正しすぎてはならない

 

三月二四日の礼拝メッセージでは、創世記一八章一七~一九節のみことばからお話ししました。

 

“【主】はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。 わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが【主】の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、【主】がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」”

 

主はアブラハムが主の道を守り正義と公正を行うようになるため、彼を選ばれました。そして彼の神様への忠実のゆえに、ご自分がなさろうとしていることを隠すべきでないと考えられたと。私たちもこのように、主ご自身がなさることを打ち明けていただける者になりたいです。

主は、ソドムとゴモラの罪が非常に大きく天に届き、彼らを裁き滅ぼしつくそうとされていることをアブラハムに告げられました。そこからは、アブラハムが主の憐れみを求める命がけのとりなしが始まります。創世記一八章二三~二五節

 

“アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。 もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。 正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」”

 

アブラハムは神様のご性質である「公正さ」に訴えかけました。五〇人から初めて最後は一〇人に至るまで、ソドムとゴモラに少数の正しい人を見つけることができたら、町全体に情けをかけ滅ぼさないようにと投げかけたのです。そして、神様はその訴えに見事に応えられました。

旧約聖書を読むとき、神様に抱く第一印象として、恐ろしい方、悪に対して情け容赦なく裁きをなされる、とことん正義を貫かれるお方、と思われるかもしれません。そういう一面もあるでしょうが、それと同じくらい情け深く、罪に対して忍耐をされる方であることを知らされます。

「主は情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊か」なお方です。この個所はそのことを力強く私たちに語っています。一〇人の正しい人によって、町全体が許されるのです。

 

そこには、主の道を歩み、その思いを受け取る正しい人がいるのです。アブラハムのゆえに、一〇人の正しい人を見つけたら町全体を赦そうという答えが引き出されたのです。

日本において主を信じるクリスチャンは非常に少なく、日本の現状はソドムとゴモラのように罪深い状態であるかもしれません。私たちはアブラハムのように主の思いを受け取り、主の前に出るものとなりたいと思います。そして、私たちを通して神様の正しさ・公正さが現わされていくことを求めて生きていくようにお互いに祈り励んでまいりましょう。

 

そして、このメッセージの中で一緒に考えたテーマが「誤った正義」についてです。“誤った正義”とは何とも微妙な言葉の響きです。相反する言葉同士がつなげられているのですから。でも、「コロナ以降、世の中に誤った正義が蔓延するようになった」という研究者もいるそうで、興味深い事でありますが、この問題についてクローズアップされているのも事実かと思います。日本人の国民性には「正義と善が食い違う矛盾」があります。「なんか矛盾している感じがするけれども、みんながやっていることだからいいんじゃないか?」と集団心理が働いてしまうのです。そんな中で偽りごとがまことしやかに受け入れられてしまうのです。

 

イスラエルとパレスチナ、ロシア・ウクライナ、世界は混迷を深め、それぞれが掲げる正義がぶつかり合って力で正義を実現しようとする「正しさ」が対立の溝を深めている。

また、これらの世界情勢を見るときに、人間が掲げる正義とは相対的なものであり、立場が変われば正義が逆転することもしばしばある、というものであることがよくわかります。人間の正義とは、時として独りよがりで強力な武器となって相手を傷つけ、かえって平和をかき乱し混乱させることになる可能性があります。

 

聖書を見てみると、この「誤った正義」を持ってしまったことによって神様の祝福から外れてしまった、あるいは困難な状況に置かれてしまった人、また集団についてのエピソードを見ることができます。最も象徴的な出来事は、イエス様を十字架につけるために奔走したユダヤ人たちです。

彼らは自分たちが間違ったことをしているとは考えませんでした。むしろこれが正しい事だと考えて、イエス様を葬るためならその流された血の責任が自分たちと子孫の上に降りかかっても構わないとさえ言ったのです。またパウロもパウロになる前、サウロだった時には、クリスチャンたちを捕まえて牢屋に入れるために奔走していましたが、彼は正義感に燃え、これが神さまに喜ばれることだと信じきっていました。私たちは、ともすると神様の義を後ろ盾に、自分の正義を強力に武装してしまうという霊的傲慢の間違いを犯しやすい、弱い者ではないかと思います。エペソ人への手紙の二章二〇節、

 

“実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。”

 

私たち一人ひとり、皆、等しく神さまに愛されて、正しく良い行いをするために創造された作品です。地球の管理人としての使命を持って神さまによって創造された、無駄な人など、誰もいないわけです。そして、一人一人がしっかりと神様の正義を正しく受け止め一致していくときに、小さなところにも大きなところにも、神のわざがなされていくのではないでしょうか?

へりくだった態度で御霊の実によって行動することは教会にとって非常に大切なことだと思わされます。そこには同じ聖霊によって召された者たち、それぞれの世界で研鑽を積み、知識と知恵を持つ多様な賜物があふれています。お互いを認め愛によって結ばれていくときに、キリストの体は大きく動き出します。

 

悪魔は、私たちが一致しないように、どのように働きますか?それぞれが自分の正義を掲げるようにします。「私が正しい。この人は間違っている。」と。どうか、教会の中には、そのような論争が起きず、それでいて互いに愛によって結び合わされるという神様のわざが力強く現わされますようにと、お互いに祈りあっていきましょう。

 

日本にとってアブラハムのような者とものとなることができますように。もしも“誤った正義”をまとっているのなら、主に示していただき、脱ぎ捨てて神様に立ち返らせていただけるように、という勧めをしました。

 

七月一四日の礼拝では「ヨセフの人生から学ぶ」と題して、お話ししました。

ヨセフは人生における長い試練の中で、自分は正しく何も悪いことをしたわけではないのに、不条理な扱いを受けているという考え方が、苦しみの中で砕かれ、ついにすべての出来事が神様の御手の中にあり、無駄なことは一つもなかったと気づかされました。そして、神様の前にへりくだりその自我が砕かれたとき、神さまは不思議な方法で彼の尊厳を回復し、エジプトの総理大臣の座に就き、ヤコブと再会し、兄弟たちと和解し、イスラエルを滅びの危機から救ったのです。

私は今日のメッセージに思いを巡らせながら考えました。もしも彼の兄弟たちがもっと早くにエジプトを訪れて、ヨセフと再会していたらどうなっていたか。おそらくヨセフは怒りのまま彼らを殺していたのではないか?と思いました。そうなったらイスラエルの歴史は全く変わってしまい、神様の救いの計画も台無しになってしまっていたと思います。

 

ヨセフ物語の中心点として最も興味深かったのは、救い主の系譜がヤコブの後、ユダに受け継がれる転機が描かれていることです。これも、もしもヨセフが神様の摂理に対して心が開かれていなかったら、そのことを受け入れることができなかったのではないかと思います。

ヨセフはおそらく家族との再会を果たした後で、ユダが果たした大きな役割を聞いたのでしょう。

ヨセフが兄たちに殺されかけたとき、ユダがただ一人彼を庇ったため、彼の命が救われたことを。また、飢饉の折に、自分の立場をかけて父を説得し、それゆえヤコブはエジプトに下ることができ、イスラエルが滅びからまぬかれたことを伝え聞いたのだと思います。

ユダは家族を守るリーダーとしての自覚と責任感を持っていました。だからこそ、創世記四九章で、ヤコブが十二人の子どもたち一人一人に祝福を与えた時、ユダに特別な祝福が与えられ、彼の子孫にイスラエルの統治者としての地位が約束されるという言葉を聞いても、ヨセフは父に抗議することなく、神さまのご計画として受け入れることができたのではないかと思います。

 

そして、今日のメッセージのテーマは「正しすぎてはいけない」です。前置きが長くてメッセージの大半が終わってしまいましたが、ここまでのメッセージはつながっているでしょう?

実は、今年の初めころから心に響いていたテーマです。最後にこのことをお話ししたいと思います。

 

二十世紀初頭にアメリカ暗黒街の帝王アル・カポネが逮捕されたとき「俺は働き盛りの大半を、世のため人のため尽くしてきたのになぜ逮捕なのだ」こう言って、自分の行いの正しさを主張したそうです。

これは罪の責任を転化し自分の正当性を主張することで、自分自身を誇示し保護したいという思いです。これは始めの人間アダムの罪と一緒です。神様から「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか?」と問われたとき、「あなたが私のそばに置かれたこの女が食べよと、私をそそのかしたから食べたのではありませんか」と、自分の片割れである女と、こともあろうに神さまを非難したのです。

 

実は聖書はその書き始めから一貫して、自分の正義を主張することこそが罪の始まりであると教えています。

正しさが前面に出る、その時私たちは何かに・もしくは誰かに“罪・悪”を見出し、それを攻撃しているのではないでしょうか?

その攻撃はしばしば破壊的な結果を招きます。「私は正しい。あなたは間違っている」とどこまでも主張するなら、その人は正しさと引き換えにすべてを失ってしまうのです。夫婦関係・友人関係・会社やコミュニティでの信頼関係も、“正しすぎる”ことは失うことにつながるのです。なくしてしまったその時「自分は大切なものを失うために正しさを主張していたのか」と悔やんでも遅いのです。人と人・コミュニティとコミュニティ、国と国、全ての中にそのような悲しい現実を見るような今日この頃です。

 

それは、先に話したように、私たちの信仰にさえ暗い影を落とすことがあります。正しさは、人を謙遜にするはずの信仰さえ争いの原因としてしまうことがあります。神学論争とはよく言ったもので、神様によって与えられた恵みであっても、一歩間違えるとそれは自分を正当化するための強固な砦、相手を攻撃する砲台・トーチカになります。

“聖霊によって一つである”という教えは、私たちがどのような役割を持っていても、それに専念するという恵みは、自己実現・自己満足ではなく、体なるキリストの各器官のためであり、どこまでも周りの益のためという自己犠牲の現われでなければなりません。

 

イスラム原理主義の行き過ぎた正義では、罪に対して聖戦を告げ、教えに反するものには命を奪うことをも肯定します。しかし、私たちの霊的戦いにおいて最も大切なことであり全てなのは、神の愛とイエス様の贖いの原理によって祈ることです。偶像を持ち主の同意を得ず打ち砕いたりしませんし、主に対して暴言を吐くようなものに対しても、物理的な力をもって罰したり戦ったりすることはしません。そこにあるものは神様の視点で見、愛をもって仕え祈ることです。