主の復讐の年 〜やり返し攻撃しよう!〜

2022年5月21(日)新城教会牧師 上條実

イザヤ書 34章8節

『それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。』

ハレルヤ!主の名を心から賛美いたします。今日皆さまとともにみことばを学ぶことができますことを心から感謝します。

まず、いつも私のためにお祈り下さり心から感謝します。二千二〇年の十月に手術してだいぶ経ちますが、守られておりますことを心から感謝いたします。つい最近も診察に行きました。診察の二時間前に行って、検査があり、また診察時間も予約時間よりもだいぶ遅れて待たされました。そしてやっと診察になりましたら、検査のデーターを見て「特に変わりありませんね。じゃあ次回の診察はいつです」なんて、そんな感じで、病院行くだけで、時間がかかり大変疲れましたが、守られていることを感謝しております。

また家内の病のためにもお祈りいただき、感謝いたします。今は少し調子が悪い時ではありますが、何とか自宅で療養しておれますことを感謝いたします。ぜひ私たちのために続けてお祈りいただければ幸いです。

 

また三月十四日に、なんと我が家に九人目の孫が生まれました。次男の所に、「うたな」という名前の女の子が生まれました。

 「うたな」という名前の意味は、本当は漢字で、「謳」という「うた」字と「名前」の「名」から付けたそうです。この「謳」というのは、難しい字ですが、こんな意味があるそうです。「多くの人が揃ってほめたたえること」という意味があり、人生を謳歌するという意味があるそうです。そして「名」はイエスキリストの名という意味がある。イエスの名をほめたたえる子どもになってほしいという意味があると説明を受けました。この「うたな」のためにお祈りください。この謳という字は、人名漢字にはないので、ひらがなで「うたな」と付けたそうです。

この名前はうちの次男が付けたのではなく、奥さんのほうが考えました。次男は付けさせてもらえないそうです。なぜかというと彼に一番上の長男が生まれたとき次男は名前を考えて「これにしよう!」と言ったのがどんな名前かというと、彼は二十歳の時にアメリカに渡って、ドック・パウエルという有名なギターリストの弟子になってプライベートレッスンを受けました。そのことがあったから今があると思うのですが、次男はドック・パウエルから名前を取るということで、「上條ドック」と付けようと言ったそうです。もし孫がそのような名だったら?要らないことですが、私は漢字を考えて見ました。。

 英語じぁなぁと思い「読」?「濁」?「独」?とか、また今はキラキラネームもありますね。「犬」でドックとか、考えました。もう一つ考えました。「上條毒」

こんな漢字だったら、学校でいじめにあいそうだと思いました。奥さんが必死になって抵抗して、奧さんが考えて今の「大聖」(たいせい)と名付けました。それ以来名前をつけさせてもらえないそうです。今は四人の子どもを小学校四年生を頭に、一番下は乳児ということで、毎日忙しくやっておりますので、祈っていただければ幸いです。

 

さてこの数週間、イエスキリストの十字架の死についてみことばが語られております。

今まで私たちは「復活」というのを強調しておりました。イエスさまの十字架の死は、敗北のようにとらえていたかもしれません。しかしイエスさまの十字架の死は大勝利。十字架の死という武器は、私たちを生かす力だと学びました。詳しくはぜひホームページから、メッセージをお読みください。すばらしい恵みを頂きます。先週のメッセージ後では、皆さんとともに「イエスさまの死を宣言します!」敵に向かって宣言しました。今日もこの「イエスさま十字架の死を宣言します!」と、今日も皆さんでご一緒に宣言しましょうか。「イエスさまの十字架の死を宣言します!」アーメン。主に拍手を送りましょう。素晴らしいみことばを感謝します。

 

この新城教会は今年で七十二周年を迎えます。七十周年、二〇二〇年は、皆さんどんなテーマか覚えておられますか?「宣教七十周年2020 明日に向かって 将来と希望」という喜びのテーマでした。そし二〇二一年、覚えていますか?去年のことですけど、「七十年が満ちた2021 〜回復と再建の年〜」こういうタイトルでした。そして今年は、二〇二二年、〜2022年〜 「それは主の復讐の年」というタイトルでみことばを頂いています。今回私も「主の復讐の年 〜やり返し攻撃しよう!〜」というタイトルでみことばを学んでいきたいと思います。実は今年の三月にほぼ同様のメッセージを語らせていただいていますが、祈りの中で今回、教会全体にシェアーしなさいと、教えられ、今日も語っていきたいと思います。

 

私たちの敵が知らない間に「人」になっています。「あの人が…」とか、私たちは人を敵としてしまっています。しかし、聖書はエペソ六章十二節に、

 

『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。』

 

私たちの戦いというのは、暗闇の支配者、天にいる諸々の悪霊に対するものだということで、私たちは人ではなくて、悪魔悪霊に対して戦っていかなければいけないということを教えられております。今日復讐は人ではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものだと知り、悪魔悪霊に復讐をして行く必要があります。

つい最近、素晴らしいみことばを与えられました。それは有名なみことばですが、二歴代誌七章十四節〜十六節のみことばです。

 

『わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。』

 

このみことばが与えられました。私たちが自らへりくだって、イエスさまの名前を呼んで、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、悪い道から立ち返るなら今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。とあります。へりくだってイエスの名によって祈り、立ち返るなら『この所で』というのは、教会であり、また皆さんの自宅であり、皆さんが祈る場所で、主はあなたの祈りに目を留めてくださり、耳を傾けてくださる。というのです。

私は私のような祈りでも主が目を留めてくださり、耳を傾けてくださる。本当にハレルヤ!感謝し、このみことばを受け取りました。

 

またこの十六節の所では、

 

『今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。』

 

とあります。『この宮』というのは、教会であり、また皆さんです。こんな罪深いものを選んでくださって、そして滅ばなければいけないのを、十字架の死によって私たちは大勝利に導いて下さる。私たちは選ばれて聖別されている。そして、わたし(主)の目とわたしの心は、いつもそこにある。とあります。あなたとともにいて下さる主です。

 

私は自分の心の中が寂しくて、苦しい時があります。家内の病の現状を見ると悲しく、早く癒されないかなぁと、つぶやいてしまう時があります。しかし主は『わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。』とあるので、私のような者にも目を留めてくださり、イエスさまの心はいつもあなたとともにあると教えられました。感謝です。そんな中、ある朝、私が目覚めたときに、以前「床の上賛美」をしましょうと学びましたが、はっきりと私の心の中にざわめきの5.5のCDの中にあります「勝利の宣言パート2」という賛美が巡ってきました。歌詞を出します。

 

♪勝利の宣言パート2

僕らは今 宣言をする 闇に対する勝利の宣言

この国から暗闇放り出す 主のみ名の勝利の宣言

天と地を造らなかった神々は

地からも これらの天の下からも滅びる

 

これは子どもたちの歌だと考えてしまいますが、とても重要な賛美です。今年のテーマ「復讐の年!」の賛美だと知りました。そして心に「復讐しなさい。復讐しなさい。」と迫ってきました。しかし「復讐のためにいつも祈ってるよ。」と思ったのですが、復讐しなさいと強く迫って下さいました。「復讐」というのは、意味が分かっているようで、わかっていなかったと覚え、辞書を開いてみました。「復讐とは?」

 

※復讐とは

報復、仕返し、復讐とは、一般に不当なひどい仕打ちを受けた者が相手に対して行うやり返す攻撃行動の総称

 

とありました。私はこれを辞書で見た時に、ハッと気が付きました。不当なひどい仕打ちを受けた者が相手に対して行うやり返す攻撃行動だと教えてくださいました。「やり返す攻撃行動」をしなさいと教えてくださいました。

今までの祈りは、神さまから認められた祈りに、答えを下さる。祝福をくださるものだと思っていました。日本のことわざに「棚からぼた餅」という言葉がありますが、「苦労なく思いがけずに幸運に出会う」という意味であるらしいのですが、こんな感じですよね。

 上からぼた餅が落ちてきて、ちょうどその下にいて口でうまくキャッチできるという、まれな状況。ちょうと良い位置にいた時にだけキャッチできるような気がしていました。しかし復讐は違う!「復讐」は、「報復、仕返し、復讐とは、一般に不当なひどい仕打ちを受けた者が相手に対して行うやり返す攻撃行動の総称」だ。やり返す攻撃行動を仕掛けなければもらえないと教えられました。「待っていて人生は何も変わらない」だから「やり返す攻撃行動」をしなさいと教えられました。

「主よ、助けてください。助けてください。解決してください。」という祈りだけではなく、復讐。「やり返す。攻撃行動をしなさい。」主が語ってくださいました。勝利の宣言パート2の賛美を歌いながら、「そうだ!やり返さなきゃいけない!」と教えられ、祈る中で「今日出かけて行きなさい」と促しを受けて忙しい中でしたけども、瀧川副牧師に依頼して、私の父の生まれた設楽町津具というとその周辺を復讐、やり返すために、祈りに出かけて行きました。私と家内だけでなく滝元家を考えても、滝元順牧師の奥様、享子先生の病いのために、また滝元望家の長男、寛太君のことだとか、今まで痛めつけられて来た所を復讐するというために祈りに出かけて行きました。また他の叔父・叔母の家族の所も苦しんでいるところがあるので、復讐のために出かけて祈らなくてはいけないと思い、父が生まれた実家、そしてその上にある滝元家が建てた石仏や祠、また今、滝元家が住んでいる津具の大桑という所の家やその大桑の所に地域の人が祀っている観音堂のためにとりなし復讐の祈りをささげました。その観音堂の中を覗きましたら、大きく私の従兄弟の名前が書いてあって、祭られていました。そこで滝元家を代表して復讐の祈りをしました。今まで祈ったことはありましたが、「復讐」目的で祈ったことはなくとても恵まれた時を持つことができました。

 

そしてその次の礼拝は瀧川充彦副牧師が「砦に帰れ。神は我らの避け所。また力」というタイトルでメッセージを語って下さいました。開かれたみことばで、詩篇四十六篇一節に、

 

『神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。』

 

『われらの避け所、また力。』という、その「力」ということばは、字のごとく力であるけども、この言葉を調べてみると「prevail」「プリペール」という意味があるそうで、ある思想や考え方というものが最終的に成功するprevail「プリベイル」とは最終的勝利だ!と言うことができると彼が語っていました。攻撃に出かけて行った、その次の週の礼拝で語られたので、主の時だとみ名をほめたたえ、私と新城教会のみことばとして受け取りました。今まで不当なひどい仕打ちを受けた教会の問題や滝元家の問題や病。特に私の家内の病のためにこのみことば詩篇四十六篇一節、