信仰の創始者から目を離さずに

2022年11月13(日)S.I.R.代表 瀧元望師

ヘブル人への手紙12章1〜2節
『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』

お祈りします。愛する天のお父さま。今日このしもべをあなたがこの場所に立つことを許してくださったこと覚えて本当に心から感謝します。そしてこの日に、私たちが共に生きて働かれる主イエス・キリストを礼拝することができることを感謝します。
まず私たちの目をあなたに向けさせてください。信仰の創始者であり、完成者であるイエスさま、あなたに目を向けることができるように。この礼拝があなたに目を向ける礼拝となることができるように。私たちの目の前にいろんな問題があり、いろいろな出来事があります。心の中にも多くの出来事があります。でも今日、あなたに目を留めることができる、この恵みを感謝し、またこのひとときが、イエスさまに目を向けるときとなることができるように導いてください。
尊いイエス・キリストのみ名を通して、み前におささげいたします。アーメン。

おはようございます。一年半ぶりぐらいに、また皆さんと一緒にみことばを学ぶことができることを感謝します。
実は今回も押しかけで、「メッセージが与えられたので話させてくれ」とお願いしました。
一つは、祈っていただいた私の息子寛太が天国に帰ったので、そのことに関しても皆さんに少し報告したり、感謝を述べる必要もあるなと思ったこともあります。でも何よりも、愛するキリストのからだなる教会に、神さまが私を通して、届けようとしている言葉があるなということを感じたので、「僭越でありますが」という言葉がありますが、こんな者が立たせていただきました。
普段こういう格好は、あまり僕はしていません。今日この服を家内に着て行けと言われて、もっとラフな服で行こうかなぁと思ったのですが。この服、僕、見たことなかったのです。買った覚えもない。たぶん寛太の遺品かなぁと思います。分からないですが。人前に出る仕事というのはあまり僕、この頃していません。セミナーとかそういうことは自分の庭でやるようなものですが。実際、野山に出ている時が多いのです。昨日の朝も、罠の見廻りに、その辺のおじいちゃんと一緒に、その辺の山に行きました。別にそれは私の趣味というよりも、愛知県からの鹿の駆除のための委託事業でやっています。いずれにしてもこういう場所に立たせていただいて本当に感謝します。
なんと言うのでしょうか。この二年間ぐらいはコロナのこともあって、新城教会に出席することが多くなって皆さんと馴染みができました。かつては外を巡ることが多かったので、ここの礼拝に参加すると、「どちらからいらっしゃったんですか?」とよく聞いてくださいました。「その辺から。」というしかないのです。後から、やはり同じハゲがいますので、「よく似たハゲだ」というやつで、つまずく方がいたので、教会のスタッフから叱られて、「ちゃんと名乗るように」ということで、ハゲを見れば大体分かると思うのですが…。僕はうちの兄の四年後を追っています。「四年後はああなるなぁ」と思いながら、いつも兄を追っています。
兄も今、本当に苦しんでいて、皆さんもすごく心配してくださっていると思います。でも、やはりこの戦いは神さまの戦いであって、必ず私たちは勝利を確信しています。たとえどうなろうともです。

最近のことですが、寛太のためにすごく祈ってくださって、支えてくださった方、リバイバル聖書神学校の卒業生である方々の所に、お交わりのために伺うことができました。
その方は、写真のギャラリーをやっていらっしゃって、その所に行きました。一つ皆さんに写真を見せたいのですが。
 僕はこの写真を見た時に、すごく心に癒しを受けました。「ピント合ってねぇんじゃねぇか?」と皆さん、思いませんか?普通、素人ならば、たぶん奥に見える色づいた木にピントを合わせるのですが、このカメラマンは天才なので、自分が歩く二・三メートルの所にピントが合っているのです。こういう所はよく鹿猟とかで走ったり歩いたりするのでよく知っています。
この写真を撮った方は、実は僕の釣り仲間で、またリバイバル聖書神学校でも学んだことのある瀬尾拓慶君というカメラマンです。ペンタックスから高機能なカメラで彼モデルが出ています。「瀬尾拓慶モデル」というものです。一度調べてみてくだされば分かります。彼は今、こういう写真を皆さんに紹介して売っているのですが、これを普通買おうとすると四百万円ぐらいするそうです。特殊な印画紙に焼き付けて売られています。僕は友達ということで、タダで。いや別に貰ってないですが、「どこにも出しませんから、ちょっと紹介させてください」ということでデータを貸して頂きました。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離すな」というこのみことば、あの写真で私たちは当然あそこ、色づいている、ちょうど向こうから光線が当たって、その木が光って見えているわけです。でも私たちの人生というのは、実はイエスさまをずっと見続けると言っても、実際、僕らは生活の中で私たちの目の周りにあるこのほんの数メートル先、そこに目を落としながら歩かなきゃならないのが現実だと思います。

私も四年一ヶ月、寛太と共に闘病生活をさせて頂きました。ここでちょっと簡単に寛太の歩みというのを皆さんに紹介させていただきたいと思います。

二〇一八年七月二十二日、午前二時頃だったと思います。もう少し前かもしれませんが、自宅で彼は脳出血で倒れました。私達はその時に京都にいて、電話が来てすぐに京都から駆けつけました。三時間後ぐらいに緊急手術をして、一命を取り留めた。でも右脳に二百CCの出血がありました。よくご存知の方は分かると思いますが、まず助かりませんね。でも奇跡的に神さまは彼を生かしてくれました。ちょうど家から数分の所が病院であったということもあったと思います。
そして私たちの思いもせぬことでしたけど、闘病生活が始まりました。僕らはあまり病院というものと縁のない生活をしていたので、入院した病院にそのままいられると思っていたら、どうも違うのです。国の制度で、小泉改革と言うか、改悪によって、医療制度は本当に変わっていまして、このY総合病院の脳外科には二ヶ月しかいられないと言われました。でもそれでも少し置かしてくださって約3ヶ月後、次にリハビリ病院に何とか入りました。
そして隣街にある、これは車で十分くらいのAリハビリ総合病院という所に、約半年間いました。これも半年しかいられないのです。自宅で療養するのか療養型の病院に行くかなのです。そして次に行った所は療養型病院のT記念病院という所に転院になりました。これは東京都の町田市なのです。遠いかというと、実は寛太の自宅から十分くらいで行けるのです。青葉区に住んでいて、ちょうどその町田市と川崎市と青葉区の境くらいの所にいました。この間、妻である佳代さんが毎日毎日病院に通って、そして彼のために、愛し、看病し続け、励まし続けてくださいました。勿論、皆さんが本当に祈ってくださって、たくさんの献げ物を献げてくださって、支えられ続けてきました。

この出来事があった時は、四十七都道府県をリバイバルミッションの一環としてとりなし祈っていくというプランがちょうど始まる時でした。本当は倒れた三日後、七月二十五日から東北と北海道に、孫達や他の中高生を連れてとりなしに行く予定になっていたのですが、それは延期して、でも八月から、私は四十七都道府県をずっとめぐり歩きはじめました。そこで祈ったことは、やっぱりうちの息子が癒されるように!「息よ!四方から吹いて来い!」とか、そういう歌を孫達と歌って、全国各地でそんな癒しの祈りをさせていただいたし、もちろんその地域のために、四十七都道府県を巡って、高い山に登ったり、見渡しながら、祈り巡りました。
またその間に、リバイバルミッションのプランで、パプアニューギニアへのとりなしの旅があったり、パラオへのとりなしツアーがあったり、いろんなスケジュールがあったのですが、神さまはそれをやり通すことを許してくださいました。
また二〇一九年になると、うちの兄の奥さんの病が発覚して、そして兄のスケジュールを私は一応背負いました。十一月ぐらいから、イスラエルツアーにも行かせていただいて、楽しいツアーでした。でもあの時の癒しを祈りながら巡るツアーというのは忘れられないですね。シロアムの池の所で、みんなで祈りましたよね。そしていろんな所で祈って巡ったことを思い出します。イスラエルは何度も、七、八回行っているのですが、再び行けたのはすごく良かったなぁと思っています。
また二〇一九年は、私たちのとりなしのネットワークでは、大嘗祭に対するとりなしがありました。天皇代替わりの出来事が一年を通してあり、そのすべてのイベントに関して私はとりなしに出かけました。そしてまたパラオにもその時に行ったし、そうやって戦いを続けながら、また闘病生活。

でもこの二〇一九年末に、一つの変化がありました。それはF医科大学病院にセカンドオピニオン外来を受けることができる。そこで脳障害を負った人たちにDCSという、電極を体に埋め込んで脳に電気刺激をする手術があるのですが、それができるかもしれないということで外来を受けて、なんと担当の先生が「やりましょう!」と言ってくださって、そして入院が決まりました。
でも入院が決まってすぐに入っていけるかというとそうではありませんでした。実はそれは保険外の手術、また入院だったので、費用が僕らにとって、ここであえていくらとは言いませんが、本当に天文学的な数字でした。我が家においてはもちろん、私は空の鳥のような生活をしているので、多少は家内にはその時に蓄えがあったと思いますけど、闘病生活でほぼ使ってしまいました。
僕らにとっては絶対無理だと思いました。でも募金を募ったら、その必要が溢れて、少し余剰が出るぐらいのお金が全国から寄せられ、またここにいらっしゃる皆さんも献金してくださって、その手術ができるようになりました。

F医科大学病院の意識障害回復センターという所に入ったのですが、彼が横浜から移った時が最後のチャンスでした。コロナでほぼ入院がシャットダウンになりました。実際は、二ヶ月しか入院していられないという約束だったのですが、コロナで身動きが取れなくなって、医療制度でいろいろあるのですが、六ヶ月だけはいられるという制度を用いたり、いろいろ手を尽くして全部で九ヶ月近く、F医科大学病院に入院することができました。そこではやはり先進的な治療がなされていて、最後の方では彼を立たせて、まだ意識はないのですが、立たせて歩く訓練までしていました。また嚥下のトレーニングをして。普通では考えられないですね。でも嚥下もうまくいくようになって、これはもういけるよ!あとは目覚めるだけだ!そして電気刺激を送りました。昼間の間、朝八時から午後の四時まで、電気刺激を続けてくれました。身体の中に充電器を入れていて、リモコンでピッとスイッチを押すと電源が入るというのがDCSです。

でもそんな中で、やはり病院をもう出てかなきゃならないということで、十月くらいにコロナが一旦収まった時に、今度は静岡県の聖隷S市民病院の一般病棟に行きました。実はこの病院に行くはずではなくて、本当は、TS病院という療養型病院に行くはずだったのです。でもコロナのことがあって、いきなり天竜に行けなくて、聖霊S病院に二週間行って滞在し、その後、転院するという約束で行ったのです。
でも一般病棟に入った時にすごい回復の兆しが見えたのです。すごい反応が見えて、お医者さんはそれほどでもなかったですけど、看護師さんたちがすごく色めき立って、これは目覚めるかもしれない!と言って、すごく真剣に看護をして下さいました。そんな中で、私たちが「この病院にそのまま留まりたい」と言ったら、「この病院にも療養病棟があるから、一階上がるだけで療養に行けるから、ここにいたらどうですか?」と言われて、聖霊S市民病院に留まることになりました。
ご存じのように、長谷川保先生という先生が聖隷病院を創設されました。長谷川先生はこの教会でもメッセージをしたことがあります。私もお目にかかったことがありますが、戦前に、当時社会から見放されていた結核患者を救済する目的で聖隷病院を建て上げました。そこに導かれたことも全部神さまの導きかなぁと思って、そしてそこに滞在しました。
そうこうしているうちにまた、いろんな問題が起きてきて、一年ちょっと経った時に、手足に壊疽が起きてきて、治療のために今度は、浜松市のTSセントラル病院という所に行って、手足の指先とかを切断しなきゃならなくなりました。皆さんにお見せしたら多分ショックだったと思います。私たちもショックでした。ドラムを叩けるはずの指がなくなっていく。ドラムのキックをする足先を切らなきゃいけないとか、いろんな苦悩がありました。
そして、「出て行ってください。」と言われるわけです。手術が大体終わって、「もうこれで終わりですよ。」ということです。でもまだ原因が分からないのに、なんで出すんだろう?と思うけど、病院としては「療養に帰ってください」と言われました。
そうこうしているうちに、二月一日に肺炎を引き起こして、そして聖隷H病院という、急性期の病院に入院することになりました。
そこで懸命な治療をして下さり、また、手足が壊疽していくその原因を調べてくれました。最初は原因が分からないと言っていたのが、これは血管炎だと分かりました。それは膠原病の一種らしいのですが、もしかすると脳の脳出血も、血管炎のゆえに起きたのかもしれないということをお医者さんたちはおっしゃっていました。そんな原因までちょっと予測ができたりしました。
でも三月二十三日、夜中に、朝三時頃から電話が鳴っていたのですが、ちょうど私は電話をマナーモードにしていて出られなかったのです。四時頃、電話に気づいて出たら、「心停止しました」と言われました。「今から蘇生やりますけど、あなたが来る一時間の間、蘇生やれないから、もう蘇生をやめていいですか?」という電話でした。もう「あ、天国に帰ったんだ。」と思って、私の車はハイエースの大きいやつですから、布団を積んで、寛太を連れて帰れるように用意して、家内と一緒に向かいました。病院に着いたら、「蘇生しました。」と言われました。びっくりしました。というか、なんで?と思いましたけど、神さまは生かしてくださったのです。