天が裂け、主の霊注がれ

イエスさまはご自分が十字架にかかってエルサレムで死なれるということを分かっておられて、その中でも、でもそのゴールが見えていても、だからそこから逃げるのではなくて、今日も明日も進み続ける!と言っておられます。様々な戦いの中で、主は進み続けることを今日も私たち一人ひとりに語ってくださっていると信じています。

そして九月に入って、最初に語られたみことばが、「さぁ仕事に取りかかれ!」という、神さまからの宣言のようなみことばでした。私たちも一人ひとりが仕事に取りかかるための働きというのがなされていったのではないかと思います。
最初に、私たちはHiraku&Norikoの働きで、加古川バプテスト教会に行かせていただきました。すごく祝福が、行く度に広がっていて、新しい会堂も建てられて、こんな会堂での集会でした。

 素晴らしい恵みで、Hiraku&Norikoの賛美と、地元のバンドとも一緒に賛美しました。そこでこの教会の入口に入ると、一つの習字で書かれた字がありまして、それがこのみことばなのです。

『あなたは祝福となりなさい。』

創世記十二章二節のみことばでした。『あなたは祝福となりなさい。』私たち一人ひとりが祝福の源であり、その祝福を今度は人に与えるための祝福の存在だという、そういうみことばです。これは2017年バージョンのみことばですけども、初めてその会堂に入って、会堂を案内していただいた時に、最初に目に入るみことばがそのみことばなのですが、その時家内に、神さまがふっとみことばを語ってくださったと言うのです。このみことばだったそうです。詩篇百二十八篇四節、

『見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。』

行く度に、確かに祝福が広がっている姿を見るのですが、でも確かに主を恐れた時に、その祝福というのが注がれるんだということを語ってくださったわけですけど、私たちも仕事にとりかかり、主の祝福を広げるために、主の働きを前進させるために、主を恐れて進み続けていきたいと思います。

そしてまた私たちがこの戦いを主に従って、「悪魔に立ち向かったら悪魔は逃げ去ります」というみことばが二度に渡って語られました。そのような中で、主を恐れて、サタンに立ち向かっていくときに、主の勝利が現されます。

そしてまたこの九月に「情熱を持て」というフェルナンド先生のメッセージ、熱かったですね。素晴らしかったですね。
次の日でしたかね。事務所に私がいたら娘が来ました。それで娘と一緒にちょっとした仕事をしていました。そうしたらフェルナンド先生が私のブースの隣なので、娘がフェルナンド先生に何と言ったかというと、「いや~昨日のメッセージ素晴らしかったです!」と言いました。
そうしたら、フェルナンド先生、何とおっしゃったかというと、「あれは自分に対して語ったことだ。」ということをおっしゃいました。「情熱を持て!おまえたち、冷たいから熱くなれ!」と言うのではなくて、「自分に語った」、本当に神さまのことばというのは、そういうものだなぁと、すごく教えられました。
主からの情熱、主が与えてくださる。これは私たちが持とうと思って、頑張ろうと思って持てるものではなくて、聖霊さまの働きなので、そのように主からの情熱を持って進み続ける者でありたいなぁと、本当に思っています。

そして九月に入って、Zawamekiの東京大会と関西大会というのが、九月十七日と十九日に行われました。本当に久しぶり、東西での集会ということで、九月十七日は、二十一世紀キリスト教会、本当にそこにおける神さまの働き、素晴らしい恵みがいつも溢れています。
 そしてまた加古川バプテスト教会で十九日に行われたのですが、それぞれの教会に何か共通しているのが、「ここに神さまいらっしゃるな」と感じるのです。会堂に入って、「あぁ、主がここにおられるなぁ」と、すごく感じる、そんな印象があります。神の国が、何気なくここにある。これが主だなと。
一生懸命、すごく祈っておられます。だから加古川バプテスト教会では毎週土曜日、早天祈祷会があります。何人くらい来ていますか?と聞いたら、だいたい九十人前後だと言うのです。しかも結構若者が来て、うわーっと祈っています。やっぱり熱いですね。でもそこの参加人数がだいたい比例して礼拝の人数に反映されるというのです。だからそこの祈りが熱くなると礼拝も祝福されるというので、是非近くの方、一緒にここで土曜日、お祈りしていただいて、来られない方はそれぞれのご家庭で、ちゃんとアラームを六時前にはかけていただき、一緒に祈っていただければいいのではないかなと思います。
ただ、それぞれに共通するのは、何と言うか、本当に神の国、主ご自身がおられるというのが、無理がないというか、喜びというか、力みがないというか、「神の国よ、来てください!!」というのがうめきではないというか、本当にその喜びがそこにあるなぁということをすごく感じます。

この写真はZawamekiの関西大会、その加古川での集会でした。本当にたくさんの人たちが、本当にいっぱいの人、この時も台風十四号が直撃で、その時、着いた時には加古川は暴風警報、大雨警報、波浪警報みたいな、三つ四つ出ていて、携帯のアラームがあちこちで鳴っているような中だったのですが、だからご近所の皆さんも来られないような中、新城からバスで参加してくださり、でも守られました。奇跡的でした。
そして結局集まってくださった人が、向こうの方が調べてくださった人数からいくと、百七十九名の方が来てくださったと言うのです。いや~、すごい主の祝福でした。
そしてなぜかその時、お願いもしていなかった一人の男が現れました。

 上條頌君、私たちが行く途中の車で、「俺今日行くけど」と、突然LINEが入って、彼が予定していた大阪の大きなコンサートホールのコンサートが台風で中止となり、でもその日に限って、なんか神戸で美容院に行くと言って、この写真の彼、神戸仕込みの頭なのですが、「だもんでさ、それ午前中で、昼からだら?行くで。」と、彼が来てくれて、彼も一緒に賛美してくれて、とても大きな喜びの祝福でした。こんな大きな恵みが注がれましたけど、主の大きな祝福であったことを心から感謝します。

もう一つみことばを読みます。エペソ人への手紙六章十八節、

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』

こんなみことばがあります。私たち主の戦いは、やっぱり忍耐も必要ですし、忍耐の限りを尽くさなかったらいけないというのが、主の戦いの一つの条件なので、本当に苦しい中でも前進し続ける。そのことがとても大切だと思います。
でも本当に忍耐しているなぁという人たちに、実は先週の木曜日に出会いました。それは誰かというと、彼らです。

 これが先週の木曜日の授産所の辻森君です。T君、Nさん、Jさん、そしてH君。みんな、とてもいい顔をしているのですが、もう三年ぐらい、教会に来たくても来られません。本当に忍耐の限りで、でもその中でも祈り続けて戦い続けて、じっとその場所にいて、この笑顔というのはありえないなと思います。自分だったらそれを一日二日で投げ出してしまうのではなかろうかと思うのですが、そんな中、Tくんに「今一番祈ってほしいことは何?」と聞いたら、「礼拝に行きたい」と言うのです。「教会に行きたくてうずうずしてる!」と、もううずうずしながら三年ですよ。本当に神さまの前に忍耐の限りを尽くして、彼らも祈って戦っています。是非、主のみわざがさらに大きく広がって、彼らも共に賛美し、礼拝できる時が来るように、お祈りしてあげていただきたいと思います。
H君は、「もうすぐだ!もう間もなく!すぐに行ける!」と、彼は信仰の告白をしていました。本当に彼の信仰の告白通りのことが起こされるように、是非皆さんも引き続きお祈りください。

そして今日のテーマのみことばですけども、もう一度お読みします。マルコの福音書一章十節、

『そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。』

イエスさまがバプテスマを受けられた時に、「天が裂けた」と書かれています。他の聖書の箇所には、「天が開かれて聖霊が鳩のように下った」というふうに書かれていますけど、マルコはそうではない表現で、開かれた以上に天がバリッと裂けると言っております。主の訪れというのは本当に激しいものなのです。でもだからと言って、私たちのただ中にあるのがそのバリッと裂けるほどの祝福が、私たちの中にあるというのを神さまは語っておられるのかなと、そのように強く感じております。
同じマルコが、イエスさまが今度は十字架にかかって息を引き取られた時の事を、このように書いています。マルコの福音書十五章三十八節、

『神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。』

このようにこの十五章の中で言っています。イエスさまがこの地上での福音宣教の最初は、天が裂けて、みたまが来られて、そして救いを完成されて、ご自分の命を天の父なる神さまにお委ねした時に、何が起こったかと言ったら、今度は神殿の幕がビリッと裂ける。神殿の幕の奥には、今日も「祭司」という話がありましたが、大祭司のみ、しかも年に一度、人間は罪人なので子羊の血を携えて、贖いの血を持ってそこに入らないと、主、神さまの前に立つことができなかったのが、イエスさまが死んでくださったことによって、その神殿の幕がビリッと、しかもこれが上から下まで真っ二つに裂けた。上から下まで、下から上ではないのです。下から裂くのではなくて、上からなので、バリッと主が裂いてくださるという働きをなしてくださった。それが聖霊さまご自身の訪れで、それを完成してくださったのが、主イエスさまですけども、そのような主の働きが今、私たち一人ひとりの中に始まっていると信じて、進んでいきたいと心から願います。

主が訪れる事ということが、聖書にはたくさん出てきていますけども、詩篇にはこんなみことばがあります。百四十四篇五節、

『主よ。あなたの天を押し曲げて降りて来てください。山々に触れて、煙を出させてください。』

ここは本当に主が降りて来られる時に、以前ここで「主は、王だ。」というみことばを語った時に触れましたけど、山々が溶け去るほど、サタンの力、悪霊どもの力が溶け去るほどの働きがなされる。私たちの信じている神さまは神さまなので、「このことはできるけど、このことはできない」という方ではなくて、全能なる方ですので、私たちが持たなかったらいけない神さまへの信仰というのをもう一度、このコロナを経て持ち直さなかったらいけないのかなと、そんなふうに思っています。何かがあるから、特別な経験があるとか、賜物があるとか、能力があるとか、企画力があるとか、人間的なものがあるから神さまの素晴らしさが現されるのではなくて、神さまは神さまなので、神さまは神さまご自身の素晴らしさを現すというお方、その方が私たちの所に来られるということがどんなに素晴らしいことかと私たちは進んでそのことを信じて進み続けていかなかったらいけないと思います。

最近与えられたみことばの一つに、とても激しいみことばの一つが与えられました。申命記二章二十四節、

『立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。』

これはモーセに対して語られた言葉ですけども、イスラエルの民をいよいよカナンの地へと導く中で、戦って出発せよ!長く止まっていたから向きを変えて出発しなさい!と、そのように主は語りました。でも出発したその先には敵がいるわけですよ。でも敵がいるからと言って、私たちはじっとしているのではなくて、占領し始めよ!彼と戦いを交えよ!と、そのように言っています。
でも「私にはそんな戦い戦いと言われたら疲れるので、ちょっとそれ無理です」と考えられる人、たくさんいるかもしれないですけど、続く三章を見ると、このように書かれています。三章二十二節、