〜この地に植えられ70年〜
後ろの扉を閉めろ!

 

レビ記の中に、ヨム・キプールの規定があるのですが、今日はそのことに関して、詳しくお話ししませんが、ヨム・キプールの日には、二頭のヤギが用意されたと以前にもお話ししました。一頭は神への悔い改めのしるしとして生贄とし、もう一頭は「アザゼルのヤギ」と呼ばれました。当時の人たちは、悪魔のことを「アザゼル」と呼んでいました。アザゼルは荒野に住んでいると信じられていて、アザゼルのヤギは、悪魔への生贄として、荒野に放たれました。

 

これは何を意味するのでしょうか。罪とは、二つの領域によって構成されていることを意味します。一つは神に対する反逆であり、結果は、神との関係の悪化です。そして、もう一つは「悪魔との契約」です。

今の世界、罪に満ちています。これは神との関係が悪化した証拠です。しかし同時に、忘れてはならないことは、悪魔・悪霊どもとの契約です。歴史が長くなればなるほど、世界は良くなるどころか、より深く、悪魔の手に陥り、世界は荒野のように荒廃するのです。

現代社会には、重大問題が次々と発生しています。まさに悪魔的な問題ばかりです。どうしてこんなにも、悪魔が強く働いているのか。それは人類自ら、罪によって、神との関係を悪化させ、同時に、悪魔・悪霊どもとの契約が深まっているからです。

旧約聖書は罪が二つの領域からできていることを教えています。ゆえにイスラエルでは、今でも、年間に一度、国民あげて、神の前に悔い改めの時を持っているのです。

 

しかし、残念なことに現代のキリスト教会、この概念が崩れています。悔い改めとは、神への反逆のみであると考えて、悪魔と結ばれる契約については、ほとんど意識されていないのが現実です。ゆえに、契約書が廃棄されずに残ってしまうのです。

だからいくらクリスチャンが街を代表して神への反逆を悔い改めても、契約書が破棄されずに残る為に、街は依然として悪魔の手中にあり続けるのです。

この概念は、旧約聖書だけでなく、新約聖書にも、しっかりと受け継がれています。コロサイ人への手紙二章十三節、十四節を見ると、悔い改めが、罪の赦しと、債務証書が無効になるという二つの領域で構成されていることを教えています。

何度も語っていますけれど、「悪魔」は、ギリシャ語では「ディアボロス」です。それは「中傷者」とか「告発者」という意味です。神の前に告発するのが悪魔です。

第二列王記四章一節、

 

『預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」』

 

エリシャの弟子の預言者だったと思われるのですが、最も神に近い存在が死んでしまい、奥さんと子ども二人が残されたのです。そこに債権者がやってきて、「貸した金を返せ!」と責め立てていたのです。「金を返せなかったら、子どもたちをよこせ!」と、子どもたちを狙っていました。

どうしてこの家に債権者が取り立てに来ることができたのでしょう。それはただひとつの理由です。契約書があったからです。

契約書があったゆえに、債権者は合法的にこの家に来ることができたわけです。

 

『身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。』(ペテロの手紙 第一 五章八節)

 

「敵」という言葉は、ギリシャ語で「アンチデコス、訴訟を起こす者」という意味です。悪魔は告発者であり、訴訟を起こす者です。天の裁判所に、訴訟を起こす存在なのです。

では悪魔はなぜ訴訟を起こすことができるのでしょうか。それは、悪魔と交わした契約書があるからです。契約書があるがゆえに、悪魔どもは神の前に私たちを訴え、彼らは債権者として活動できるのです。この件に関しましては、いつも語らせていただいています。

私たちの所に悪魔・悪霊どもが関わるのは、理由なくではないのです。契約書によって、合法的にやってくるわけです。

敵に押し入られないためには、契約書を破棄しなければなりません。その前提として、やらなければならないことが「後ろの扉を閉める」ことです。

二人の子どもが狙われていたやもめの家に、エリシャがやってきて、「油を増やす」奇跡を行いました。やもめは、まとまった油を売って、そのお金で負債を払い、契約書は無効にされました。その結果、二度と敵が来ない環境ができたわけです。

後ろの扉をしっかり閉めないと、せっかく油が増えても、敵に持ち去られてしまいます。まずは後ろの扉を閉めましょう!と、第二列王記四章では勧めているのです。

 

油とは、新約聖書では、ただの油ではなく「聖霊」ご自身を意味しています。聖霊さまは「油」と表現されているわけです。幸せな人生を歩むために必要なことは、油を増やすことです。また、油を奪われないように、敵が侵入する進入路を、しっかりと塞ぐことです。

先ほども話したように、私たちは霊的には、街の代表者であり、国の代表者です。先週も建国記念日がありましたが、偽りの神話の上に日本は成り立っています。街がどうしてできたのか、国がどうしてできたのかその理由を知ることは大切です。その土台に罪があり、悪魔と結ばれた契約があることが理解できるからです。

ということは、地域の代表者として、国の代表者として、クリスチャンが共同体的罪を悔い改める事は、街のリバイバルのために、大変重要です。

今週は、私たちの教会に聖霊が注がれた記念週です。もう一度、私たちはこの街のリバイバル、この国のリバイバルのために、さらには、神の国の実現のために、悪霊に対するドアが閉められるよう、契約書が無効になるよう祈りましょう。

 

続いて二節、エリシャが彼女に何と言ったのか、

 

『エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」』

 

この家の奇跡は、どこから始まったのかと言ったら、ほとんどなくなりかかっていた、油の壺の油からでした。ここから、家の問題は解決したのです。

ここに新約聖書の視点を重ねるならば、イエス・キリストによって、信じる者たちの心の中に、聖霊さまが住んでくださることを意味します。どのようにして私たちは内側に聖霊さまが住んでおられるか否かを確認できるのでしょうか。それは、誰も聖霊によらなければ「イエスは主です!」と告白できないとあるからです(コリント第一12:3)。私たちが「イエスさまは主です!」と告白できるならば、内側に聖霊さまがおられる証拠です。

皆さんで告白してみましょう。

「イエスは主です!」

良かったですね。ちゃんと告白できるとしたら、内側に聖霊さまがおられます。

 

私もイエスさまを信じていて、本当に良かったと思います。大きな試練や、大きな悲しみが人生にあったとしても、内側に聖霊さまが住んでいてくださり、助けてくださるからです。普段の生活の中では、あまり聖霊さまの働きは気にならないのかもしれません。しかし様々な問題が起こったり、苦しみがあったりするとき、内側に油の壺がある事が、いかに祝福であるか分かります。

このやもめの家もそうでした。油の壺なんて、普段は、あまり気にしていなかったかもしれません。しかしこのような大問題が起こった時に、油の壺があったことは、子どもたちを含めての救いにつながったのです。

イエスさまを信じた時に、聖霊の油壺が与えられたということは、かけがえのないことです。絶対に、油壺をなくしてはならないですね。

続いてエリシャがこんなことを語っています。

 

『すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。』

 

これは何を意味しているのか、空の器を借りて来いというのは、霊的な解釈においては、「まだイエスさまを信じてない人たちを一人でも多く、教会に連れて来なさい」ということを意味します。

時に様々な問題があったりすると、外に出て行って空の器、油が入っていない器を借りてくる、連れてくるということに躊躇します。今も教会はコロナなどの問題で、器を借りてくることに躊躇しています。

しかし私たちはこのような時にこそ、外に出て行って、空の器、すなわちまだイエスさまを信じていない友達を教会にお連れすることです。『それも、一つや二つではいけません。』と言うのですから、三つ以上、三人以上、連れて来いということではないでしょうか。

今年は多くの宣教がなされるといいと考えています。今まで様々な制約がありましたけど、制約が少しずつなくなってきましたから、少しでも多くの空の器を教会に導いてくる時、油が増える奇跡が起こります。

そして次にエリシャは、

 

『家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。』

 

とやもめに告げています。油を増やす前に、しっかりと扉を閉めとけ!と言ったのはどうしてでしょうか。扉が開いていれば、債権者がやって来た時、油を奪われるからです。それが扉を閉めろ!の意味に他なりません。

ある時代、教会は盛んになるのですが、ある時期が過ぎると、下火になって力を失うことがあります。どうしてかというと、やはり、教会自体にも扉が開いていて、あるときは聖霊の油が増えても、敵がやってきて盗み出されるからだと思います。

教会も地域にある霊的扉を閉めなければならないと思います。特に、街の霊的管理人である教会は、先ほども話しましたが、街との関連性が強くありますから、街の罪は教会の罪であり、同時に、教会の罪は街の罪にもなり得る、相互の関連性があるからです。街全体のために、教会は悔い改め、街全体の悪しき扉を閉める責任が教会にはあります。悪霊に対する扉を閉めて、教会が聖霊の油そそぎを求めるならば、油は奪われません。油を売って負債を払い、契約書を無効にすることができるはずです。

 

霊的債権者がやってくる最も大きな理由は、何度も語っていますから、よく分かっていると思いますけれど、「偶像礼拝」です。偶像礼拝は三代、四代にも渡って責め立てられる契約です。

聖書は神々(悪霊)と契約を結んではいけない、と告げています。

 

『あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。』(出エジプト記二十三章三十二節)

 

偶像礼拝は、個人で行うものではなく、街全体、共同体によって維持される行為であり、国全体のものです。それらに関わると、悪魔と契約が交わされることになります。その契約書は、三代、四代後まで有効だと聖書は告げています。

神に対する悔い改めはなされていても、悪魔と結ばれた契約書という側面を理解している人は、案外、少ないです。神の前に罪は赦されていても、依然として、悪魔に責め立てられるのです。契約書を無効にするのは、人生の中で、最も大切ではないかと思います。

偶像礼拝の契約書が残っていたら、それらを「無効にします!」という宣言の祈りをしましょう。一人ひとりが、年間に一度は、ヨム・キプールのように、霊的領域の点検として扉が開いていたら、閉めるという事を意識する事は大切です。

家族の中に開かれている偶像礼拝の門が閉められて、天の門が家族に開く為に必要なのは、偶像礼拝の罪の悔い改めとともに、悪魔と結ばれた契約を断ち切る事です。

 

人間は、「霊・魂・肉体」の三つの領域からできていると聖書は告げています。

肉体の中に魂と霊が住んでいるような感じがしますが、実際は、魂も霊も、肉体をはるかに越えて、世界規模・宇宙規模、さらには、霊の世界にまで及ぶ存在です。この三つが一つになって、人は存在します。霊的な罪は偶像礼拝です。これは宇宙規模の悪魔の働きにリンクしています。その扉を閉めることによって、人は大きく解放されます。

次に、魂に関わる悪い扉、

 

『怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。』(エペソ人への手紙四章二十六〜二十七節)