2025年8月10日(日)新城教会牧師 四元雅也
ガラテヤ人への手紙5章13節
“兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。”
ハレルヤ。
皆さんと一緒に礼拝を守り、今日は素晴らしいお客様もお迎えして礼拝を守ることができることを心から感謝いたします。
ゴスペルコンサートが明日の午後三時から開催されます。 昨日まで、ゴスペルクワイヤー33.3(サーティースリー・スリー)のメンバーが、ここでゴスペル合宿とレコーディングをしていました。 素晴らしい恵みの時でした。 新城の兄弟姉妹にも祈っていただき、合宿を陰で支えていただきました。 心から感謝いたします。
明日は、ぜひ皆さんご参加いただき、コンサートをお楽しみください。 また、伝道の良い機会としてこのコンサートを用いてください。
今日は、「良い実が結ばれるために ~“自由”の用い方~」というテーマでお話しします。
私たちは救われる前、破産寸前の会社のような存在でした。 そこから抜け出すためには、まず会社が負った負債を返済しなければなりません。 そのことをイエス様がしてくださいました。 罪という借金が、十字架によって帳消しになったのです。 私たちを訴え苦しめる債務証書は、無効にされました。
しかし、借金が免除されただけでは会社はまだ立ち直れません。 今度は、会社が活動していくための運転資金を調達するようなものです。 これが、次に私たちが取り組んでいく課題なのです。 せっかく借金が免除されても、会社の体質がそれまでと変わらなければ何にもなりません。 元の木阿弥です。 新しい会社に生まれ変わることが必要となります。
救われた私たちにとって、それは、聖霊によって歩むということに他なりません。
ガラテヤ人への手紙五章十六節
“私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。”
ここに「御霊によって歩みなさい」とありますが、「歩みなさい」という言葉の原語には、歩み続けなさいという継続の意味があります。 原語から意味を汲んで受け取ると、御霊によって歩むとは、“聖霊に寄り頼む習慣を身につけなさい”となります。 習慣として身に着けることによって、肉の欲望を満足させることがなくなるのだと説かれています。
先々週韓国で行われた次世代キャンプでは、小中高校の子どもたちが、大変素晴らしい数日を韓国・北朝鮮・コリョの背景を持つ同世代の若者たちとの主にある交流の中で過ごしました。 先週の礼拝と午後の集会で報告されていたように、国や言葉、文化を越えた深い愛の交わりの中でみんなが感じたことは、キリストにある和解・一致の中におられる聖霊の力強い御業(みわざ)でした。 これを体験できたことは、彼らの信仰の歩み、人生の宝となるのではないかと思います。
今回彼らが新城教会で作られた一つの賛美を韓国語で賛美していました。 それが「みたまの実」という賛美です。 世界宣教とりなしメールでも、先週の報告会でも賛美の様子が動画で紹介されていました。
≪動画の紹介≫
このことにちなんで、御霊の実について少し考えてみたいと思います。
クリスチャンになると、今度は私たちが御霊に寄り頼んで歩み続けるのか、それとも、イエス様を信じる前に持っていた自分の欲のまま、罪を求める性質のままで生き続けるのか、という戦いが人生に起きてきます。 御霊に寄り頼んで、聖霊が喜ばれる歩みをするなら、御霊の実が結ばれます。
ガラテヤ人への手紙五章二十二―二十三節
二十二 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
二十三 柔和、自制です。 このようなものに反対する律法はありません。
一つ一つ、私たちの人生に備わったらどんなに素晴らしいだろうなと思えるものだと思いますが、この実という言葉は原語では複数ではなく単数です。 なので、ぶどうのひと房のように九つ全部が一つの実のようなものであると考えるといいと思います。 この九つの実を三つにまとめて区分することができます。 最初の三つは、自分と神様との関係において結ばれる実です。
まず、愛は原語だと「アガペ」、すなわち神の愛のことです。 神の愛によって喜び・平安が与えられます。 平安は、自分の周りの状況に左右されない平安だといいます。
次に、最初の三つを前提に、今度は対人関係において結ばれる三つの実です。 寛容・親切・善意です。 寛容・親切の二つは、愛の章と呼ばれるⅠコリント十三章に愛は寛容であり愛は親切ですと書かれています。 寛容・親切は、隣人の悪に対してすぐに腹を立てたりしない心のことです。 そして、そのような人に対しても親切であること、そして善意は親切を行う元となる動機です。 善意がなくて親切をしても十分ではなく、善意の伴う親切を行なうということです。
さらに、あと三つですが、自分の心の在り方についての実になります。 誠実は、神から信頼され、人から頼られること、そして柔和です。 この言葉からはモーセが思い浮かびます。 六十万人とも二百万人ともいわれるイスラエルの民は、不従順であり、いつもモーセと神様に逆らっていました。 彼らを導いたモーセは「地の上のだれにもまさって柔和であった」と書かれています。 間違ったことをする人に対しても感情的になっていきり立つことをせず、仕返しをしたりせず、なお放っておかず優しく正してあげることができる実です。 自制は文字通り、自分を制して罪の性質をコントロールすることができることです。
こういう実が結ばれていくんだと書かれています。 こんな素晴らしい実を結ぶものになりたいです。
これに対して「肉の業」というものがあると聖書は教えています。 御霊の実は、ガラテヤ五章二十二・二十三節ですが、その前、ガラテヤ人への手紙五章十九~二十一節に書かれています。
十九 肉のわざは明らかです。 すなわち、淫(みだ)らな行い、汚れ、好色、
二十 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
二十一 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。 以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。 このようなことをしている者たちは、神の国を相続できません。
肉の技も四つに区分できます。 まず、みだらな行い・汚れ・好色これらは性的な罪です。 現代社会は性的な罪が満ちています。 二つ目は偶像礼拝と魔術です。 これは、宗教的な罪です。 三つ目、敵意・争い・そねみ・党派心・分裂・分派・ねたみ、ここまでが社会的な罪です。 そして四つ目が、泥酔・遊興です。 これは飲酒に関することです。
最後に、そういった類のものとありますので、肉の技は他にもあるよということになります。
このようなことをしている者は、神の国を相続できないとありますが、クリスチャンであってもこのような罪を犯したら、神の国を相続できないということでしょうか。 こういわれたら皆さん絶望するかもしれませんね。 私も「え!?これじゃ天国に入れないよ」と思ってしまいます。
このように理解するべきだと思います。 このようなことを「罪責感なしに行う者」は、神の国を相続できない。
肉の技について新城教会ではおなじみの、アメリカのヤキマのジョー・ハイト先生がわかりやすい例えを示されたのが心に残っています。 鳩の例えです。




鳩がいて、ある人が鳩に餌を与えたそうです。 すると鳩はだんだんその人になついて近づいてくるようになります。 そのうちに鳩はその人の肩や頭の上に留まるようになりました。 その人は鳩をそのままにしておきました。 するとしまいには、鳩がその人の頭の上に巣をかけ卵を産んでヒナを育てたそうです。
ここまで鳩にやらせて放っておく人は誰もいないと思いますが、肉の技がここに出てくる鳩です。 人間には本質的に肉の欲があります。 そして、鳩が頭の上に巣をかけた状態は、サタンに思考が支配されている状態を指すのです。 肉の欲は私たちに近づき、肩に乗ったり頭の上を飛び回ったりします。 それを追い払っているうちは、それは罪にはなりません。 でも、頭に乗られて巣をかけられた状態は、思考が支配され、もう罪責感さえ感じなくなってしまった状態です。 これが、神の国を相続できない状態である。 そんな風に教えてくださいました。 エペソ人への手紙四章三十節
“神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。”
救われる前、私たちは罪の要求に奴隷のように従属している状態でした。 でも、救われた私たちは、今は罪の要求に対して「ノー」と拒否することができます。 罪に生きるか、聖霊により頼むか、選択する自由意志を、聖霊によって与えられたのです。 クリスチャンになっても、私たちは時に肉の欲に負けて罪を犯すことがあります。 「ああ、またやってしまった」と後悔をもたらす。 悲しみに苛まれる。 自分の弱さに絶望し、苦しむことになる。 それは、私たちのうちにいらっしゃる聖霊さまが悲しんでおられるのだと教えているのです。
欲に支配され、罪という返すことができない負債に満ちた人生から、十字架によって贖われ、神の子として聖霊さまを内に宿した私たちは、この二つのどちらを選択するのか、新しい聖霊による人として生きるのか、古い肉の支配によって生きるのか、心の中には葛藤が生まれます。 クリスチャンだからこそ、聖霊さまが内にいらっしゃるからこそ、私たちは自分の肉と聖霊の思いとの間で板挟みになって苦しみ、葛藤するのです。
そして、御霊の実は、人間が自分の努力によって結べるものではなく、結びたいと願って聖霊さまに求め、聖霊さまに寄り頼む習慣を通して、良い道を選び続けていくことによって徐々に結ばれていくものです。
クリスチャンになったとき、私たちは心に悩みが増えたでしょうか。 それとも悩みから解き放たれて楽に生きることができるようになったんでしょうか。 実は、クリスチャンになって、私たちには悩みが増えたのです。 これまでのように好き勝手に生きるためではなく、自発的にキリストの僕となる、聖霊が望まれることを選択し続けることができるかどうか。 クリスチャンでなければこんなことに板挟みになることはなく、単純に肉欲の欲するまま生きていたのですから。
なぜ神様はこのような苦しみを通ることを私たちクリスチャンの人生に課しておられるのか。 クリスチャンになった途端、罪に完全勝利できる力が備えられたら、自分の欲と罪の誘惑のため、こんなに苦しまなくていいのにと思いませんか。
そもそも、神様は十字架の上で悪魔に勝利されたはずなのに、なぜ私たちは悪魔と戦わなくてはならないのか。
この問題は、クリスチャンの中で歴史を通してずっと考えられている神学的な問いだそうです。 新城教会の皆さんはよくご存じの山崎ランサム和彦先生は、なぜ善と悪が存在するのかという問題について、自由意志と愛という観点から説明しています。
悪の存在は神が意図したものではなく、愛が存在する世界を造るために神が冒したリスクであると。 神様が天地創造され、人間を造られたとき、神は人をロボットのようにただ命令に従うことしかできないような存在ではなく、自らの意志で神を愛するかどうかを選択できる存在、つまり自由意志を持った存在として創造しました。 この自由意志によって、人間、そして天使も、神に従う善を選ぶことも、神に背く悪を選ぶこともできるようになりました。
そもそも悪の存在は神が望んだものではありませんでしたが、自由意志の結果として悪が生まれました。 しかし、神はそのことも織り込み済みで、今度は救いの計画を実行されて私たちを再び引き戻されたのです。 そして、最終的に神は悪を打ち破り、悪から善を生み出そうと常に働いておられます。 これは、悪が存在する世界にあっても、神の愛と正義が最終的に勝利するという希望を私たちに物語っています。 これこそが、究極的な神様の完全勝利、最後の審判と永遠の神の国の到来であります。 私たちが目指す最終的なゴールなのです。