このみことばです。このみことば、どうして与えられたかというと、このみことばが与えられたのは昨年のことでしたが、ある朝、このみことばを読んでいたら、まず詩篇を毎日読むようにさせていただいているのですが、詩篇を読んで、その日の順番に読んでいる旧約聖書の一箇所を読みました。そうしたらミカ書のみことばでした。一章三~四節のみことばでした。

『見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。山々は主の足もとに溶け去り、谷々は裂ける。ちょうど、火の前の、ろうのように。坂に注がれた水のように。』

先ほどの詩篇のみことばと重なっているのです。『山々は主の御前に、ろうのように溶けた。』そしてこちらでも、『山々は主の足もとに溶け去り、』主ご自身が帰って来られる姿というものが、ここで記されていて、そのような中で神さまが、「主は王だ」という賛美を本当に突然、ぽんっと与えてくださいました。神さまご自身が、「私は王として帰って来る!」という宣言をされているんだなと、そんなふうに感じた、そんな時でした。

詩篇九七篇の最初は、『主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。』と書かれているので、王である主ご自身を、私たちがお迎えする時に、どうしていかなければならないかと言ったら、やっぱり本当に喜びを持って賛美して礼拝して主をお迎えする必要があると思います。
それと共に、今、全被造物がうめいて、主の訪れを待ち望んでいるとローマ人への手紙の八章の中から何度も学んでいますけども、大地が主の訪れを心から待ち望んで、本当にうめいている。でもまもなく主が来られるということは、被造物も私たち以上にきっと肌で感じているのではないかなと思います。
結婚した娘は、昨日、「いや、ワクワクしてきた!」と言っていたのですが、なんかその言葉を聞いて、なんだかこの大地そのもの、被造物そのものも、イエスさまがまもなく来てくださる、花婿なる主をお迎えするというその前で、今一番ワクワクして、「イエスさま帰って来てください!」というふうに思っている時期なのではないかなと思います。
ですから、私たち被造物に「主を賛美せよ!」と言っていますけど、もう私たち以上に被造物自体がきっと賛美しているのではないかと思うのですが、でも反面彼らはうめいているので、この地上でかけられた悪しき呪い、人間の罪によってかけられてしまった呪いを解く権威は、やはり被造物の管理人である私たちに与えられているので、それを解きます!という祈りと共に主を賛美しなさい、「イエスさまがまもなく帰って来られる!」と、小躍りして喜ぶ、この地も谷も、何もかもが主を喜んで待ち望んでいる、そのような中にあると心から信じていますので、私たち一人ひとりも主を心から喜びを持って待ち望む、そのような者でありたいと心から願います。
王なる主ご自身が、まもなく帰って来てくださる。素晴らしいですね。そのような中に私たちは生かされていますので、被造物と共に、イエスさまの訪れを心から待ち望んでいきたいと思います。

終わりの時代というのは、様々な困難な事が重なって、コロナの問題もそうですし、今のウクライナ・ロシア情勢の中に見る戦争の問題も、この終わりの時代の姿が聖書に書かれている預言が成就して、どんどん大変だと、なんか苦しみに苦しみが重なっている、そんなイメージがあるのですが、しかし神さまが語っておられるのは、「主の帰られる道を備えよ!」というみことばがあります。イザヤ書にもありますし、そしてバプテスマのヨハネも主の道を備えるために彼が働いたという、そんな記事があります。
ですから主の道を備える働き、先代の預言者たちから、聖徒たちから、私たちの信仰の先輩のお一人お一人が、主の道を備え続けてきています。そして備えられて、備えられた時に主が王として、この地上に帰って来てくださるので、現実的に目で見えるところ、霊的な領域でも、戦いは激しい中にありますけども、しかし主の道は各日に備えられ続けている。山は低くされて、谷は埋められて、凸凹道はまっすぐにされて、主の道がまっすぐに、今整え始められていると思います。
だから本当にこの地球そのものが疲れ果てて、もうどうにもならなくなって主をお迎えするのではなくて、主が帰られる道が備えられた中に主が帰って来られる。そういった信仰を持って、被造物がワクワクして、地は小躍りして喜ぶほどに主を求めて、主を賛美してお迎えする、その信仰を持って私たち歩み続けていかなかったらいけないのかなと、そんなことを今回の学びの中で教えられました。

そして、それと共に、主の帰って来られる、その主ご自身のみ姿というのは、すごく厳しい、裁きの主としての姿をここで見ることができると思います。もう一度、詩篇九十七篇三~六節をお読みします。

『火は御前に先立って行き主を取り囲む敵を焼き尽くす。主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく。山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る。』

と続きます。
ですから、神さまご自身、イエスさまご自身の帰られる姿は本当に王としての絶対権威を持って、この日本の王、私の王、世界の王として帰って来られるわけですけど、しかしその主ご自身は、裁きの主として敵を打ち破るための働きを成し遂げるための主として来てくださいます。
今年は、新城教会にとって与えられているテーマが「復讐の年」ということですけど、復讐の神としての働きが進められている。それが今のこの時であると信じて、祈り続けて、戦い続けていきたいと思います。詩篇九十四篇一節に、こんなみことばがあります。

『復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。』

神さまご自身は、その敵に対して復讐する。そのようなお方だと言うのです。今日のテキストのみことばは、詩篇九十七篇ですが、詩篇九十三篇から九十九篇までが、「王の詩篇」と呼ばれるパートらしいです。ですから「主こそ王だ!」ということが書かれています。まず九十三篇一節(新改訳2017)、

『主こそ王です。威光をまとっておられます。』

これはあえて二〇一七年版で読んでいます。私は第三版を基本的に使っているのですが、二〇一七年版は『主こそ王です。威光をまとっておられます。』と書かれています。第三版だと、『主は、王であられ、みいつをまとっておられます。』となっています。「みいつ」というと天皇を崇めるという意味になってしまうので、この中にも悪魔の策略があるなと思いますが、主は栄光をまとって、威光をまとって来られるお方なのです。
そして九十四篇が、先ほど読んでいただいた復讐の神ですね。そして九十五篇三節、

『主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。』

そして続く九十六篇十節、

『国々の中で言え。「主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく。」』

そして九十八篇九節、

『確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。』

そして九十九篇一節、

『主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。』

神さまを喜びを持って、心から喜びを持って小躍りして主を迎えるという、そういった反面、来られる主は裁き主として来てくださる。ですから私たち本当に主ご自身の訪れを、恐れを持って、主を恐れた思いで、心で、お迎えしていかなかったらいけないと、本当に心から思われます。
主ご自身が激しい憤りと共にこの地上に、特に敵に対して憤りをなし、でもその敵と契約を結ぶ罪そのものに対して、私たち一人ひとりがその罪を握りしめている時に、そこに対しても主は憤りを向けられるお方なので、主のみ前に本当に血潮を仰いで、進んでいかなかったらいけないと思います。

ですから主は王だ!地は小躍りして喜ぶ。そして山々が溶け去る。これはミカ書にも書かれていた同じみことばですけど、ろうのようにダラッと溶けてしまう。だからこのいわゆる被造物の山々が主を賛美するという、そういった一面ではなくて、高ぶりという山というか、本当に罪の山そのものが主の憤りによって溶かされる、そのようなわざがなされると、そのことを信じて、主を待ち望む者でありたいと心から願います。
そしてその王なる主ご自身の働きですけども、その主ご自身の働き、やっぱり本当に小躍りして喜ぶ働きをしてくださるお方だということを信じて、この終わりの時代に主の道をさらに備えて、主の帰られる道を完全にするための働きについていきたいと思います。

先週の日曜日は、復活祭礼拝で、特に私たちの使っている太陽暦とユダヤの暦が一つになって、偽りの復活祭ではなくて、真の復活祭をお祝いすることができました。そして、さらに先週の礼拝最後には、エルサレムの日の出を初めてカウントダウンで迎えて、ここでして、何とも言えない感動を皆さん同じように感じてくださって、本当に良かった!と、口々にいろんな方々が仰っていましたけど、イエスさまのよみがえりを本当に心から喜んでいきたいと心から願います。

今回、順先生が語ってくださったみことばの中で、私すごく心に響いたみことばが、マタイの福音書二十七章五十節~五十三節の、イエスさまご自身がご自分で主にその命を渡された時の事です。

『そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。』

このみことば、すごいみことばだと、何度も語られてはいましたけども、イエスさまご自身のよみがえりの力というのは本当にすごいということを先週学びました。復活の力の素晴らしさ、病を癒すというだけではなくて、死人を生き返らせるという、ラザロの死人に至るまでに生き返る働き、そしてそれだけではなくて、イエスさまが生き返った時には多くの聖徒たち、もう死んで骨になっている聖徒たちが生き返って都に入ってきて多くの人に現れる。すごいみ力が解き放たれたわけなのです。その主ご自身を私たちは王としてお迎えしていきたいなと心から願います。
弟子たちはその一部始終をずっと近くで垣間見ていました。イエスさまの働きを「イエスさま、すごいことするな!よみがえられた!すごいな!」と、思っていたのにも関わらず、そして弟子たちの所に、イエスさまはよみがえられたことをはっきりと示すために、まず一度現れました。それでもまだ信じなかったりした人がいたので、また現れて、「わたしだよ」と示されました。二度と現れたのにも関わらず、弟子たちは何をしたかというと、ヨハネの福音書二十一章三節に、こんなみことばがあります。

『シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。』

弟子たちは故郷ガリラヤに帰って行って、元の仕事に戻って行って、「イエスさま、よみがえったみたいだけど、やることないから、また漁に行こうか。」と言って、元の仕事に戻っていくのです。「私はもう漁に行く。」すると他の弟子たちも、「私たちも一緒に行きましょう。」行って、そこで大きな祝福を受けたかと言ったら、その日は何も取れなかったということなのです。
でもイエスさまが現れて、その言葉通りに右側に網を下ろすと、二十一章十一節、

『シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。』

神さまはよみがえりの主ご自身が現れた時には、すごい大きな祝福が溢れました。

全く違う話をするのですが、昔、私は、小さな子どもの頃は、この辺はもっと田舎だったので、野山を駆け巡る、そんな毎日を過ごしていました。そしてなおかつ、毎日がひもじいというか、毎日お腹空いているなと感じて過ごしていたので、野山に行って何をするかというと、食べられる物を探し求めるのです。だから、「これは食べられる」と、今では絶対食べないような雑草、雑草をそのまま食べるわけではなくて、「これは食べられるよ」みたいな物を食べたり、山栗を取ったり、あけびを取ったり、本当に食べる物を求めていました。
そんな中で一番よくしたのが魚捕りでした。半場川という川に行って、私は本当にしょっちゅう行っていました。学校から帰ってたった一人で素手で行くのです。素手で行って、魚の居そうな所に手を入れてゲットして、それを竹の笹に刺して、そしてまた川上に上がって、また捕って、そしてそれを持って帰って、天ぷらにして食べるみたいな、そんな生活をしていました。
でもある時、網をゲットして、そして網で誰かと一緒に取りに行きました。それで四つ網という網でやったら入るは入る、いっぱい入って、その日いっぱい捕れました。喜んで帰ってきて、ここの教会に帰ってきて、それで何匹いるだろうかと数えました。その時に数えて何匹いたかと言ったら、なんと百五十三匹でした。そんな思い出が子どもの時にあって、その時にうちの父が言ったのかどうか分からないですけど、「聖書の魚の数と一緒だ!」とか言って喜んでくれたのですが、神さまご自身があの子どもの時に与えてくださった「網を下ろせ」という、その祝福が、今このよみがえりのイエスさまと共に、さらに現されていったら、どんなに素晴らしいことかなと、そのように思わされます。
イエスさまがこの時に現れたのは、もう三度目だったと書かれているので、三度目にしてペテロたちは主に従いました。ヨハネ二十一章十七~十八節、