2025年11月9日(日)新城教会牧師 四元雅也
コリント人への手紙第一 12章7節
“皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。”
ハレルヤ、おはようございます。このように、皆さんの前でお話する機会を与えられ、心から感謝しております。
今日は午後から運動会が行われます。これは去年の写真です。昨年も雨で、ホールの室内で行いました。なぜかこの数年、高い確率で雨が運動会の日に降っている気がしております。本当はやはり、青空のもとでやりたいと思いますが、一方で、私たちには運動会ができるホールがあるというのは感謝なことだと思います。雨が降ったから別のプログラムにしよう、ではなく、雨が降ったけれど運動会をしましょう、と言えるのは感謝です。ホールがあると、食事会もできますし、コンサートもできます。それどころか、運動会もできるということで、素晴らしいことだと思います。見るだけでも結構ですので、ぜひご参加いただきたいと思います。
全然話が変わりますが、私は皆さんに言いたくて申し上げます。今年、結婚三十年なんです。ありがとうございます。すみません。明後日、十一月十一日が結婚記念日です。本当に今日までよくもったなと、感謝なことだと思わされています。先月中旬、家内と記念の旅行に宮城県へ行ってまいりました。なぜ宮城県かというと、家内が牛タンを食べたいと言ったからです。本当に美味しかったです。それから仙台というと、ずんだ餅が有名です。これはすごい蛍光色のような餡がかかっていますが、枝豆をすりつぶして餡にして、お餅にまぶして食べる、枝豆のあんころ餅のようなものです。仙台市の郷土料理ということです。また、隣の写真は「ずんだシェイク」という、ずんだを混ぜ込んだシェイクです。これが美味しかったんです。枝豆の風味がこんなに良い味を出すのかと、びっくりしました。なぜこれを全国で真似して作らないのだろうかと不思議に思いました。今回の滞在は二泊三日だったのですが、滞在中、牛タンは二回食べましたが、ずんだ餅とずんだシェイクは四回食べたという、私にとってはずんだが一番の「どストライク」でありました。Amazonでもずんだシェイクは買えるようです。しかし、仙台で買うよりも五倍、六倍高いようです。興味があったら注文されても良いかもしれませんね。
それから紅葉も見に行きました。蔵王山というところです。とても美しい紅葉があって、すすきも美しかったです。楽しい三日間を過ごしました。これも神さまの恵みと思って、心から感謝しております。メッセージとは何の関係もございませんけれども、食べ物の話や旅行の話を聞くのは皆さんもお好きではないかと思って、全くの無駄話でございますが、させていただきました。すみません。
そして、先ほど上條頌さんも宣伝しておられたゴスペルコンサートですが、すごいですね。彼はこのコンサートのため私財を投じ、何よりも伝道のために働こうとしているということです。今回に限らず今後も彼のミニストリーが継続され、「33.3」といったゴスペルクワイアもあります。こういった働きを後押しするために、皆さんで一緒に働くことができれば良いなと思っています。
前回、上條頌さんが新城教会に来られたのは、八月十四日にここでコンサートが行われました。その前日の日曜日、この礼拝で賛美の奉仕をしてくださいました。その時もなぜか私がメッセージだったのですが、礼拝の後で、私にとっても嬉しいことがありました。それは何かと言いますと、彼のご長男、大聖(たいせい)くんという男の子がいるんです。たぶん中学生かな。大聖くんいますか。はい、二階におられますね。今、元気な声で「はい」と手を挙げてくれました。彼が礼拝の後で、玄関のところで私と鉢合わせしたんですね。その時、彼から思いがけない言葉が聞かれました。彼が私の顔を見るなり、周りにも聞こえるくらいはっきりとした声で「まさや先生! 今日のメッセージ恵まれました。ありがとうございました!」とおっしゃったんです。本当にびっくりしました。私も大きな声で「どうもありがとう!」と伝えました。
彼はまだ中学生でしょう。こんな少年から、このような言葉が聞かれるとは思いもよらなかったわけです。私にとっては、うちの子どもたちを含めても、一度もそんなことを聞いた記憶がありません。だから、不意打ちを食らったように心を射抜かれ、感動で胸が「ジーン」となって、少し泣きそうでした。私は彼のファンになってしまったわけです。頌さんは以前、この場所でおっしゃっていたと思いますが、「私の長男の将来の夢は伝道者」だと。今でもそうでしょうか。心から応援したいと思っております。
私は普段、自分の周りの小さなところしか見えていません。しかし、やはり知らないところで、身近な方が神さまを愛し、敬虔な信仰の歩みを続けておられる。そういう方が大勢いらっしゃるわけです。そんなことを、頌さんとご家族の皆さんを見ていると感じるんです。私も主の前で恥じない歩みをしたいなと、励まされるんです。
皆さん、今日私のメッセージで恵まれるかどうか。これは語るものの善し悪しももちろんあると思いますが、受け取る側にも同じことが言えるのではないでしょうか。このような私のつたないお話でも、「恵まれた」と言ってくれる方が少なくともおられます。先週、上條実先生もおっしゃっていました。「あなたに主から語られるメッセージがあります」と。それを一つでも握っていただけたらと、本当にそう思います。
今日は、そんな大聖くんに好評だった前回のお話の続きのようなメッセージとなります。とは言っても、三ヶ月前のことなので、誰も覚えていらっしゃらないとは思うんです。よかったら、家に帰ってからもう一度、ホームページをご覧になって復習していただけたらなと思います。
今日は「御霊の現れ」です。以前の新改訳聖書だと「御霊の賜物」と言われていますが、「聖霊の現われ」「聖霊の賜物」は、神さまを信じてバプテスマを受けた者に、恵み、特権として与えられるものです。これは、第一コリント十二章八節・九節に書かれています。それをリストにするとこのようになります。
「知恵の言葉」「知識の言葉」「信仰」「癒し」「奇跡を行う力」「預言」「霊を見分ける力」「異言」、そして「異言を解き明かす力」。この九つが挙げられています。
聖霊の現れとは、教会の奉仕、宣教を助け、そして神の力と知恵を公に人々の前、世界に現すために与えられるものです。そして、これらの賜物は大きく分けると三つに分類することができると考えられています。
啓示の賜物(神の知恵と情報に関する賜物)
•知恵の言葉:ある特定の状況において、神のお考えや計画を、超自然的に啓示し、語る力。「How(どうすべきか)」を教えます。
•知識の言葉:人や出来事に関する情報や事実を、超自然的に啓示し、語る力。「What(何が起こっているか)」を教えます。
•霊を見分ける力:現われている事柄や、人々の背後にある霊的な源(聖霊、人間の霊、悪霊)を識別する力です。
力ある業の賜物(神の力に関する賜物)
•信仰:通常の信仰(救いのための信仰)を超えた、特定の事柄が必ず起こるという、超自然的な強い確信を与え、それによって神の力を引き出す力です。
•いやしの賜物:病や怪我からの超自然的な回復をもたらすための力です(この賜物は「賜物群(複数形)」とされることもあり、多様な癒しを指します)。
•奇跡を行う力:自然法則を超えた、神的な介入によって、奇跡的な現象やしるしを起こす力です。
発声の賜物(神の言葉に関する賜物)
•預言:人々の励まし、慰め、徳を高める(教会の益となる)ことを目的として、神からのメッセージを語る力です。未来を予言すること(予知預言)も含まれますが、主な目的は教会を建てることです。
•異言(様々な異言):話す本人が習ったことのない、人間や天使の言語で話す超自然的な力です。公の場では解き明かしとセットで用いられ、個人の祈りにも用いられます。
•異言を解き明かす力:公の場で語られた異言を、会衆が理解できる共通の言語に、超自然的に解釈して伝える力です。
こういったものが挙げられています。使徒パウロは、これらの賜物について、その目的と原則を述べています。
教会全体の益:賜物は、自己満足のためではなく、教会の成長と構成員一人ひとりの助けのために与えられています。 第一コリント 十二章七節 「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」
多様性と一致:パウロは、教会を一つの体に例え、多様な賜物が与えられているのは、体の各部分が異なる役割を果たすように、信者それぞれが互いに協力し合うためだと教えています。 第一コリント 十二章十一節~十二節 「十一 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。十二 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」
愛が最も重要:賜物がいかに力強くても、それを用いる愛がなければ意味がないと強調されています(第一コリント 十三章)。愛こそが、御霊の現われを支配する究極の動機であるべきです。
御霊の現れは、初代教会の時代に、イエスさまの福音が全世界に力強く拡大していくために、力強く現されました。現代においても、聖霊の働きを信じている教会の中で、神さまの力強い現れが求められ、教会が働いていくために用いられているわけです。
私たち人間が生きて生活していく上で役に立つ道具が、私たちの周りに溢れています。車だったり、スマートフォンだったり、あるいは大工道具、料理道具、それから学校で勉強する文房具とか、そういった様々な道具が私たちの周りにあります。同様に、教会とクリスチャンが神の栄光を現わしていくために必要なツール、それが御霊の賜物と言っても良いかもしれません。聖霊の賜物が生き生きと動いている時、教会は人間の力を超えた神さまの力で、宣教の業を進めることができるわけです。
私たちは教会でいつも「リバイバル」という言葉を聞き、日本、また世界にリバイバルが起こるように求めています。リバイバルは、歴史の中でも聖霊さまを求める人たちを通して、力ある御業を伴って世界の福音宣教を拡大する役割を担っていたわけです。新城教会においても、甲子園ミッションに象徴されるような過去の働きも同様に、聖霊さまの励まし、しるしと奇跡を伴う働きによって、今日まで進められてきたと言うことができると思います。
しかし、ここで私たちは、これらの現れに対して注意して取り組まなければ、また、取り扱わなければなりません。なぜならば、神さまの敵である悪魔と、その軍団である悪霊どもは、聖霊の働き、御霊の現れを真似するからです。悪霊の現れと呼ぼうかと思いますが、悪魔も知恵や知識を超自然的に人間に教えたりします。いわゆる託宣と呼ばれるものだったり、イタコやウタキといった霊的現象、降霊術、そういった霊的現象に象徴されるもの、占い、予言などです。
こういったものには、当然「眉唾物(まゆつばもの)」の、そう見えるように演技しているとか、お金目的でやっているものも多く存在すると思いますが、本当に霊が語りかけ、普通なら知り得ないことを知らせる。そういったことがあるから、人々は頼ろうとするのです。また、癒しをなすハンドパワーとか、雨風を吹かすような物理法則を超越したような奇跡を行う。知らない言葉を話す。そういった能力を「悪霊の現れ」として私たちは目にすることがあります。それらは、聖霊の現われと同じように霊的な能力として、私たちに人知を超えた力として現わされます。神さまを知らない多くの人は、その力に魅了され、その力を得るために、霊的な危険領域であるサタンの支配の中に足を踏み入れてしまい、結果として悪魔に自分の人生を売り渡すようなことになってしまうわけです。
そして、そのような結果は、ともすると私たちクリスチャンにも「全ての霊的現象が恐ろしいもので、関わっては危険なものだ」という誤った認識をもたらし、結果として、本当に教会にとって必要な聖霊の現れに対しても、心を閉ざしてしまうことになるのではないかと思うんです。そこで必要となってくるのが、私たちは聖霊の現われというものが、神さまからきているものかどうかを見分けることです。