年とはヨベルの年の回復を表す真のヨベルの年であり、「解放の年」なのです。ヨベルの年の概念は、最終的にイエスさまの再臨に繋がっています。今年は新城教会が設立・献堂されて70年という、特別な年であることを意識していただきたいと思います。
私の父がこの地域で伝道を始めたのは1950年のことでした。全体では76年の歴史ですが、教会の基礎がだんだんと固まってきて教会を正式に始めたのが1956年のことでした。70年間この街に根を張って戦い続けることができたことは、神の大きな祝福に他なりません。
エレミヤ書29章10節に、
10 まことに、【主】はこう言われる。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。」
バビロンに捕囚されたユダの民も、70年を経て解放されたのです。今年は主に大きな期待を持って進んでいきたいと願っています。一人ひとりの働きを通して、神が大いなることを成そうとしておられます。
何度もお話ししていますけれども、父が生まれたのは北設楽郡津具村でした。実は明治の中期に、そこにジェームス・バラという宣教師がやってきて、村の半数近くがクリスチャンになったというリバイバルが起こった村であったわけです。今でもその村に行きますと、村井与三吉という初代牧師の記念碑が建っています。神は、初めに蒔かれた種を大切にされます。
この村はキリスト教賛成派と、反対派に分かれたということもお話していますが、私の父の家は反対派だったのです。キリスト教に強烈に反対していたのです。でも、その中の一人の少年、明(あきら)を選んで、やがてリバイバル運動を展開させるようにされたのは、神の計画以外の何ものでもありません。「一度蒔かれた種は決して廃れることはない」のです。しかし種が蒔かれても、実を結ぶには結構時間がかかります。
そんな中で今回導かれているみことばを、学んでいきたいと思うのですが、ペテロの手紙 第一 4章1節、2節はどのような箇所かと言いますと、これは人生という時間の使い方に対するペテロの緊迫感と、非常にリアルな人生観が凝縮された部分でもあると言うのです。そのような概念とともにもう一度読んでみたいと思うのですが、
1 キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。 2 それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人間の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです。
ペテロは非常に緊迫感を持ってリアルに人生を描いています。この「残された時」という言葉、「残された」とはギリシャ語で「エピロイポン」という言葉が使われているそうですが、この意味は、ただの「残り」ではなくて「計算された残り」という意味だそうです。人間に与えられた一生の総量から、神を知らずに欲望のために浪費してしまった過去の時間を差し引いた残高を「残り」と言うのです。
いつイエスさまを救い主として信じられたでしょうか? 例えば現在、50歳で、20歳の時にクリスチャンになったならば、20歳までは神のために生きていなかったわけですから、ある意味で、浪費した人生だということになるわけです。それを差し引いた30年が「あなたの残高だ」と言うのです。残高は、貯金の残高だけでなく「人生の残高」もあるのです。
この箇所は単なる精神論ではないと言うのです。霊的戦いへの決意を促す、極めて軍事的な色彩を帯びた言葉だと言うのです。そしてこの箇所は、覚悟と決別の響きがある、と解説されていました。キリストが受難を通られたという事実を、単なる知識として心に留めるのではなく、己を守る「鎧」、あるいは敵を倒す「武器」として身につけようと命じているというわけです。
イエスさまは十字架で苦しみを受けられました。しかし十字架だけでなく、33年のご生涯は、決して幸せなものではなかったのです。常に迫害され、罵られ、唾をかけられて苦しめられた人生でした。しかしイエスさまが苦しんだその苦しみは、すなわち、我々、主を信じる者たちのための苦しみであったのです。それをしっかりと心に留めるということは、己を守る鎧となると言うのです。そしてイエスさまの苦しみこそ、敵を倒す武器として使うことができると言うのです。イエスさまが、すでに苦しんでくださった事実を心に留めていくならば、あなたは勝利者になることができるというのです。
私たちは「時」の中に生きている者たちです。昨晩のメッセージの中でも「時」というテーマが何度も出てきました。私たちは年を取っていきますと、年を取るたびに時間が早く進むように感じるのですが、それには一つの法則があるという話をされていました。本当に時間は不思議なものであります。今日も刻々と時間は過ぎています。私の小学生の時代、6年間がむちゃくちゃ長かった気がするのですが、その後、中学、高校、大学とどんどん加速度がついた感じがします。人生とはそういうものだと言うのですね。
先日、私は歯医者に行き、磨き指導みたいなことをされたのですよ。「どんな歯ブラシを使っていますか」と聞かれたから「電動のを使っています」と言ったら、「一本の歯につき10秒間当ててください」と言われたのです。その10秒間が長いこと長いこと。一本の歯に10秒、歯ブラシを当てるのが長すぎて5秒ぐらいでやめました。「このぐらい人生が長いといいな」と思いました。
いずれにしても、どんどん時間が過ぎていくのは間違いありません。聖書の中に、時間を表すギリシャ語は二つあると昔も語ったことがあります。聖書には時を表す言葉として、主に「カイロス」・・・これは神の定めた好機とか決定的な瞬間を表す言葉です。もう一つは「クロノス」という、時計で計れる物理的な時間や期間を表す言葉があります。でも、ここでペテロが使っている「時間、時」とはクロノスを使っていると言うのです。「カイロス」という神の時ではなく、物理的な流れを表すクロノスを使っています。
案外、教会では神の時、カイロスが強調されるものですが、ペテロはここで、カイロスではなく、クロノスに関して「よく考えなさい」と語っているのです。2026年、神の時(カイロス)も訪れますが、同時に、日々の生活の中で過ぎていくクロノス的な時も、神さまの中にあることを覚えながら歩んでいく必要があるということです。
ここでは、肉体を持って地上に生きる物理的な年数や日数、クロノスが焦点となっていると言うのですね。この言葉は、時間が無限ではないことを突きつけます。もはや浪費できる余裕はないという、砂時計の砂が落ちていくようなリアリティがあると言うのです。そういうクロノス的な感覚を覚えておきなさいというわけです。
またギリシャ語では「生きる」という言葉も二つあって、「ゾーエー」と「ビオス」があるそうです。ペテロはここで、ゾーエーという霊的生命ではなく、あえて「ビオス」という地上の生活様式の動詞を使って、表現しているというのです。それは単に心臓が動いて呼吸している「生きている」ことではなく、どのような生活を営むのか、どのような足跡、伝記を残すかという「生きざま」に焦点が当てられているのです。
2026年、神の時を待ち望むことも大事ですが、同時に、我々の生きざまそのものをしっかりと考えなさいと、言われているような気がするわけです。2026年、どんなストーリーを綴ろうとしておられるでしょうか。その為にも「人生の残高」を確認しなさいと言うのです。肉体を持って地上にいる物理的な期間、クロノスは限られています。その限られた器の中に、もはや欲望ではなく、神の御心を詰め込んで、天において称賛される新たなる「ビオス(伝記)」を書き記すように過ごしなさいと言うのです。私自身が日々の生活の中で「天において称賛される新たな伝記を記している」という心構えで、生きていかなければいけないということです。
ところで、人生の残高と言うのですが、神を信じる前の時間を差し引いたのが残高ですが、ここにおられる方はほとんどがクリスチャンだと思いますから、今日からやがて死後の世界に入るその日までを「残された人生」、あなたの任されている「ビオス」であるのです。どのぐらい自分の人生が余っていると思いますか。
日本人の平均寿命を調べてみました。男性は81.5歳、女性は長いですね、87.6歳です。ということは、平均寿命を人生のゴールとするならば、あなたの今の年齢から平均寿命を差し引いたのが、あなたの「残高そのもの」であるのです。
私は今回このメッセージを準備しながら、ハッとしました。私の残高、たったの「6.5年」です。これは厳しいなという感じです。女性の方は88歳近くまであります。男性は本当に短いです。こうやって見ますと、人生はシビアですね。身につまされます。今年、残高をよく覚えながら、若くても年を取っても、神のために生きることを意識しなければならないということです。過去がどうあったかは神さまは問われませんが、重要なのは「残高をどう使うか」だと言うのです。