「敵にとどめを刺す祈り② あなたが主の勇士です」

第一サムエル記十七章、先ほど四節でゴリアテが登場したところまで見ました。十一節、その続きです。

『サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。』

ゴリアテの出現でサウルとイスラエルの全てが一気に意気消沈し、戦意を失いました。一節から三節にあったとおり、戦いのために招集された軍隊ですからここに一般市民はいませんでした。軍隊全てと、全軍を率いる最高司令である王サウルが意気消沈し、非常に恐れました。

二十節から二十二節、
『ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。』

十七章の「主役」ダビデは、当初この戦いに参加すらしておりませんでした。ダビデはエッサイという人の子ども、八人兄弟の末っ子でした。兵士として、まだ戦いに参加するべき年齢ではなかったということです。(十代後半ぐらい)
体格は大人と同じでしたが、まだ若かったため「少年」と書かれております。
八人兄弟のうち、戦いに出ていたのは上から三番目まででした。父エッサイが、食料を届けるようにとダビデを戦場に遣わしました。
そして、このストーリーの主役ダビデが、遅ればせながらこの舞台に登場します。まずは兄たちの安否を気遣い、そして戦いの状況を把握しようとします。周りの兵士たちの会話に耳を傾けました。二十五節、

『イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」』

このような会話をダビデは聞きました。彼らも兵士であり、戦いの当事者です。兵士同士です。しかし、この言葉はすでに他人事です。何か強大な敵が現れて、王も報酬を示し、なんとか立ちあがる者を求めたけども、誰一人立ちあがる者はいない。「何も義務を負わせないそうだよ。」と他人事、誰かが立ちあがるのをただ待っているだけの状況。「私が行こう。」という者は誰一人いない。一方ダビデは次第に状況を把握します。二十六節、

『ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」』

ダビデはいち早く、たった一人だけ、目の前の状況に対して義憤を起こしています。聖なる憤りを持って、戦いの視点で見ています。「あのゴリアテとかいうペリシテ人は何者なのか。」そのような形で、既に主の視点に立っています。

二十八節、

『兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」』

エリアブは八人兄弟の長兄です。エリアブはダビデを叱責します。兄エリアブの言葉、正しいでしょうか?違います。ダビデに対して弟としての侮りがありました。また、エリアブ自身も他の多くと同様に、自身には戦意がありませんでした。しかし、このような見当違いな叱責をしています。
ここで一つ注意していただきたいのは、私たちが聖書の中でガッカリするような人物の描写に出会う時、それを私たち自身として読んでください。私たちはこのように弱く見当違いな存在です。主のみこころ、主の助けがなければ、誰一人等しくこのように弱い存在であります。

二十九節、ダビデはどう応答したのか。

『ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」』

ダビデの視点に立てば真っ当な主張です。そしてそうこうしているうちに、ダビデが王サウルと接見するというところまで話が進みます。これは十七章以前の文脈から突拍子もないことではありません。

三十二節、

『ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」』

「王」サウルに対して、「少年」ダビデが励ます言葉をかけています。そして、「誰も行かないようですね。私が行って戦います。」と少年ダビデが進言をしています。聖書には、この様な立場の逆転・価値観の逆転の描写が多くあり、大きなキーワードとしてすべてのみことばの中に横たわっております。

そしてさらに三十三節、

『サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」』

王の初めの反応も他と同様です。地上的価値観、実際的なところからの判断です。当然といえば当然、至極真っ当な判断です。一国の王たる者が、たった一人の少年を死地に向かわすような決断をできるかどうかと言ったら、できなくて当然です。しかし、それは地上的価値観だけで判断した場合の話ということになります。私たちはここに「信仰」という軸を入れて、いやむしろそこにこそ私たちの本分を置いて、判断しなければなりません。

三十四節、

『ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。」

ダビデは自分の羊飼いという、当時見向きもされなかったその立場をしっかりとわきまえて、しかしその立場ゆえに、このように武力としての裏付けがあることを説明します。地上的判断の中でも無謀ではないことをサウルにしっかりと提示します。
さらにそこに留まらず、王サウルの前で、ダビデの視点は霊的な側面、信仰面へと、向かっていきます。「ゴリアテもこれらの獣の一匹のようになる。生ける神の陣をなぶったのですから。」これはもうダビデ自身の動機づけではありません。信仰ゆえの言葉、宣言です。

三十七節、

『ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」』

ダビデが、主への揺るぎない信頼、そして勝利の確信と共に、信仰面ではっきりと主張した時、王サウルは「行きなさい」という決断ができました。実はここにもみことばの深みがあるのではないかと思います。
サウルは、油注がれた王でした。旧約の時代は限られた人しか油注ぎ、神の霊の注ぎはありませんでした。王、祭司、預言者という三つの役職です。
王サウルは油注ぎを受けて、イスラエルの初代王という地位に任命されていました。その王としての油注ぎが、このサウルを地上的価値判断から解放し、霊的な信仰面から「行きなさい」という決断に至らせた、そのような霊的な洞察ができるのではないでしょうか。

サウル王の背景を少し見ていきたいと思います。十七章の少し前の十章、一節

『サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」

預言者サムエルによってサウルが油注ぎを受けたという記事があります。先ほども言いましたけども、旧約の時代は油注ぎを受けた者だけが神の霊を受けることができました。その油そそぎを持って、サウルは王として出発しました。けれども十七章に至るまでの間に、サウルは主のみこころから逸れる行いを繰り返しました。その結果、十六章十四節、

『主の霊はサウルを離れ、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。』

主の霊がサウルから離れたことが書かれています。しかしまだ王という地位におり、油注ぎは残っていたのでしょう。それゆえ王として正しい決断ができたと、私の個人的な洞察も含め読み解くことができるのではないでしょうか。
ここで一つ注目したいのが、わざわいの霊が主からもたらされているという点です。私たちも主のみこころに叶わないことを繰り返せば、悪魔ではないのです。主が私たちにわざわいの霊を注ぐ。これもはっきり起こり得ることだとクリスチャンは心しておかなければなりません。
一方、サウルから離れた主の霊は誰に移ったのか。ダビデです。
十六章十三節、

『サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。』

十七章に至るまでに、ダビデには主の霊が注がれていました。彼は少年ダビデでした。羊飼いであり、戦いにも参加できない状況でした。しかしすでに神の霊の油注ぎはダビデに移っていました。
このような前提で、ダビデとゴリアテの戦いを見ていくと、いかにこの記事が奥深く、得るものが大きいかということが分かっていただけるのではないでしょうか。戦いの描写に戻ります。
四十二節から四十四節、ゴリアテ、ダビデとまさに今、相対する最後の会話です。

『ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」』
ここで注目したいのは、ゴリアテはダビデしか見えていません。一騎打ちだから当然と思われるかもしれませんが、四十四節には、『「おまえの」肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。』という描写があります。ゴリアテはダビデしか見ておりません。
ダビデはどうだったか。ダビデの視点は戦う前からゴリアテを越えています。
四十五節から四十七節、

『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」』

四十六節に『ペリシテ人の陣営のしかばねを、』と、すでに全軍に対して視点が行っています。そして四十七節にも、『この全集団も、』というふうに、全軍の殲滅ということがすでにダビデの視点には含まれております。『主は「おまえたち」をわれわれの手に渡される。』と。
これが私たちの霊的戦いの意義です。私たちの個人的な問題を解決していただく、目の前の巨人を倒す、それはもちろん大事な祈り、戦いです。しかしそれが何のためなのかを知る必要があります。主のみこころ、主の勝利がこの地に引き下ろされ、主のみ名があがめられるため。そして多くの人が主のみ名を知り、主の栄光が現される。そのために働くのが私たちクリスチャンです。そのために戦うのが私たちの霊的戦いです。
四十九節、五十節、

『ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、
ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。』

そして五十一節から五十三節、

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。』