かまを入れよ。刈り入れの時は熟した

二〇二三年、私たち新城教会が、幼子から、子どもたちから、中高生から、青年から、女性も男性も、壮年も、お年寄りの方も、すべての世代が主に自らをおささげして、主の勇士として立ち上がり、主の軍隊として集う総力戦というものを求めておられるように強く感じます。
新城教会、この教会というのはキリストのからだに例えられます。このキリストのからだ、教会全体が機能するためには、各器官である一人ひとりがが、すべての世代が、主の勇士として立ち上がらなければ機能しません。ですから、総力戦が必要なのです。

最近、つま先にはすごい役割があることを新しく知りましたので、皆さまと少しお分かちしたいと思います。
 つま先は、とても体の中で重要だというのです。体のバランスを取る役割があるというのです。皆さん、片足で立てますか?ではつま先を上げたまま、かかとだけで立っていられますか?やってみてください。意外にできるかなと思うのですが、できないのです。つま先は体のバランスを取るためにとても大切な役割を果たしているのです。

そしてまた歩く時には、足の指を使って、地面を掴んで前に進んでいくわけです。蹴り出して推進力を生み出していくわけです。足の指が強いということはしっかり歩くことができる。またそれは長距離を歩くことができるということなのです。

そして長い距離を歩くことができれば、体力が上がっていきます。つま先は、人間の体の生きる力につながっていくのです。
またそのつま先が強いと、何がいいかというと、扁平足が直って、土踏まずがしっかりでき、足の裏というのは体全体を支えるクッションですので、立っていても歩いても疲れにくく、体全体をしっかり支えることができるようになるというのです。
つま先にこんな大きな役割があるなんて、私は本当に無知な者で、知らずにいて、最近知ってすごく感動したのです。ある意味、このつま先の部分というのは、普段の生活の中で、私たちもあまり見ることもないですし、あまり「ここが頑張っている!」なんて感じることも、ほとんどないですね。しかしこの一つの部分、器官というのは、とても大切であるということです。そしてまた体に大きな影響を与える部分でもあるということを知ることできます。

このキリストのからだとして、私たち一人ひとりは各器官と例えられておりますが、教会のキリストのからだの中で、一人として必要ないという人はいない、どんな方も必要で、その機能を私たちがお互いに知ることがなかったとしても、一人ひとりは大切な存在であり、実は機能していて、一人の人がからだ全体を支えている、そんな機能を持っているという部分もあるということを皆様とともに覚えていきたいと思います。
その器官がたとえ、足の裏、私の足の裏はちょっと脂ぎっています。いつもしっとりしています。カサカサな人もいるかと思いますが、もいろいろな部分がありますが、その一つ一つが大切であります。そのことを皆さんと覚えていきたいと思います。
そして一人ひとりが主の勇士として立ち上がる時、どれほどの神さまの力が現されるかと期待させられます。そしてその一人ひとりの器官が機能することによって、体全体が支えられるということもあるということです。

私の息子が、宇宙に行くのが夢なのですが、ここ数年、家族で宇宙に興味を持っています。
 ISS国際宇宙センターというものが、地球の周りを回り、いろいろな研究がなされています。
最近も日本人宇宙飛行士候補者が二人選ばれました。外科医の女性の二十八歳の方、そしてもう一人は四十六歳の世界銀行に勤めておられる男性の方だということです。
宇宙は無重力、実際は少しだけ重力がある微重力という状況らしいのですが、宙を飛び回れるわけです。宇宙空間の中では。楽しそうですよね。
浮いているのですから、足をつかなくていいです。足を使わない。また重力がかからないので足に何の負担もかかりません。ですから足の筋力が一気に落ちてしまうそうです。そして足の裏がなんとツルツルになるそうです。ですから地上に降りた時に、筋力が落ちて、立てない、歩けない状況になってしまうので、宇宙飛行士の方々は毎日二時間、体力トレーニング、筋力トレーニングをしなければならないそうです。
 足の裏がツルツルになり機能を失ったら、筋力を失ったらどうでしょうか。地球に帰って来て、足を地面に着いたとき、そのままでは立ち上がることはできないと思います。体を支えられるか。支えることができないと思います。その足の裏の機能を、宇宙空間では果たしていなかった。役割を果たしていなかったゆえに体全体を支えることができず、歩くこともできない。そのように、からだ全体に大きな影響を与えることになります。
私たち一人ひとり、神さまから任された役割があります。使命があります。その一つ一つを忠実に行っていくということは、キリストのからだ全体に大きな影響を与える、大切な存在であるということをもう一度、皆様とともに覚えていきたいと、そのように導かれております。

聖書にまた戻りますが、では私たちが主の勇士として集っていく時に、私たちの主の勇士の力で勝利を得るのかというと、そうではないということです。第二歴代誌二十章十七節、

『この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』

またヨエル書三章十二節、

『諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。』

とあります。第二歴代誌において、「あなたがたが戦うのではない。わたしが戦う。この戦いはわたしの戦いだ。」と主が語り、主ご自身が勝利を与えてくださるわけです。
そしてまたヨエル書においては、「さばきの座に着く。」これは王座とも言っていいような座ではないかと私は思うのですが、その座から主ご自身が敵を裁かれ、勝利を与えてくださるということです。
私たち自身が主の勇士として、主の軍隊として立ち上がり集うということは大切なことだと示されていますが、私たちの力ではなくて、ただただ主ご自身の力によって勝利を与えてくださる。こんな素晴らしい約束が この二〇二三年に与えられているということを、皆さんとともに覚えていきたいと思います。

またその勝利を与えてくださる方法は、どのような方法か。第二歴代誌二十章二十二節、

『彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。』

ヨシャパテ王は戦いの前線に聖歌隊を置いて賛美をささげさせました。喜びの声、賛美の声を上げ始めた時に、主ご自身が伏兵を備えられて、そしてその伏兵がアモン人、モアブ人の人々を襲わせ、やがて同士討ちをさせるようにして、ユダの民は神さまの勝利をただいただくだけだったという、不思議な方法で勝利が与えられていくのです。
「伏兵」という言葉を見ると、「奇襲、不意打ち攻撃。待ち伏せ。攻撃のための張り込み、待ち伏せ要員」、このような意味合いがあります。伏兵、隠れた存在であります。
私たち、この主の勝利を与えられる方法は不思議な方法であり、また私たちが全く気づかない領域に主ご自身が働いてくださって、勝利を与えてくださると励ましを受けています。
そしてこの伏兵という言葉の中に、「攻撃するために隠れて待つ」という意味合いがあります。「不意打ち」なんかも、そういった意味合いがありますけども、それはどういった意味合いがあるか。伏兵は隠れているわけです。私たちは戦いを目の前にして恐れてしまいますが、そこには神さまが予め備えられた隠れた伏兵がいるのです。私たちは気がつかないかもしれないですけが、そこには確かに隠された神さまの伏兵、備えがあるのです。私たちは素晴らしい勝利を受け取る時に、どのようにして素晴らしい勝利が受け取れたか分からないですが、それは神さまの伏兵があったからなのです。この年、伏兵が備えられている事を皆様と共に覚えていきたいと思います。

私たち日々、霊的な、また現実的な、大きな戦いの中にそれぞれがあります。突然の病気だとか、経済的な問題、学校や職場や、家族の中の問題もあるかと思います。また地域の中の問題、様々な戦い中に私たち一人ひとり置かれて、そしてユダの民と同じように時に疲弊し、また恐れてしまうような時が多くあるのではないかと思います。
しかしその私たちが恐れてしまうような戦いの谷には、主の伏兵が備えられている。その伏兵は隠されていて、私たちはその助けも見ることはできない。またその先にある勝利も私たちは見ることができないかもしれませんが、今日私たちはその主ご自身が備えられた伏兵が、確かに戦いの谷に備えられているということを、このみことばから覚えて、そして私たちがなすべきこと、主の勇士として戦いの最前線へと勇気をもって出て行く。そのことをし続けていきたいと願わされています。

そしてその不思議な、素晴らしい勝利を受け取る鍵となったのは何か。それは聖歌隊が「主に感謝せよ!その恵みはとこしえまで。」と戦いの前線で賛美しました。喜びの声、賛美の声を上げたことによりました。
私たちが喜びの声、賛美の声、礼拝をささげていく。そのことを通して、私たちが素晴らしい神さまご自身の不思議な勝利を受け取っていくことができる。そのことを覚えさせられています。
その備えとして、私たちはユダの民が断食したように、私たちも自らをささげて、ただ一筋に、ただひたすらに主を求めて、賛美し、礼拝する。そのことがとても大切なことであるということを教えられます。
ユダの民は戦いに出て行く前にも、彼らは神さまを礼拝していました。そして勝利をいただいたその後にも、主を賛美していました。本当にただひたすらにただ一筋に私たちが賛美する中に、主ご自身の勝利、不思議な勝利を受け取ることができるということを、私自身、励ましを受け取らせていただいています。皆さまと共に、このみことばを受けとり、さらに神さまを賛美し続ける、礼拝し続けていく者となっていきたいと思います。
今朝、モーセスさんから、pray!pray!pray!と、祈る!祈る!祈る!という、励ましの言葉も受けました。私たち、礼拝の中で、祈りもささげています。諦めずに、私たちは祈り続けていく。賛美し続けていく。そのことを成し続けていきたいと思います。

そんな賛美するだけで勝利が与えられるか?動かずに立って救いを見よ。それだけでいいんですか?と疑ってしまうような思いもあるかもしれませんが、その事は確かだ!ということを、昨年の子どもクリスマスで教えられました。
昨年の子どもクリスマスに二百七十名の子どもたち、親御さんが、この場所に集められ、神さまの福音を届けることができました。
 昨年はコロナの影響もあって、毎年行なっている子どもクリスマスの案内のチラシ配布を学校の門の前で行うことができませんでした。ですから、どれだけの方々が集まるか予想もできませんでした。この場所に集まっている子どもたちが一生懸命にお友達を誘うだけでした。
そして子どもたちがもう一つ行ったことは何かというと、この会場となる場所で月火水木金、土曜日が子どもクリスマスですので、五日間ですが、この会場にこもって動かずに、ただ主を賛美して祈る。それだけをしました。
子どもたちに神さまから祈りの課題を受け取ってもらって、祈ってもらうときも何度か持ちました。その中で子どもたちが祈った祈りの中で、お友達がお友達を誘ってたくさん来るように。知っている自分の友達は限られているけれども、その友達が友達を誘えば、自分は知らないけど、もっとたくさん来るのではないか、そんな祈りを神さまから受け取って祈りました。
そうしたら、本当にその祈りが聞かれたのです。子どもクリスマスの後に聞いた話ですが、本当に友達の友達が共たちを誘い、またその近所の子たちを誘い、お兄ちゃんお姉ちゃんを誘い、家族、親御さんも誘い、知らない人たちがたくさん来る。そんなことが起こったのです。神さまが祈りを子どもたちに与えて、子どもたちの祈りに応えててくださったのです。知らない方々が来た。まさに伏兵ですよね。私たちが気がつかない存在が知らないところで働いて、そして友達を誘って、たくさん集められた。神さまご自身によって集めさせられたわけですけど、そのような素晴らしい神さまの証しを受け取って、さらにこの真実なみことばを体験させられました。本当に主のみことばを真実な言葉として皆さんとともに受け取っていきたいと思います。