誇る者は主を誇れ

2023年2月5日(日)新城教会牧師 岡本信弘

コリント人への手紙1章30〜31節

『しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』

ハレルヤ! 主のみ名を心から賛美します。こうして皆さんのお祈りに支えられて、この場所にもう一度立てることを心から感謝します。
今、後藤姉のピアノ演奏を聴くことができました。私は楽器が全くできないので技術的なことは分かりませんが、目を閉じて聴いていて、心洗われる気持ちになりました。素晴らしい演奏を心から感謝します。

さて、皆さんにとっての昨年二〇二二年は、どんな一年でしたか? 新城教会にとっては、まさしく激動の一年でしたね。多くの結婚式があり、楽しいことや嬉しいことも沢山ありましたが、一方では戦いの年であり、苦しみ、悲しみを経験した一年でもありました。
そして二〇二三年が始まり、早一カ月が過ぎました。このままあっという間に二〇二三年が終わってしまうのではないかなと心配になるくらい、時がたつのは早いですが、今年に入ってからも、新型コロナや戦争の影響は大きく、身近なところでは、食料品などがびっくりするほど値上がりしています。私は、老人ホームのための食材などを仕入れに行ったりするのですが、行く度ごとに値段が上がっているのに驚かされます。どこまで上がるのでしょう。また皆さんも直接感じていることと思いますが、電気料金が大幅に上がっています。
先日、北海道の豪雪地帯で暮らしているある夫婦二人の家庭で、先月の電気料金が一カ月十万円を超えた、ということがニュースになっていて、本当に大変なことだなぁと思いました。
私が責任を持っているプレイズでも、電気料金の値上がりは大きな負担となっていますが、それでも皆さんのお祈りにより、今なお支えられていることを心より感謝いたします。一般的に、設立されて十年以内に消滅する会社が約九十四パーセント、生き残るのは六パーセントと言われているなかで、一九九〇年に始まったこの働きを、三十二年間続けてこられたのは、ただただ主の恵みであり、皆さんのお祈りのおかげであると、心より感謝しています。

先月、何年ぶりかに関西にプレイズの営業で出掛け、いろいろ収穫があって感謝でした。その際、せっかく関西に行くのだからと、一麦西宮教会の下條先生をお訪ねしました。数年前に先生が大きな病気をされたと聞いて気になっていたこともあり、少しだけでも先生のお顔を見たい、お会いしたいと思って寄りました。
その前に、一軒知人宅を訪ね、先生はお一人でマンションに住んでおられて、教会には週何回か行っておられるだけだと聞いて、場所を教えていただいて伺いました。先生が出てこられ、すごく驚かれましたが喜んでくださり、どうしても「上がっていって」と言ってくださいました。玄関先でご挨拶だけと思ったのですが、あまりに誘っていただいたので、「では、少しだけ」と、お邪魔しました。いったん話を始められると、「新城教会はどう?」「順先生はどう?」と、先生が次々と質問をしてこられ、私が話をしたというより先生がしゃべりまくっていたという感じでしたが、そのお元気な姿を拝見して、とても嬉しくなりました。
三十年前に甲子園ミッションで一緒に戦わせていただいたわけですが、お話ししている間も、その時に持っていたリバイバルへの熱い思いが、今なお全く衰えていないなぁと感じて、すごく励まされたひとときでした。

さて、皆さんも、この二〇二三年がどんな年になるのかと期待しておられると思います。私もこの年に大きな期待を持っています。
カウントダウンで七名の牧師が語り、それがまとめられて先日朗読されました。「順先生、うまくまとめるなぁ」といつも感心します。メッセージの順番はくじ引きで決めるのですが、毎年「どうなるのかな?」とドキドキします。今回、私は二番目でしたが、つなげられた文章を聞いて、確かに神さまが決めてくださった順番だなぁ、すごいなぁと、すごく感動して、この年には神さまの希望があると感じました。みことばを信じて進んでいきたいと思います。

今年、新城教会では、「この地に植えられて七十年」がテーマとして掲げられています。年を取ると昔話が多くなると、順先生もよく言われますが、私も少し昔話をしたいと思います。
教会が新城に建てられて七十年たったと言われても、七十年前の新城教会を実際に知る人はここにはほとんどいないと思います。
先日、順先生が豊橋新聞の記事を紹介しておられましたが、一九五三年三月に、新城教会の前身である「設楽教会」が発足しました。そして、一九五六年五月に明先生が按手礼を受けて正式な牧師となったのです。
一九五六年がどんな年であったかご存じですか? それは、私の生まれた年なのです(笑)。五月に明先生が牧師となり、最初に洗礼を授けたのが私の母 岡本キヨでした。私は八月生まれですが、その一カ月前の七月に、母は桜淵で洗礼を受けたのです。これは余談ですが、その時母は、ずいぶん大きなお腹をしていたと思います。私は生まれた時、四千グラムありましたから。「大きかったですね」とよく言われるのですが、上條先生は四千五百グラムでしたから、私はそれより少しは小さかったのです(笑)。なので、私は洗礼を二度受けているということで、小さい頃、「あんたは二度も洗礼を受けたんだから、もっと信仰成長しないとね」と、よくハッパをかけられていました。
話を戻すと、その四年後の一九六〇年、この場所に赤い屋根の教会が建てられ、礼拝がささげられるようになりました。

七十年の間には、苦しい時期が多々あったと思います。初期のクリスチャンたちは、この因習の深い地で偶像と戦い、地域と戦い、家族からの反対と戦い、この教会の土台を築いてくださいました。
四十三年前には、この素晴らしい会堂が、そして三十一年前には教育館が建てられ、今、私たちは恵まれた環境の中で礼拝を持ち、交わりの場所が与えられています。これは初代のクリスチャンたちが戦ってくださった勝利のゆえです。そのことを決して忘れることなく、この恵みを感謝して、これからも礼拝を守っていきたいと思います。

さて、この年のために私に与えられたのは、コリント人への手紙第一の一章三十~三十一節のみことばでした。その箇所をもう一度、読ませていただきます。

『しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』

この箇所を皆さんは何度も読み、聞いたことがあると思います。私も何度も聞いていましたが、昨年末、この中の『誇る者は主を誇れ』というみことばが、ずっと頭から離れませんでした。そして、神さまは、またパウロは、私に何を語ろうとしているのだろうかと思い、コリント人への手紙全体を読んでいました。

カウントダウンでは、この書簡の背景を語る時間がありませんでしたが、今日は少し見ていこうと思います。
パウロは皆さんも知っているように、異邦人伝道に召されて、何度も宣教旅行に出掛けていますが、コリントも伝道地の一つでした。彼は、第二回伝道旅行でコリントを訪れ、一年半から二年近く滞在しました。当時のコリントは人口も多く栄えていて、パウロはそこで教会を建て上げていきました。そして、ある程度成長したのを見届けて、他の人に託して次の伝道地に行きました。
そして、第三回目の伝道旅行でアテネにいる時、このコリントの教会で育った信徒たちの何人かがやって来て、「今コリントで、たくさんの問題が起こっている」とパウロに告げました。それを聞いて、コリントのクリスチャンたちに書き送ったのがコリント人への第一と第二の手紙です。本当はその第一の前にもう一つ手紙があったとも言われていますが…。

この中で、今日のメッセージのテーマに挙げた『誇る者は主を誇れ』という言葉は、パウロがコリントの人たちに、そして今の私たちに対して語っている重要なことがあるということを教えられました。
今日学ぶのは特に第一章ですが、皆さんには第一コリント全体を知っていただきたいと思います。時々紹介される『バイブルプロジェクト』というYouTubeで配信されているものがあり、それを見ると全体がよくわかります。本当はここでお見せしたかったのですが、十分以上あり、それは長いなと思ってやめましたので、家に帰ってからぜひ見ていただいたらと思います。

要約すると、コリント人への手紙第一は、いくつかに分かれています。
一~四章では、分裂について語っています。教会は、特定の人があがめられたりするようなところではなく、常にイエスさまが第一であり、あがめられるべきだということを話しています。
五~七章では、性の問題を指摘しています。コリントの人たちは、不品行に対して無頓着でしたが、それは大きな罪であり、神の宮を汚すものだと忠告しています。
八~十章では、食べ物について書かれています。何が美味しいかということではなく、偶像にささげた肉と、神に捧げられる食物の違いについてや、食べ物のことで人につまずきを与えないように、ということなどが記されています。
十一~十四章は、メッセージでもよく語られますし、みなさんもよく読まれるところだと思いますが、聖餐式や賜物、また愛について書かれています。教会は人間のからだにたとえられ、多くの器官から成り立っていて、それぞれが重要な役割を担っているので、お互いを尊ぶように、そして、信仰・希望・愛、その中で一番すぐれているのは愛であると語り、キリストの愛をもって互いに愛し合うことを勧めています。
十五章では、福音を伝えるには、復活が必要不可欠だと、死と復活、さらに希望について書かれています。「死者の復活はない」と言っている人たちに対して、パウロは、キリストが復活されなかったのなら、宣教はむなしものとなる。
『死は、勝利にのまれた』と言い、復活は、死に対する勝利の希望であることを語っています。
そして十六章では、献金や働き人たちをねぎらうこと、最後に挨拶で結んでいます。

それでは、この書全体が、『誇る者は主を誇れ』というところに、どのようにつながっているのかを知るために、一章を詳しく見ていみましょう。
パウロは冒頭で、コリントの人たちに対して、一人ひとりが成長していることを認め、称賛しています。しかしその後すぐ、あなたがたの間に争いがあり「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストに」と言っている人々に対して、こう忠告しています。

『さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。』(コリント人への手紙第一 一章十節)

ここでは、「皆が一致する」ということを勧めています。皆さんの中には、ご自分の置かれているそれぞれの場所、家庭や学校、職場において、「一致するのは難しい」と思っておられる方もいると思います。
新城教会には七百名以上の教会員がいます。私たちは、主によって贖われここに集っていますが、人が増えればそれだけ問題も多くなります。当然ですが、赤ちゃんからお年寄りまで性別や年齢、生い立ち、十人十色と言われるように個性があり、生活様式も違います。そんな違うところだらけの人が集まるわけですから、一致するのは簡単ではありません。
人は、同じ目的のためには一致することができと思います。では私たちクリスチャンの目的は何でしょう。パウロは、争っているコリントの信徒たちに対して、はっきりと自分が遣わされた目的を、次のように語っています。

『キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(一章十七~十八節)