信仰の創始者から目を離さずに

寛太が倒れて天国に帰った後、いろいろと祈ってくださった方々の所にもお礼のためにお目にかかりにも行っています。十一月五日の日には、下條末紀子先生の所に行きました。思わぬ交わりが与えられました。ちょっとご挨拶をと思って行ったのですが、四時間ぐらい先生と交わりの時が与えられました。下條まきこ先生、ご存知の方があると思いますが、若かりし頃から変わりません。びっくりしました。八十八歳、全く変わっていませんでした。それこそブレていないと言うのでしょうか。信仰もブレていないし、何と言うのでしょうか。この人超人かな?というぐらい、滑舌といい、その中でリバイバルのことも、いろんなことを話してくれたし、裏話もいっぱいしてくれて、うちの父がいつも電話していたことなど。
うちの父が癌で入院した時、毎日電話が行ったと言うのです。そんなこと初めて聞きました。また父がいろいろと悩むと電話していたらしくて、「いや〜。迷惑かけたなぁ」と思いました。
お交わりの中で、本当に感謝したことは、「ここでも祈ってくれてたんだ!」と言うことです。
私の家内の親友のお母さんは、毎日、朝起きると寛太のことから祈ってくれていたそうです。そんなこと知りませんでした。「でもこれから寛太さんのことを祈ることができなくなって寂しくなったわ」と言っていました。
この頃、「あぁ寛太のために祈る必要なくなったんだぁ」ということを、本当に思わされています。でも天にあって証人としていて、我々のためにとりなす者として彼は今、天にあるということを思います。
「キリストのからだの中にあって、私たちは支えられていた。」本当にそれを今体験しています。ここにいらっしゃる一人ひとり、皆さん、神さまは、私たちをキリストのからだの中に招いてくださって、そして皆さんを手として、足として、どこか分かりません。
うちの父は「足の裏でもいい」という、そういう本を書いていました。でもうちの親父はたぶん足の裏じゃないなぁと思います。あの人はやっぱり表に出ていましたからね。あの人はあのギラッとする目かなと思うのですが、あの愛嬌のある目ですね。

僕は親父のことで最後に、忘れられないことがあります。彼が入院して、彼が亡くなる数時間前にも僕は会いに行きました。ちょうど東京にとりなしの働きのために行かなければいけなくて、「親父、これ今から行って来るな。」と言ったら、父が「トイレ行きたい。」と言い出しました。もう駄目な時ですよ。でも無理やりトイレに入りました。そうしたら看護師がやってきて、尿瓶を持ってきて差し出したら、看護師の手をバッと払ったのです。そしてバタンと閉めました。「おい!親父!」と言ったら、中で用を足す音が聞こえました。
その後、ガラッと開けて、僕に「にやっ」と笑ったのです。その後急変していって、たぶん最後はおむつ着けたと思うのですが、彼は最後の最後までトイレを自分でやったぞという、あの愛嬌のある目で「にやーっ」と僕にしたんですよね。僕は生涯、それを忘れられません。それが僕の親父ですね。

私にとっても、瀧元家にとっても試練があります。今うちの兄の奥さんのために、兄のために、皆さんが祈ってくれています。でも牧師家庭というのは、意外と祈られることが不得意なのです。祈ることはいっぱいする。みんなのために。でも愛を受けることはすごく不得意です。「祈ってます」とか言われると、「まぁまぁまぁまぁ祈らんでもいい。なんとかやるよ。」みたいに強がってしまったり。でも本当にこのような戦いの中で、皆さんから支えられ、祈られ、そして私たちが存在するということを本当に学びました。本当に感謝します。

そして私たち一人ひとり、誰一人、キリストのからだの中にあって不必要なものはないのです。決してイエスさまから目を離さないでいきましょう。決してイエスさま、かしらなるイエスさまから離れては駄目です。いろんな試練があります。この教会の中でも、これからいろんなことが起きるかもしれません。でも決して、イエスさまから離れては駄目なのです。サタンは我々を破滅に導こうとする。いろんな言葉で私たちは傷つきます。この社会の制度や、またいろんな問題の中で、私たちは本当に怒りでいっぱいになってしまうこともあります。失望するかもしれない。落胆するかもしれない。でも私たちは必ずイエスさまにあって繋ぎ止められている。

私たちの歩みというのは、螺旋階段をずっと歩いていくようなものではないかなぁということを、この頃、よく思わされます。天国への螺旋階段ですよね。螺旋階段というのは、螺旋的にずっと上に上がっていくのですが、聖書の言葉の中に、第二コリント三章十八節、

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。』

と書いてあります。この螺旋階段のように、私たちはイエスさまご自身を見上げて、そして栄光から栄光へと変えられていく歩みを私たちはしているのではないかなということを思います。螺旋階段、でも横から見ると振れるのです。右左に。そうでしょう。右に行ったり、左に行ったり。「ハレルヤ!感謝!イエスさますごい!でも最悪。イエスさまなんか駄目。いないかもしれない。」とか思うけど、やっぱりこうやって振り子のように振れるかもしれません。でも聖霊は私たちを助けて下さる。ここにもあるように、「主は御霊です」と書いてあります。聖霊によって私たちは栄光から栄光へと変えられていくという約束の中にあることを今日は覚えましょう。

そして振りちぎられるような落胆の淵が見えても、必ずイエスさまが私たちの中心にいてくれる。信仰の創始者であり、完成者から目を離さないでいきましょう。じっとなんて見てられないと思います。でも「あそこにある」のです。もう一回写真を見せてくださいますか。
 向こうにあるのです。イエスさまはいるのです。私たちはイエスさまに目を留めながら、この闘いを、栄光から栄光へと変えられていく歩みをさせていただかなければいけないと思います。

寛太が天国に帰る半年前ぐらいに寛太に対して一つのみことばが与えられました。葬式の時にこの歌を不遜にも私は歌ってしまいましたけど、メロディーが付いていました。第一テサロニケ二章十九・二十節です。栄光から栄光へと変えられていく私たち、そのものに対して、パウロは、テサロニケの教会そのものが

『あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。』

と語りました。イエスさまが来られる時、私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、一体誰でしょう。私たちは神さまにあって、「あなたこそ望みであり、あなたこそ喜びであり、あなたこそ栄光なんだ。」と、今日も語りかけられ、そう言われていることを受け止めたいと思います。

寛太がずっと倒れたまま、何もできない。なんかできるんだろうか。でもその時にこのみことばが与えられて、「寛太こそ私たちの喜びであり栄光なんだ。」ということを私は神さまから受け取りました。
今日ここにいらっしゃる皆さん、またネットで見ていらっしゃる一人ひとりの方々、覚えてください。あなたこそ喜びであり、栄光なのです。キリストのからだの中にあって、誰一人、誰一人不必要な者は、不必要な方はない。今日それを本当に神さまにあって受け止めて、信仰の創始者であり完成者、苦難の中を通り抜けていかれたあのイエスさまから目を離さないでいきましょう。ずっと見えていないようでも、いるのです。今日本当にそのみことばにあって生きていく私たちとなりたいと思います。
最後にお祈りします。

天のお父さま、今日このみことばをあなたの愛するキリストのからだなる教会、この新城教会に、またそれに連なってくださっているお一人お一人に届けることが許されて、本当に感謝いたします。
今日あなたは一人ひとりに、「あなたこそ私たちの喜びであり、栄光です」と語ってくださっていますから感謝します。栄光とは程遠いような失望・落胆の現実の中にいらっしゃる方もあるかもしれません。イエスさまを覚えさせてください。聖霊によって私たちが栄光から栄光へと変えられていくものとされていることを覚えさせてください。
どうぞこの新城教会をあなたが今日キリストのからだなる教会の中にあってイエスさまに結びつけ、この教会が世界の教会の中にあって、日本の教会の中にあって、支えられ守られる、祈られている教会であり、愛されている教会であり、支えられている教会であることを覚えさせてください。
私たちはイエスさま、あなただけに目を留めます。イエスさまの十字架によって私たちを生かしてください。イエスさまの十字架によって私たちを力づけてください。死に勝利なさったイエスさま、あなたご自身の十字架にあって私たちを生かしてください。もう私たちの中に勝利が与えられていることを覚えて感謝いたします。
今日このみことばにあって一人ひとりが強められ、生かされる。そのようなものとなることができますように。イエスさま、あなたが一人ひとりに触れてください。イエスさまを見せてください。イエスさまをどうぞ、一人ひとりに。イエスさまに触れることができるように。今日どうぞ、ここにいらっしゃるすべての方が生きて働かれるイエスさまに触れることができるように。
イエスさま、聖霊ご自身がどうぞ深い所にお越しください。私たちの最も深い所に。癒やしてください。励ましてください。支えてください。あなたの勝利を受け取る者となることができるように。あなたがこの教会を、一人ひとりを愛してらっしゃることを覚えさせてください。
主イエス・キリストのみ名によって、すべてを感謝して、この祈りと願いをみ前におささげいたします。アーメン。