祈るのをやめて主に罪を犯すことなど
とてもできない。
~とりなしの大切さ~

2025年7月6日(日)新城教会牧師 上條実

サムエル記第Ⅰ 12章23節

”私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、【主】の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。”

ハレルヤ!皆さんの祈りによって支えられて、今日みことばを共に学ぶことができます事を心から感謝いたします 。

先週はGoToミッションで東北地区を回らせていただきました 。今まで事務局で集会のお願いばかりをしていたのですが、今回、平岡先生が行ってくださる予定でしたが、他の奉仕が入っているという事で、最後の二日間が行けなくなったため、急遽私が代わりに行くことになりました 。土曜日に秋田県秋田市まで移動し、日曜日は秋田市と青森県平川市、そして月曜日に岩手県釜石市にて集会をさせていただくことができました 。

土曜日、東北新幹線に乗って、秋田市まで行ったのですが、この頃東北新幹線が、故障などでよく止まります 。今回はそんな事はないだろうと思っていたのですが、仙台駅を過ぎて少し行きましたら、トンネルに入った途端、ドーンと何かぶつかった、すごい音がしました。すると新幹線のスピードが遅くなり、なんと止まってしまいました。何の原因で止まったかというと、東北新幹線あるあるだと思いますが「クマ」とぶつかったというアナウンスでした。「車両点検します」とのアナウンスでしたが、運転手や車掌がすぐに線路に降りて行くことができません。まだクマが生きていると危ないからです。その為対向列車の新幹線を待って確認して、安全確認が取れたので、車両確認しますということでした。結局五〇分遅れました 。しかし秋田市に到着することができて感謝いたします 。

先週の礼拝は秋田カルバリー祈りの家というところで礼拝をさせて頂きました。牧師先生ご夫妻がリバイバル神学校に来られていたという教会でした。とても良い集会となりました。

そして、礼拝後青森県平川市まで移動しました。グーグルマップで見ると二五四キロありました。平川めぐみ教会という所で。午後六時からの集会でした。その教会の牧師先生は女性の宣教師ですがリバイバル聖書神学校の卒業生で、日本の市町村の中で教会のない、未宣教地区を捜し、わざわざ青森県の平川市に教会を始めました。とても日本を愛している牧師先生です。集会もとても祝福されました。そして集会が終わって、そのまま岩手県釜石市に移動しました。釜石市のホテルに到着したのは午後十二時近くでした。旅慣れしていない私にとってとても疲れました。

そして、続いて月曜日は午後二時から釜石アメイジンググレイスセンターという教会での集会でした。釜石市は漁港でラグビーでとても有名な町です。皆さんご存知のように、あの東日本大震災では津波などによって多くの方々が犠牲となられた地域でした。この先生ご夫妻は、ボランティアでこの釜石市に初めて来た方でした。ここでボランティアとして働き、ボランティアを経て牧師先生として、住み着いて、教会を牧会されておられるご夫妻でした。先生方はとても街の人に愛されています。震災の復興時はボランティアの方が大勢おられたそうです。しかし復興作業が終わるとみんな去っていってしまったそうです。街の人たちは寂しくて仕方なかったというのです 。しかしキリスト教の牧師先生はボランティアに来て、そのまま残ってくれたという事で、愛され、信用されていました。

先生ご夫妻は子どもさんがいらっしゃらないのですが、本の読み聞かせとかで教育委員会の会議にも参加されていたりしているそうです。また街の方々ともとても仲が良く、とても地域に根ざした働きをされていました。ある集会では尼さんが出席しているそうです。また一度は坊さんが後ろの方にずっと立って礼拝を聞いていたとのことです。街の人たちは「よくぞ残ってくれた」と言って、感謝されているそうです。

月曜日なので集まらないなと先生方も思っていたらしいのですが、大勢の新しい方が来てくださり、とても良い集会を持つことができました。今回の奉仕のために皆さんが祈ってくださって守られて感謝いたします 。正直暑い日が続き。自分の体調が悪かったのです 。出かけるときふわふわして熱中症かなと思いながら出かけていきました 。またあまりお腹の調子も良くなかったし、自分も祈らされました。また新幹線はクマにもぶつかったりして戦いを感じながらの集会でした。秋田市の教会では、まだあまり調子が良くなく、礼拝が始まったのですが、ちょうど皆さんがこちらの礼拝でお祈りしてくださった事で守られ、元気で奉仕することができました。感謝いたします 。

今日はとりなしの大切さを学びたいのですが、私の父滝元明が日本各地を回って奉仕したときは、私たちも幼いころによくお祈りしたことを覚えています。秋田市にある一番大きなホールで集会を開催したそうです。その時は大勢の方々が集ったそうです。秋田の教会の姉が、大勢の方が集まって大勢の方々がイエス様を信じたと教えてくれました。そして、市内の教会には未だに大勢の方々が、信仰を守り続けているそうです。
新城教会は昔から良く祈る教会でした。いつも子ども祈祷会で滝元明牧師の奉仕のために祈りました。幼い時に祈った祈りが答えられたことを聞くことができました。
今回も私のような小さな者が秋田市で働らかせて頂きましたが、皆さんがお祈りくださったことが祈って答えられたことを見ることができました。

私は今日のテキストⅠサムエル記十二章二三節 。
「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、【主】の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。」

「あなた方のために祈るのをやめて主に罪を犯すことなどとてもできない 。」これを読んでドキッとしました 。私たちは何気なく祈っていますし、祈りを忘れてしまうときもあります。しかし、いつもとりなしの祈りを捧げていくということは、とても大事な事だと知ることができます。

いつも私の家内のために祈っていただいて本当に感謝いたします 。いつも皆さんに祈っていただいて、何かお返ししたいと思うのですが、何もお返しできないので本当に心苦しいのですが、今はずっと安定した生活を送ることができています。

正直、体重が激瘦せしてしまった時はこのまま天に行ってしまうのではと思ったことがあります。ただ私の不信仰だったのですが、皆さんが信仰を持ってお祈りくださって、今は体重が増えて、施設でいつも穏やかに過ごすことができております。本当に祈りの答えだと思い、感謝いたします 。

今日何曜日?と聞くとわからなかったり、時々わけのわからないことを話したりすることがありますが、でも私のために、教会のために祈ってくれていることを心から感謝しております 。

そんな中で、「あなた方のために祈りを止めて罪を犯すことなどとてもできない」というみ言葉を読んだときに、とても厳格な思いを持つことができました。

自分のことを考えてみると、牧師の息子として生まれて育てられ、色々な出来事がありましたが、祝福されていることをこころから感謝いたします。多くの方に祈られてきたので信仰を持ち続けることができて感謝いたします。特に振り返って見ると、私は「母親の祈り」があったからこそ、今信仰を持っておれることを感謝します。
母親滝元清子は特別おしゃべりの方ではありませんでした。しかしよく祈る人でした 。いつも思い出すのですが、この会堂で父と母と手をつなぎながら二階に上がっていき、父滝元明牧師の牧師室に入って行き、あそこでひざまずいて一生懸命祈っていました。教会のため、皆さんのために祈っている姿を教会に入る度に思い出すのです 。だんだん体が弱くなった時も、一人でアイパッドを使って聖書を読み、よく彼女が祈っている姿を見ました。
私は、今こんなところに立てるような器ではありません。高校時代、なぜか知らないけど学校の方からわざわざ呼び出してくれて、一週間特別なお休みをあげますと言ってくださった事があります。普通そのことを「謹慎」といいますが、母親と校長室に一緒に行き、ソファーに座っていろいろと説教されました。私は悪いことばかりしました 。オートバイを無免許で乗ったり、車も無免許乗ったりしました。車の免許を自動車学校で取ったのですが、自動車学校で初日に車に乗る時は良くて外周を回る程度であるかもわかりません。私は、普通初日では決して走らないS字カーブを走れとか言われました。なんと私は普通にこなして通ることができました。そしたら教官が、「あんた免許取り直しかい?」と言われてしまいました。いやそうじゃなくて実は無免許で乗っていたので走ることができたのです。その当時は警察官を見ると「やばい無免許がばれたらどうしよう」とか、学校の先生が「ちょっと来い」と呼び出しを受けると、悪いことをしたことがばれたのかなと、ドキドキしながら先生に面会したことを思い出します。校長室に呼ばれて、母と一緒に行って一週間休暇をもらったとき、うちの母は、私に対して怒ったと思いますか?多少怒りましたが、あまり私に対して小言を言わなかったのです 。それどころか、涙を流して、私の目の前でひざまずいて祈り始めたのです 。「実が悔い改めますように 。」と涙を流しながら祈り始めたのです 。その涙流しての祈りが私は本当に強烈だったのです 。もうこの母親を悲しませてはいけない、もう一度自分はしっかりとまっとうな道に入らなければいけないなと思いながらも、まだフラフラしていました 。

そんな中で、韓国から来られたチョンウンサン牧師という大きな教会の牧師が、この新城教会に来られ、県民の森で教職セミナーをしてくださったのです 。そのときに我が家で泊まったのです。すると私の両親が私を呼んで、チョウウンサン牧師に「この実のために祈ってほしい」というのです。そして父が「実ここに座れ」と言わたのです 。そして、チョンウンサン先生が私の頭の上に手を置いて祈ってくれました 。日本語で祈ってくれました。最後に私の背中を思い切り叩いて、「神様この人は献身します 。アーメン!」と終わったのです 。それから不思議と主は私を変えてくださり、献身への道を歩ませてくださいました。
その父と母、特に母親が一生懸命祈ってくれたことを感謝しています。とりなしの祈りというのは、一人の魂が生きるか死ぬか 。どちらかです。永遠をどちらで生きるのか?神の国で生きるのか、永遠の裁きに合うか、どちらかです。だから、ひとりの人のため一生懸命祈ることを、途中で諦めて、こいつはもう仕方ないと諦めていたなら、私は今ここに立っていないと思うし、私は滅びの中に行ったと思います 。
とりなしの祈りをするという事は一人の魂の永遠に過ごす場所を決定することです。もしあなたが何らかの理由で祈らなくなったなら、魂の救いのために祈ることをやめてしまったら。ある意味で殺人罪を起こしてしまう事だと思います。第一サムエル一二章二三節、「私もまたあなた方のために祈りをやめて罪を犯すことなどとてもできない 。」そういうふうに思うのです 。私がとりなしの祈りを諦めてしまったら、その方はどこで永遠を過ごすのか?
極端に言うと、ある意味殺人罪を犯してしまう。その人を裁きに送ってしまうと思うんです。
今週七月九日は、霊的戦いが始まった週でもあります 。私たちはもう一度この週に戦いをしっかりと覚えとりなしの祈りをしっかりと覚えて、祈らなくてはいけないと思います。

皆さん、いろいろな方々のために祈っていると思います 。今日もう一度、この第一サムエル一二章二三節を心して読みましょう。

「私はあなた方のために祈るのをやめて、主に罪を犯すことになどとてもできない 。私はあなた方のために良い道を教えよう」

と書いてあります 。今日、あなたが重荷を持って祈っている方の祈りをやめてしまったら、罪だと教えています。その祈りを止めないでください 。祈り続けてください 。先ほど賛美しましたが「祈りは聞かれる」その人を愛して祈り続けましょう。「ここに私はあなた方に良い道を教えよう 。」あなたに素晴らしい神の道を示してくださることを信じます 。