「正しすぎてはならない」は、自我を暴走させないための解毒作用をもつ聖書の真理なのです。
私が勤めさせていただいているシャロームでは、利用されている方々が行う作業として、いくつかの企業から内職をいただいています。
内職の部品をもらいに行ったり、できた製品を納品したり、ということを職員である私がしているのですが、今年、新たにある企業と契約を交わして仕事をいただくようになりました。その企業は東証一部上場して世界に製品を送り出している、おそらく皆さん全員がご存知だと思う立派なメーカーです。工場を見せていただき、従業員の働き方を見ても、みんな規律正しく、無駄が省かれて、管理の行き届いた環境が造られているのを肌で感じられる、人間が行う仕事というのは突き詰めると美しく感じられるな、という会社です。
でも、やはり人間のやることには限界もあって、ちょっと鼻につくようなこともあるのです。その会社の担当者の方は、あった時から横柄さがそこここに見られ、挨拶しても無視されたり、話し方にも冷たさを感じることがある方で、お互いのやり取りの中で心がざらつくことがたまにあります。
その会社の決まりごとで、毎月の締め日に、その会社が発行する請求書にシャロームの社印(実印)を押さなければならず、1万円もしない内職代をいただくために毎月会社で正式な契約を交わすため用いる一番大切な実印をもって、私がわざわざ出向いて行って先方が発行した請求書に押さなければならない。そういう状況にまず両社の立ち位地の上下があることを感じてしまいます。
ところで、一回目の請求書の捺印の時、トラブルが起きました。
私は実印は持っていったのですが朱肉をもっていくのを忘れてしまいました。それで、担当者の方に「朱肉を忘れてしまいました。こちらにございませんか?」と聞いたのですが、なんとその方は「そんなものはありません。」と答えられたのです。「ここにはありませんよ。どうするんですか?」と返されて、私もあたふたして「では取りに戻ればいいでしょうか?」と聞くと「そうしてもらえます?」と仰ったのです。その会社には絶対に朱肉があるはずなのです。三十メートル歩けば総務課の事務所があるのですから。そこからプレイズまでは車で十五分くらいかかります。それなのに朱肉を忘れたことに対して「お前の会社にとりに帰れ」と言われたのです。私はぶっきらぼうに「わかりました!とってまいります!」と言い放ち、そこを立ち去り車を走らせました。途中「なんだあの態度は!もうイライラする!」とかぶつぶつ言いながら車を走らせ、プレイズに戻っても周りの人たちに「こんなことってあっていいの!?」と、感情に任せて不満をぶつけたりしました。
しかし、車の中でマタイの福音書 五章四一節のみことばが心に響いてきました。
“あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。”
それで私も心を静め、その会社にまた入ることができました。
担当の方に「朱肉を持ってまいりました」といって近づくと「おぉ!?」と驚かれて対応に出てこられました。(あいつはもう戻ってこないだろう)と思っていたのかもしれません。それで、無事に印鑑を押して手続きを終えることができました。
次に会った時からは、その方の態度が心なしか柔らかくなったような気がします。そして、感謝なことにその会社との付き合いは続き、現在も仕事をいただいています。自分の感情で仕事を失うことにならず良かったなと思っています。
牧師としての働きでは、クリスチャン同士の交わりの中で、世の人との関係で起きるこのようなことを体験するのは少ないかもしれません、私にとってこの出来事は自分を制するためによい教訓をもたらす宝となりました。皆さんも、いろいろな場面で神様の栄光を証しするものとして、みことばから教え諭され、イエス様の道を選び取る学びの時があるのではないでしょうか?
“本当の正義は「負けて勝つ」”ことを聖書は語っていると思います。十字架の直前、イエス様は「今すぐに十二軍団の天使を護衛として動かすことができる」とおっしゃいました。しかし、イエス様はそうはされなかった。ご自分の正義を主張することもせず、神様のみ心に従い、悪いものたちの悪に身をゆだね、十字架の苦しみを耐え抜かれ、死にまで従われたのです。イエス様はその先にだけある勝利を見ておられたのです。
あなたは正しすぎてはならない。と言った伝道者は、同じ文脈でこうも言いました。伝道者の書七章二十九節
“私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。”
このみことばは何を意味しているのでしょうか?神さまは人を神様に似せて、神様を愛するものとし創造されたのに、人は善悪の木の実を取って食べ、自分を神のようにした、自分を善悪の基準にし、自分の正しさにより頼むものとしてしまった。自分に都合の良い正しさ・価値観を求めるようになってしまった、という意味かもしれません。
人は、自分を正当化します。しかし、伝道者の書八章一節
“知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。”
と伝道者は問うています。人間には限界があり、何よりも「神を恐れる」ことを伝道者の書が最終結論として結んでいるように、神様の前にへりくだること、神様のなさることに目をとめることが大切です。伝道者の書 七章一六~一八節
“あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。”
今回私自身が一年間を通して教えられてきた「正しすぎてはならない」というみことばを深く学んできましたが、ここには知恵がありすぎてもいけない。また、悪すぎても、愚かであってもいけないことが書かれています。ここには車の両輪のようにバランス感覚が必要なことが書かれていますが、別の機会にお話しできればと思います。
今日は、“あなたは正しすぎてはいけない”というテーマでお話をさせていただきました。私たちが神様の前に罪があることを認め、へりくだって救いを受け取ることができていることは、ただ主の恵みです。しかし、ともすると自分の正しさに生き、主張してしまうという弱さを持ってしまっているのではないかと思います。誰も例外なくそのような誘惑を受けることがあるのではないかと思います。ですが、私たちは、そんな時こそイエス様の十字架に立ち返り、互いに愛し合い一致し合い、霊的戦いにおいても、そこにイエスの贖いによる勝利、神様の愛による祈りによって戦っていく者となっていくように願っています。最後にお祈りいたします。
天の父なる神様、ありがとうございます。今日は私自身一年間を通し繰り返し教えられ、試されてきたてきた「正しすぎてはならない」というテーマについて、二〇二四年が終わろうとしているこの時お話をさせていただきました。どうか、私が話した以上に聖霊さまが、お一人お一人にお語りください。そして、イエス様が神の位を捨てて、人となって私たちのためにもっともへりくだって生まれてくださり、もっともへりくだった歩みをされ、そして十字架の死にまで従われたことに今一度心をとめさせてください。このクリスマスはそのようなことを思い、主に感謝し、自分自身を神様に捧げる時となることができますようにお願いいたします。主イエス・キリストのみ名によってお祈りをおささげ致します。アーメン