「主があなたの前を進まれます」

ちょうど、よく開かれるみことばですけども、コロサイ書二章十六〜十七節、

『こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは祭りや新月や安息日のことで、だれかがあなたがたを批判することがあってはなりません。これらは、来たるべきものの影であって、本体はキリストにあります。』

旧約聖書に描かれている出来事は、イエス・キリストを浮かび上がらせる影だと言うわけです。
 ここに「イエス・キリスト」と書いてあるのですが、背景の色とちょっと重なって読みにくい、イエス・キリストという字が見にくい。これを見やすくする手法として、影付きの文字にするという方法があります。
こういうふうに文字に影をつけると、文字が背景から浮き上がって見えるようになるのと同じようです。旧約聖書をよく調べていって、そこで起きた出来事、様々な法則、暦も含めて新約時代にイエスさまがなさったわざが、実は神さまが計画された私たちを救うための働きであったんだということを見つけやすく、よりはっきりと私たちに迫ってくるようになるということです。

このように、暦というのは大事だという事を今年になって色々と学んでいるわけですけども、新城教会に、七月九日という日に、神さまは様々なことを私たちに覚えさせてくださっている事を考えると、この業は人間業ではなくて、神さまがなさった業だと、神さまが「私がしたことだよ!」と、私たちにはっきりと分からせてくださる、ということではないかと感じさせられます。
これだけガッツリといろんな物事が同じ日に重なると、これらが一度に起きる確率はどのくらいなんだろうと考えたりするのですが、相当小さい確率だと思います。宝くじが当たるくらいの確率ではないかと思います。
神さまがそのようになさったから、私たちの中にそのような恵みが現されて、この心配事の多い、不安の多い一年間を通して、神さまがみわざを現され、今年になって半年間、回復と再建の業が現されていく中、苦しみからの回復・再建、またこれからの教会の歩みに神さまが前を進んで、私たちに現してくださる恵みの業を、信仰によって希望を持って受け取っていきたいと思うわけです。
これから、二〇二一年、後半に入っていくわけですけど、どんな実がそこで結ばれていくのかを楽しみにしていきたいと、神さまを信じる者に神さまが与えてくださる恵みを味わっていきたいと、そのように願わされています。

先々週は、SIRネットワーク代表の瀧元望先生からメッセージが語られました。そのテーマは被造物のうめきについてということでありました。
実に私たち人間の罪によって、私たちのみならず、全世界・全被造物はうめいているわけです。
先々週の土曜日、皆さんニュースなどでご覧になっていると思いますけど、熱海で大雨が降って大量の土石流が街を飲み込んで、多くの命が失われるという惨事が起きてしまいました。
その後の報道を見ていくと、土石流の原因に人の世の常であるお金の問題が絡んでいるのではないか、この災害は実は人災なのではないか、そういう報道もされています。所有者とか、その後で引き継いだ人とか、あるいは行政だとか、どこに責任があるのかと問題提起がされているわけです。被害者になった方々にとっては、悔やんでも悔やみきれないような悲惨な出来事であったわけです。うめきがそこにあります。
ここ数年来、毎年のように夏になると豪雨災害が起きて、多くの人々に苦しみが、うめきがもたらされているわけなんですけど、この被害そのものにも人の世の強欲が地球を壊している可能性があるわけです。
そうなると、これらの出来事の根本は、実は被造物を管理するはずの人間全体の罪の結果だとも言えなくはないということになります。人の罪は、美しい世界をダメにしてしまうような恐ろしいものであるのかもしれないです。
しかしイエスさまは、全人類、全世界、全被造物のために、十字架の救いを成し遂げられました。コロサイ人への手紙一章十九節、二十節をお読みしますと、

『なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

私たちが信じているイエスさまの救いの素晴らしさは、このみことばにあるように、私たちの行いとか努力とか、私たちの知恵が救いの条件などではなくて、ただ『御子によって』というふうに書かれていますけども、イエス・キリストを信じるその信仰によって罪の呪いが解かれ、神との和解が成立し救いが与えられるものだということであります。
ローマ人への手紙十章九節、十節を見ると、

『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』

人の努力や力、知恵ではなくて、本当に私たちが神さまを信じるその信仰、そしてただお一人の、み子のゆえに、私たちは救われる。今日まだイエスさまを救い主として信じることができていない方が、もしもいらっしゃったら、今あなたが信じることを決意して、イエスさまにお祈りするなら、その瞬間から、神さまの救いを受けることができます。
この信仰、この告白を私たちがどれほど語っても、語りすぎるものではありません。素晴らしい救いの訪れ、良き訪れを私たちは世界に語り継げなければならないわけです。人間の罪にまみれて混沌とした世界が回復していくためには、人間の力や知恵だけでは不十分であります。人間は容易に道を踏み外して、正しさを放棄して悪に身を委ねてしまうからであります。

イエスさまが十字架にかかられるその前の日に、最後の晩餐がもたれました。そこでイエスさまは弟子たちと最後の食事、過越の食事をとられて、そこでこの過越の意味を新しい契約として弟子たちの前に示されたわけです。それは神の子・救い主のからだと血に預かる新しい契約だとイエスさまは言われました。これが今私たちが受けている聖餐式です。その聖餐式を弟子たちと一緒に守られた翌日に、イエスさまは十字架の苦しみを全うして人の罪の贖いを成し遂げられました。私たちがサタンに勝利し死に対して勝利する道を、イエスさまは十字架によって開かれたわけであります。
 十字架の贖いは旧約聖書の中に描かれている過越の子羊の犠牲による贖いを影とし、イエスさまご自身が全人類、全被造物の贖いのための犠牲としてご自分をささげられた、そういう離れ業を成し遂げてくださったわけであります。私たちが信じる信仰です。

二十九年前、七月九日に神さまが新城教会に突然霊的戦いを開いてくださいました。そして今年二十九年が満ちて、そして三十年目に入る今日まで、霊的戦いの祈りは止むことなく継続されてきました。その間新城教会で、霊的戦いの領域は広げられ様々な所に祈りがささげられて深まり続けてきたわけです。新城教会に神さまが与えられて導かれた一つの使命であります。
ガラテヤ人への手紙三章二十六〜二十九節、

『あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。』

イエスさまがただ一度十字架の贖いを成し遂げてくださったことを通し、イエスさまという神の子お一人によって、全人類、全被造物が救われたということです。そこにはユダヤ人もギリシア人も奴隷も自由人も、男も女もない、このイエス・キリストによって私たちが神の子となった。『みな、キリスト・イエスにあって一つだからです。』と書いてありますけども、私たちが受け取った祝福というのは、今読んだ二十九節の所に、『あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。』という風に書かれております。このアブラハムは、イエスさまが生まれるよりも二千年ぐらい前の人でありますが、神さまによって選ばれ、イエスさまを後に生み出すイスラエルの始祖となった人であります。
神さまはアブラハムを召される時に、「あなたによって全世界が祝福されますよ!」と約束されて、アブラハムが神さまを信じる者になったことが書かれております。
今読んだみことばの中に、「キリストものであるならば、あなたがたはアブラハムの子孫です。」と、書かれております。これはイエス・キリストを信じることによって、アブラハムに約束された祝福を、私たちも受け継ぐという、ある意味神さまのファミリーの戸籍に名前が記される、そういう状況になったことを意味するんです。
この場所にも、イエス・キリストがなされた救いと、旧約時代のアブラハムを通して神がこの全世界を祝福されるという、その祝福の約束がシンクロしていることを見ることができるわけです。アブラハムの末から生まれたイエス・キリストを通して、全世界が祝福されるものとなった。その祝福を私たちも受け継ぐものとなったと書かれてあるので、私たちもその祝福の源となることができるということを意味しているわけです。
実に霊的戦いの勝利の鍵はここにあるわけです。私たちが信仰の告白によって与えられた神の子どもとしての立場、そこに私たちが立って、そして信仰を告白して、この地に祝福をもたらす源として、それぞれがそれぞれに遣わされている領域に出ていくことが私たちに与えられた神さまからの祝福であって、また使命であるわけですね。
そのために私たちは、神さまから祝福された者として、祝福された家族の一員として加えられて、こうして信仰生活を守っているということができるわけです。
ですから私たちが救われ、こうして神さまの前に集って礼拝を守ることができるのは素晴らしいことであるわけですけど、今度は与えられた祝福を持って、この世に出て行き、神さまの祝福をそれぞれの領域に宣言していく、その責任があるということであります。これが霊的戦いであります。

先週、四日の主日礼拝では、順先生が素晴らしいメッセージを語っておられました。四十年の荒野での生活を終えて、約束の地カナンに入ろうとヨルダン川を目の前にして宿営していたイスラエルに分裂の危機が襲ったわけです。ルベン族とガド族がカナンの地の中ではなくて、手前のヨルダン川東岸地域、ここに肥沃な土地があるのを見て目を奪われ、使命を放棄をして、「俺たちをこの場所に住まわせてくれ。ここを私たちの譲りの地としてくれ。」とモーセに訴えたわけです。神の民のために戦うことを放棄して、自分の利益に向かって進もうとしていたルベンとガドに、モーセは激怒したわけです。
この四十年の荒野生活が始まる原因となった、カナンの地を前にして四十年前に一度、イスラエルの民はそこに攻め込もうとしたけど、その時に「カナンの地に住む人々は私たちよりも強いから、私たちはそこに入って行くことは出来ない!」と言って戦いを放棄したことがあったわけです。その時神さまは怒りを向けられて、「おまえたちは四十年間荒野で彷徨うことになる。」「おまえたちが虜になると言っていたおまえたちの子孫が、このカナンの地、約束の地に入ることになるんだ。」という事を言われて、四十年間の荒野の生活を経て、もう一回、このカナンの地に踏み込もうとした時に、ルベンとガドはその土地に目を奪われて戦いを投げ出すような事を言ったわけですよね。
私たちに与えられたクリスチャンとしての使命は、そのような、途中で投げ出してはいけない。最後まで戦い続けていかなければいけないということをメッセージの中で語られましたけども、本当に教会の歩み、歩んでいる時、私たちはその時その時のことしか分かりませんので、先のことはわかりませんので、本当にその時を一生懸命過ごしていくわけですけども、でも振り返ってみると神さまの恵みをそのように見ることができるということを、今日はこの教会に、去年から今年にかけて、神さまがなさってくださった業を振り返る時に見ることができるとお話ししました。