<動画 聖書における霊的存在 Intro to Spiritual Beings>

いかがでしょうか。本当にうまくできていますね、

三千年以上前の人たちの考え方って、現代人とは、全く違いますね。古代の人たちは、天体を完全な「生きもの」として捉えていたのです。
どうでしょうか。現代において、空を見上げて、天体を完全な生きものとする人は、まず、いないと思います。
しかし聖書は、太陽は昼を治める生きもの、月は夜を治める生きものとして描いています。
創世記一章十六節、

『神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。』

聖書時代の人たちは、太陽を見上げれば、「でかい生きものが空にいるなぁ!」と理解したわけです。しかし私たちには、象徴的表現としか受け取れません。
聖書の民は、太陽を「生き物」と捉えましたが、「神ではない」と理解していました、それは神の栄光を現す役割として、昼を治る巨大な生きものと理解していたのです。

日本人はどうでしょうか。太陽を「神として」拝んでいます。日本の国神は、アマテラスと言われ、伊勢神宮に祀られています。日本の国旗を見ればよく分かります。
するとどうなりますか。太陽は神が創られた被造物で、生きものならば、太陽はうめいて悲しむはずです。そして本来、太陽が持っている昼間を治める機能は、失われてしまうのです。
また夜、星を見上げたらどうですか。多くの人たちは星占いに走ります。本来は、私たちに良い影響を与えるみ使たちは働けなくなります。本来の機能が、悪霊どもに奪われてしまうのです。
月だってそうです。日本神話で月は「月読尊」として、神となっています。月を拝んだら、月は悲しみます。夜を治めようとしても、治めることができなくなります。その結果、夜に様々な事件が起きやすくなるわけです。
現代人は、いかに聖書の視点と違っているのかが、よく分かります。

神はエデンの園を創られたのですが、エデンの園とは、どのようなものでしょうか。創世記二章七節〜八節、

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きものとなった。神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。』

原文を日本語に訳す場合、情報が削がれます。ヘブル語や英語のほうが情報が多いです。
例えば『神である主は東の方のエデンに園を設け、』という部分を英語で見ますと、

『And the LORD God planted a garden eastward in Eden; and there he put the man whom he had formed.』

神である主はエデンという街なのか、地域なのかは分かりませんが、その「東の方に一つの園」を創りました。園とは、庭、畑とも訳すことができるそうです。
私たちは「エデンの園」と聞くと、一つの大きな塊をイメージしますが、ちょっとニュアンスが違います。
「エデン」とは「歓喜」という意味です。街はニムロデから始まりましたから、街と呼んではいけないかもしれませんが、高い山の上に「歓喜の地域」はありました。神はその地域の「東の方に一つの園」を植えられたのです。英語では「a garden」となっています。ということは、他にも園がある中の一つに、人を住まわせたのです。
エデンはどうして喜びの地域であったのかと言うと、「天と地が接している場所」であったからです。
神は天と地を創り、互いに独立して機能するのではなく、互いに接して機能するように計画されました。天の生きものと、地の生きものが、神と共に、互いに交流できる場所、それが「エデン」でした。
そんなすばらしい世界を、神は創られたのです。神は、天の生きものと地の生きものが、神と共に話し合いながら、最良の場所を作り上げたいと願われたのです。
しかしその場所は、あまりにも自由度が高かったゆえに、反逆が起こってしまったのです。

さて、イエスさまの時代、人々はどのような空間認識を持っていたのでしょうか。エデンと天と地が接する部分、それが「神殿」であると考えていました。
 私たちは今日、会堂に集って礼拝していますが、古代の概念では、会堂は、天と地が互いに交わる「特殊空間」でした。教会に集う重要性は、旧約聖書の概念を重ねると、天と地が交わる場所であるからと言えます。
しかし新約時代になると、私たち自身が神殿となるのです。イエス・キリストを信じる者は、その人自身がエデンを形成するのです。
コリント人への手紙第一、三章九節でパウロは、『私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。』と告げています。それはエデンであり、神殿である事を意味します。
三章十七節では、

『もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。』

私たち自身が、エデンと同じ機能を持つ神殿、喜びの街となるのです。
さらに神は、この歓喜の領域を、地球規模、宇宙規模に広げたいと願われています。それが天と地を創られた、神のプロジェクトなのです。

新約聖書の最後の部分、ヨハネの黙示録を読みますと、天の新しいエルサレムが地上に下りてくる情景が描かれています。やがて歴史の時間軸の延長線上に、神の国が下りてくる日が来ます。それがいつかと言うと、イエスさまが地上にお帰りになる、再臨の日です。ちょっと気が遠くなる話です。黙示録では、それを「新しいエルサレム」と述べています。
ヨハネの黙示録二十一章二〜四節、

『私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。』

やがてその日が来ます。クリスチャンは、この日を実現するために、神と共に働く存在です。歓喜の街が完成するために、神の協力者として、同労者として働くのです。
神はこの働きに、すべての人が参加するように、招いておられるのです。神のプロジェクトを信仰の基礎に据えたら、毎日の生活が変わるはずです。

現代社会は中途半端に科学が進んだせいで、太陽を生きものとして捉えることができなくなりました。月も死の世界にしか捉えません。星々も同様です。本来神はすべての被造物に、命を与えておられます。
パウロが被造世界に関して、どのような世界観を持っていたのかについて、前回もお話ししました。

“パウロは地球が無生物の土とか石とか水とか及び植物からなる、ただの物質だとは考えていなかった。彼は地球には記憶があり、「選択する意思」に近い何らかの能力があると信じていた。おそらくその「意思」は現在私たちが知っている意思とは違うだろう。しかしローマ人への手紙八章には、地球が期待したり、虚無に服したり、うめいたり、その完成を切実に待ち望んでいるということを明確に示唆している。”

全て神が創られた被造物には意思があって、新しい天、新しい地が現れるのを待ちわびています。
神がヨブに対して、こんなことを語っています。
ヨブ記三十八章十二〜十三節、

『あなたは生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してあるべき場所を指し示して、これに地の緑をつかませ、悪しき者をそこから振り落としたことがあるか。』

朝、太陽を見たら、ぜひ、実行してください。ヨブが悪魔に訴えられた理由の一つは、本来人は被造物の管理人であるのに、それを怠ったゆえでした。主がヨブに現れて、「朝陽を見た時に、地の縁をつかませて、悪しき者を振り落とせと命じたことがあるのか。」と告げました。彼は命じたことはありませんでした。
私は最近、このような働きこそが、神のプランに加わる働きなのだろうと考えるようになりました。朝陽を見たら、太陽は生きものであると認識して、「太陽よ、地の隅をつかんで、悪者どもを振り落とせ!」と命じ、宣言してみてください。
つづいて詩篇百四十八篇を見ますと、二〜三節、

『主をほめたたえよ。すべての御使いよ。主をほめたたえよ。主の万軍よ。主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。』

人には天に存在する生物に対しても、主をほめたたえさせる役割が託されています。
神さまは何でもできるお方です。しかし、ご自分の権限の一部を人に委ねておられるのです。私たちは神さまから委ねられた権威を使って、欠けた部分を満たすのです。その時、祈りも、答えとなって天から降ってくるはずです。
時々、なぜ、祈りが応えられないのか、神さまはなぜ、動いてくれないのか、と疑問に思います。その理由は、神がご自分の権限の一部を切り取って、人に託しているからだと思われます。委ねられた権限を人が使うのか、使わないかで、天と地の模様が変わるのです。人が神のみこころを祈りによって読み取り、神の欠けた部分(人に託された権限)を満たす時に、祈りは答えとなって下ってくるのではないでしょうか。

同時にこの世は、霊的戦いの戦場です。BibleProjectでも描かれていましたが、バベルの塔から世界に人々が散らされただけではなく、「悪霊どもも共に散らされた」と言うのです。その結果、世界の国々は悪霊の支配下に陥ってしまったのです。
世界に散らされた悪霊と人、それはただの人ではなくて「ネフィリム」と呼ばれる存在でした。カナンの街々を支配していたのは、他でもなく、ネフィリムであったと言及されていました。
 カナンの地は、ネフィリムという、天使と人間のハイブリッドな巨人たちによって支配されていました。
聖書の記述って、おもしろいです。バシャンの王オグという存在が出てきますが、彼のベッド・サイズまで記録されています。それは縦が四メートル、横が一・八メートルでした。これぞ本物のキングサイズベッドです。縦四メートルのベッドに寝ていた巨人がいたのです。それらが強力な悪霊と共に、街々、国々を支配していたのです。イスラエルは、ネフィリムの支配するカナンの街々に攻め込んで、彼らを聖絶したのです。その戦いは、霊的戦いそのものでした。

世界に戦争があり、争いがあり、問題が多くあります。それらのルーツが理解できます。国々の長は、プーチンでも、ゼレンスキーでもないのです。悪魔・悪霊どもが国々の権威を持っていて、古代から現代に至るまで、ネフィリムと共に支配しているのです。
ということは、霊的存在をなんとかしない限り、世界に平和は訪れないのです。しかし霊的戦いを実行できるのは、他でもない、教会とクリスチャン以外にはないのです。
私たちに与えられている役割は、ことのほか大きなものであることに気づかされます。私たちは神の協力者であり、同労者、そして兵士です。その役割は「ちょっと手伝ってね」程度のレベルではないのです。神はご自分の壮大なプロジェクトの重要なポジションとして、主を信じる者たちを招いておられるのです。

そもそも人は管理人として創造されています。ゆえに、クリスチャンではなくても、知らないうちに、共創造の業に関わっているのです。

・共創造【co-creation】
共創造の基本的な考えは、世界に機能と秩序を与える創造である神が、「創造の働きの一部を人に担わせた」ということである。
人間は神と独立にではなく、神と「ともに」創造することを求められている。このような神との共創造は、クリスチャンだけに限られるものではない。神の創造のわざに参加する可能性は、意識しているか否かを問わず、すべての人に開かれている。

人は、そもそも、気づく気づかないに関わらず、神さまの共創造のわざに関わっているのです。芸術の世界なんか、まさにそうですよね。作曲したり、絵を書いたり、また、被造物を管理することを人は自然にやっています。
しかしクリスチャンの役割は、他者と決定的に違うのです。