誇る者は主を誇れ

パウロが遣わされた最大の目的は、自分が多くの人にほめられ、人気を得るためではなく、「福音を宣べ伝えることだ」と宣言しています。
そして今ここにいる私たち一人ひとりにも、主から託されているのは「福音宣教」ということを忘れてはなりません。私たちは、この、福音を宣べ伝えるという目的によって、一致できるのです。そして、そのために大事なことの一つは、集まることだと思います。同じ主を見上げ、賛美し礼拝する。これが一致の第一歩ではないでしょうか。

今日、多くの方がここに集まり、共に礼拝をしています。体の不調や様々な事情で、また新型コロナウイルスの感染を心配して来られない方もいらっしゃると思いますが、「教会に集うこと」はとても重要なことです。

一般的な会社では、リモートが主流となりつつあります。東京の取引先の、ある出版会社には社員が三十名ほどいて、コロナ前は二十名くらいが会社に常駐していましたが、先日、営業に行くと、そこにいたのは、社長と副社長と事務員が二人のたったの四名だけでした。会議や報告はほとんどリモートで、自宅から営業に行き、そのまま家に帰るという体制のようです。それで業績が上がれば経費が節約できて会社にとってはいいかもしれません。
しかし、教会に集まるというのは、会社に行くのとは違います。ただ単に、メッセージが聞けるということではありません。ネットでもメッセージは聞けます。教会に行って、誰かと話ができるから行く、という場所でもありません。もちろん交わりは必要ですが、教会は主を賛美し、心より主を礼拝する場所です。神さまは、主の宮に私たちが集まることを願っておられ、教会という特別な空間をつくられたのだと思います。順先生も言っておられたように、多少リスクがあるかもしれませんが、五月には、コロナウイルスも感染症の分類が第二類から第五類に引き下げられ、必然的にオープンになりますから、恐れずに教会に来てください。一つとなって主を心から賛美し礼拝していく時、力を受けることができます。

また、「誇る者」という意味の中には「頼る者」という意味も含まれています。人は、誰かに頼りたい、誰かに寄り添ってほしいと考えます。
人は時に、成功して金持ちになったり称賛されたりすると、何か自分ができるかのように思い、また人の世話にならなくても自分の力で生きていけるかのように錯覚してしまう時があるかもしれません。しかし人間は皆、知らず知らずのうちに、日々の生活において多くの人に助けられて生きています。そして、誰よりも、イエスさまによって、生かされ、支えられていることを忘れてはなりません。
パウロは、コリントの人たちに対して、十字架の福音を私たちに示し、救いを与えてくださった神の愛が一番重要であり、それこそが神の力で、あなたはその偉大な神の愛によって選ばれて今ここにいることを語っています。

『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。』(一章二十六~二十七節)

皆さんに「あなたの誇れるものは何ですか」と質問したらどう答えますか。

「誇る」を辞書で調べると、「自分の才能や個性、また業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持ち」とありました。皆さんの中にも優れた才能や強い力を持っている方も多くおられるでしょう。それも一つの誇りであり、誇りを持つことは決して悪いことではありません。むしろ、人は何らかの誇りがなくては生きていけないとも言われます。
しかしパウロは、あえてガラテヤ人への手紙六章十四節で次のように語っています。

『私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。』

ここでパウロは、「十字架以外に私たちに誇りとするものがあってはならない」と、はっきりと宣言しています。
皆さんの中には、「私は何もできません」「私には誇るものが何もありません」と言う方もいらっしゃるかもしれません。本来人間は、弱い者です。だからこそ、主はあなたを選んでくださったのです。コリント人への手紙第一 一章二十八節で、パウロは主の思いを代弁して語っています。

『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』

そうです。私たちは、何もない、何もできない者だということを悟り、それを知ったからこそ今ここにいて、神さまの恵みにあずかっています。取るに足らない何もできない者を、あえて神さまが選んでくださったのです。
自分が、どうしようもない罪人の頭であることを認め、そんな私のために十字架にかかり、死んでよみがえってくださったイエスさまを、まことの神さまと信じた時から、私たちの人生は百八十度変わり、向きを変えて新しい人生を歩んでいます。
初めはクリスチャンを迫害する者であったパウロは、コリント第二の手紙で、キリストを信じたことによって、数えきれないほどの試練に会い、耐えられないほどの圧迫を受け、死を覚悟するほど苦しい状態に陥ったと言っています。しかし、苦しみから救ってくださった主をあがめ、なおも望みを抱き、苦しみの中でも誇る必要があるとしたら、「私は、あえて自分の弱さを誇ります」と語っています。
皆さんも、大きな試練に遭ったりプレッシャーに押しつぶされそうになったりする時に、自分はなんて弱い者なんだろうと感じる時があると思います。私もそうです。でもそんな時こそ、イエスさまの十字架を仰ぎ、弱さを誇る者とならせていただきましょう。そして、私たちが今生かされているのは、イエスさまの死によるのだということを覚えていただきたいと思います。

私は、カウントダウンにおいて、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』から、主人公の永野さんがキリストの十字架を誇りとし、自分の命をかけてキリストの愛を実践して主を証ししたことをお話ししました。しかし、この永野さんも、初めは「耶蘇教なんか信じない。キリスト教なんか信じない」と言っていた方でした。皆さんにも同じように、イエスさまに背を向けていた時があったのではないでしょうか。でも、そんな時にも神さまは私たちに愛を注ぎ続けてくださり、み手を伸ばし続けてくださって、今イエスさまを信じる者とされています。ローマ人への手紙五章六~八節には、こうあります。

『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』

私たちのために、罪の身代わりとなってくださったイエスさまを、そして、そのイエスさまを信じることができていることを感謝し、それぞれの人生を通して主を誇り、キリストの愛を実践していく者となりたいと思います。

先々週、上條先生が素晴らしいメッセージを語ってくださいました。そのテーマのみことば ゼパニヤ書三章十四節を見ますと、先生は新改訳2017版を使ってメッセージを語っておられましたが、私は第三版を読むことが多いので、この箇所を、2017版と第三版で比較してみたいと思います。
2017版では、
『娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。』
一方、第三版では、
『シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。』

初めの部分は同じなのですが、最後のところが少し違います。上條先生は、このところから、心の底から喜び躍る者とさせていただきたいと語られました。同時に私は、第三版にあるように、心の底から主の勝利を叫び、主の勝利を誇る、そのような年とさせていただきたいと、この箇所を読みながら思わされました。

実は、先週一つの夢を見ました。若い頃は夢を見ることはほとんどありませんでした。でも年を取って眠りが浅くなったのか夢を見ることが多くなりました。でも朝起きると、どんな夢だったかなぁと内容はほとんど覚えていないのです。夢だけでなく、実生活でも物忘れが多くなりましたが…(笑)。
でもその日は、夢の中で「イエスさまは最高だ!」と叫んでいて、そのまま目が覚めたので、ずっとその言葉が頭の中を巡っていました。前の晩、メッセージの準備もあってコリント人への手紙をずっと読んでいたのですが、いつの間にか寝てしまいました。この夢を見て起き上がって主の前に祈った時、パウロがコリントの教会の問題に対して指摘した、今日のテーマである「誇る者は主を誇れ」の意味は、どんな時にも主を誇りとして「イエスさまは最高だ!」と証しすることだ、ということを教えられました。
人間的な誇りではなく、主に選ばれているということを誇りとして、イエスさまの贖いを賛美して、「イエスさまは最高だ!」と喜んでこの年を生きていきたいと思います。

もう一つ、みことばをお読みします。

『主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。』(エレミヤ書九章二十三〜二十四節)

パウロはコリントの人たちに、二つの手紙を通して、私たちの人生からイエスさまという存在を除いたら、誇れるものは何もないということを語り、また今を生きる私たちに、「誇る者は、イエスさまに出会ったこと、イエスさまを知っていることを感謝して、イエスさまの十字架の死を誇りなさい。そしてイエスさまが最高だと賛美しなさい」と語っているのではないでしょうか。
私たちは、何も持ってはいなくても、主はすべてを持っているお方です。私たちは何も知らなくても、主はすべてを知っているお方です。そのことを認め、どんな時でもただ主に拠り頼み、主と共に生きる時、主のみ名があがめられると私は信じています。

最後に今日のみことばをもう一度、お読みします。
コリント人への手紙第一 一章三十節
『しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。』
私たちは「神によってキリスト・イエスのうちに」今ここに存在しています。続いて、
『キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。』

私たちは人間的には本当に罪深い者ですけれども、主によって贖われ、主によって召され、主によって選ばれました。イエスさまは神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられ、私たちを救ってくださったのです。

三十一節
『まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』

私たちには、主を証しするという目的があります。『誇る者は主を誇れ』のみことばをいつも心に留め、「私たちにはイエスさましかいない。この方以外に救いはない!」といつも主の十字架を仰ぎ、主を愛し、主は素晴らしいと宣言して、この二〇二三年を進んで参りたいと思います。
私たち一人ひとりが主に選ばれていることを誇りとし、どこまでも主に頼るなら、主は責任を持って私たちを導いてくださいます。
赤ちゃんからお年寄りまでいろいろな人が集まっていますが、誰も不必要な人はいません。それぞれキリストの体の一部分として神さまが集めてくださって、この教会に属しています。大勢いる私たちは、主にあってお互いに認め合い、争うことなく、一致してまいりましょう。その時に、キリストの教会が建て上げられ、さらに成長し、主の栄光を現すことができると、私は心から信じています。ハレルヤ!

一言お祈りさせていただきます。