主を迎える心

私は教会員にいつも言います。「とにかくみ国の建設のためにがんばろう。教会というのは特別な所だ。だから成長する。」GROW、「Grow up」と英語で言いますね。「G」は何のGか。私、教会員に言います。「Go to church」、どんなことがあっても教会にいらっしゃい。
マルチン・ルターはペストがヨーロッパで大流行して、ヨーロッパで三分の一の人が死んだ時に、命がけで教会に来るように、その代わり換気しましょう、手を洗いましょう。ルターはそうしながら伝道していたと言うのです。教会というのはすごい所なのです
ちょうど宝があった畑のように、深く掘らないとその宝は出て来ないのです、深く掘ったら宝が出てくるのです。皆さん、この近くでショッピングセンター、一番大きいのはどこでしょうか。ピアゴですか。まぁそこそこ大きいですね。私の家の近くにはでかいイオンもあります。皆さんそういう大きなショッピングセンターに行って、今日聞いてみてください。「愛は売っていますか?欲しいのですが?希望と喜びと真理が欲しいのですが、どこにありますか?」案内係の方に聞いてみてください。この方は頭がやられているな?と思われますから。ないんですよ、皆さん。愛も喜びも真理も自由も平和も、そこにはないのです。教会にあるのです。教会というのはすごい所なのです。世の中に無いものが教会にはあるのです。愛があって、自由があって、希望があって、素晴らしいものがたくさん入って、案外来ている私たちがそれを知らないのです。だから皆さん、私たちは深く掘ってみましょう。悔い改める時はきちんと悔い改める。神さまを本当に仰ぐ時は仰ぐ。賛美する時は真剣に神さまだけを見つめて賛美する。宝が見つかります。

「R」は「Read the Bible」、聖書を読みましょう。聖書というのは皆さん、神さまのことばですね。神さまのことが書いてあるのです。英語で神さまのことは「God」と言います。ドイツ語では「Gott(グゥード)」です。私はスウェーデン宣教師に導かれました。神さまのことを「Gott(グット)」と言います。
語源は何でしょうか。ゲルマン民族の西ゴート族のウルフィラという人が、ある時聖書を訳しました。ギリシャ語では神は「テオス」とか「ゼウス」と発音します。そのテオスを彼はどう訳そうかと思いました。「麗しい方」とか、そういう意味もあるのですが、彼はこう考えた。テオス(神)では分からないから、「語りかけるお方」というふうに訳した。それが「グス」という言葉です。「God」の語源というのは、「語りかけるお方」、神さまはあなた方に語りかけていますよ!一人ひとりに語りかけるお方ですよ!それが神なのです。
そのことばが聖書なのです。聖書の言葉を通して、神さまはあなたに語りかけています。「さぁ勇気を出しなさい。立ちあがりなさい。希望を持って歩きなさい。」聖書は私たちにいつもチャレンジします。「時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えなさい。」
光の話をさっきしました。光の速度はものすごく速いのです。あなたの心をちょっとだけでも神さまのほうに開けたその瞬間、光が入ってきます。暗い部屋で、雨戸も全部閉めていたら真っ暗です。でもちょっとだけでいいのです。ちょっと開けたら、そこに光が入るのです。光というのは太陽から地球まで届くのは八分十七秒と言われています。月から地球までだと一瞬で届くのです。その速度は一秒間で地球七周する、それぐらい速いのです。同じように、神さまはあなたが心を開いたら、あなたの心にものすごいスピードで入ってくる。みことばを通して。

それからGROWの「W」はちょっと難しい。「Witness」証しです。神さまを証していきましょう。福音を、またイエスさまのことを宣べ伝えていきましょう。
時間がないから最後、GROWの「O」は何のOかと言うと、「お祈り」一つだけ日本語なのです。

 皆さん、私たちは滝元先生この手を覚えていますよね。東京ミッションの時にこういうポスターを作りました。お祈りの手です。祈るとはどういうことかというと、「神さま私は何もいたしません。」手を組むと、何もできません。顔を洗い、運転することもできません。「何もできません。あなたに百パーセント信頼します。」これが祈りなのです。

オー・ハレスビーという人が「祈り」という本を書いて、おそらく「祈り」という本の中で最も良い本だと言われています。そのハレスビーは、神さまを動かすことが祈りではないというのです。「神さま、私は何もできません。」それが祈りだと言うのです。一つ、主の前に跪いて祈っていきたいと思います。
そうは言っても教会も難しいところがあります。みんなバラバラ、考え方も右に行きたい、左に行きたい、私はまっすぐ行きたい、戻りたいという人もいるし、でも私たちは一致していく。

これも甲子園ミッションの時にいろいろな所で話しました。我々には血液型がある。「火事だぞ!」という時に、一番先に行動するタイプは何型かというと、だいたいB型の人が多いと言うのです。B型の人は何人いますか?B型の人は自分の世界があるのです。なかなか人は入れない世界がある。ユニークだというのはB型の人が多いのです。「火事だぞ!」という時に一番先に逃げる、時々自分の子どもを置いて逃げてしまうことがある。危ないタイプですね。
どうしても一歩遅れるのはA型だと。A型の人、相当いると思います。日本人はA型が多いです。遅れるのです。考えてしまうのです。「あ!預金通帳!」とか。それから取る物は取って逃げる。でも統計学的に言うと、A型は預金額は少ないと言われています。
その次はO型です。この方はリーダーとして最高だと言われている方です。自分の命を顧みず、「皆さん、逃げましょう!こっちですよ!」と言って、人々に声をかけて導いていく。ただO型の欠点がある。「考えないで行動する」というのがO型なんですって。
最後に残った、開先生ですけれども、AB型ですよ。AB型、これは最悪の型と呼ばれています。全部終わってから、「何かありましたか?」と聞くAB型だと言うのです。よく言うとおっとりしている、心が広い、幅がある。そういうタイプ。
でも教会はいろいろあるでしょう。だから一つのことを目指すといっても大変なのです。すぐバラバラになる。でもそんな時、みんな神さまを見上げるのです。そうすると一致していくのです。キリストにあって皆一つだと、聖書に書いてあります。キリストにあって一つなのです。
私たちは今コロナの時代で大変です。私もいろんな教会を回りますが、どの教会の礼拝も少なくなって、回復していません。なかなか難しいです。三年間来ない人はもういいかと思って来なくなると言うのです。
ですから本当に辛くても来ている人は、やっぱり信仰が持続するのです。「オンラインで礼拝してくださいね」と言います。けれども私、必ず、「オンラインで礼拝している時にベッドやソファに寝ていないでください。同じように立ち上がって、同じように座って、そして神さまを賛美して、家でもそのようにしてください。」こうお勧めします。なかなかそうはいかないのです。やっぱり物を食べながら礼拝するとか、そうなってしまいがちだと思います。それだと信仰がなくなってきます。ですから皆さん、やっぱり心を神さまに向けるのは、教会に来ることが一番いいと思います。看護師さんとか病院に勤めていたり、介護施設に勤めているとなかなかそれができないけれども、それでも祈りながら、お互い祈りながら、主を見上げていきたいと思います。教会というのは助け合いながら行くところですね。私たちは皆さん、真剣に捉えていきたいと思います。

この間、私、東南アジアを回ってきました。びっくりしました。やっぱり東南アジアでも大きな教会、五百人ぐらい来ている教会でも、五十人ぐらいとか会場の中に人がパラパラの状態でした。でも皆、真剣です。何とかしないといけない!と、我々日本の教会以上に彼らは真剣に考えています。一生懸命伝道しています。中でダメだったら皆で外に行って伝道しよう!ということで、路傍で伝道しています。
日本はどうでしょうか。神さまがあなたをご覧になった時、「あなたはわたしのために何をしてくれた?わたしのために犠牲を払ってくれたか?あなたはいつも自分のため、自分、自分、自分、と考えていなかったか?わたしはあなたのために命を捨てた。あなたは何をしてくれるのか?」神さまは、あなた一人ひとりに問われると思います。

暗闇の中でも私たちは希望を持つことができます。以前リバイバルミッションの一つの集会で話した話で終わりたいと思うのですが、五十嵐健治という人がいました。この方、白洋舎というクリーニングを作った方です。日本で初めてドライクリーニングを考えた方です。この五十嵐健治さんは熱心なクリスチャンではなかった、いい加減なクリスチャンでした。たまに教会に行って、たまに聖書を読んで、一応洗礼は受けた。バプテスマは受けていたけれども、燃えるようなクリスチャンではなかった。
ある時、銀座四丁目を歩いていたと言うのです。そうしたらそこに日本聖書協会の本部があるのですが、その前を通りかかった時に、彼は一枚のポスターに釘付けになった。それはマック・ファーソンという人のポスターでした。マック・ファーソンは炭鉱夫でした。ある時、ダイナマイトを、葉っぱを仕掛けて事故に遭い、彼はダイナマイトで体ごと吹き飛ばされました。両手がなくなってしまいました。両目は失明しました。一瞬にして両耳も全く聞こえなくなったのです。目が見えない。耳も聞こえない、手は吹き飛ばされた。でも彼はクリスチャンでした。それまでそんなに熱心ではなかったのですが、お母さんがいつも聖書を読んで聞かせてくれた。そのことを思い出すのです。暗闇の中で、今どうなっているかも分からない。手もない、目も見えない、耳も聞こえない。そういう状況で、でも聖書を読んでみたい。点字の聖書を読もうにも手もないわけです。そこで彼は考えるのです。闇の中で、たった一人の中で、「私には舌がある。」舌で点字を読む訓練をしました。読めるようになったのです。
そのポスター、五十嵐さんがそのポスター、マック・ファーソンのポスターは点字を舌で読んでいるポスターだった。それを見た時、感動しました。「あぁ、私の信仰はいい加減だった。彼のように真剣ではなかった。」それから彼は悔い改めて、一生懸命伝道しました。
自分の白洋舎の工場の中に教会を建てました。そしていろんな宣教師たちをサポートしました。牧師たちをサポートしました。一生彼は人々と教会に仕えて、主に仕えて、そして天国に帰って行きました。マック・ファーソンのように、例え暗闇の中でも光を信じる。彼は真っ暗闇の時、いのちの光が入ってきて、彼の心は輝いていった。

皆さん、今、暗い時代ですね。けれども、光はあります。「わたしは世の光です。」この方以外の光はないのです。この方にはいのちがある。いのちの光です。生かされていきましょう。歩んでいきましょう。
今、本当に私も大きなショックを受けて、悲しみの中にあります。でも享子さんが私たちに願っていたことは、彼女の生涯はずっと私、見ていたけれど、多くの人々が神さまを見上げてほしい。そういう願いでずっと生きてきたと思います。もちろん順先生もそうですね。だから皆さんも、神を見上げて、主を見上げて歩んでいっていただきたい。そう思います。一言お祈りをいたします。

ハレルヤ、イエスさま、感謝します。二千年前、あなたは光となって、この地上に来てくださいました。私たちの心を照らすために、私たちを生かすために、命を与えるために、文字通りあなたは命を捨てて、私たちに永遠のいのちの扉を開いてくださいました。永遠のいのちを感謝します。どうぞ一人ひとりに、神さまの豊かな祝福が注がれますように。私たちの心を今、あなたに向けます。どうぞ、あなたのその細いみ声に、あなたの声に、心のダイヤルをきちんと合わせることができるように、いろんな雑音が入ることのないように、あなたにピタッと波長を合わせることができるように、お導きください。今日来られた皆さんの上に、神さまの豊かな祝福が注がれますように、お祈りをいたします。主イエスさまのみ名によってお祈りします。アーメン。