「敵にとどめを刺す祈り」

2021年5月9日(日)新城教会スタッフ 鈴木陽介

サムエル記 第一 17章51節

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

ハレルヤ!おはようございます。私が日曜日の礼拝でお話しさせて頂くのは二〇二〇年四月に続いて二回目になります。この恵みを感謝します。

皆さんもご存知のように、また祈り続けているように、私たちの生活の状況が変えられて既に一年以上になります。教会の働きのあり方も変えられて一年以上経っています。日曜日の礼拝でも、第一礼拝、第二礼拝と分けて人を分散しております。そして、第二礼拝においてはインターネットを通して、礼拝に参加されている方々もおられます。新型コロナウイルス感染症に対して万全の対策をしながら、教会の働きも続けていかなければならないわけです。

お一人お一人の努力とご協力により、これまでのところ、教会の集まりの中で感染は発生しておりません。そのことが主によってなされています。何よりも、主によって守られているという事を私たちは今一度感謝したいと思います。これからもどのように状況が変化するか分かりませんし、するべき対応を、いつまでだろうと思いながらも、精一杯真剣にやり続けなければなりません。しかし先の事を心配ばかりしていても仕方の無い話です。

そうではなく、今日皆さんに受け取っていただきたいのは、この一年以上、この教会の働きの中で感染者が出ていない、守られているということです。これは「実績」、「事実」です。今後の話は関係ない。既にこの一年以上守られているというその既になされた事実にこそしっかりと目を留めて、主の守り、主の素晴らしさを受け取らなければならないのではないかと思います。

一段と主の守りと主の勝利があるように祈って頂いて、皆さんもご協力して頂きながら、この感染対策の戦いにおいても勝利を与えていただきたいと思います。

 

それではみことばに入らせていただきたいと思います。第一サムエル記十七章五十一節、まずこちらをお読みしたいと思います。

 

『ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。』

 

有名なダビデとゴリアテの戦いの記事になります。しかしその有名と思われる記事のなかで、この一節は、あまり引用されないような部分かもしれません。今日はこの箇所から「敵にとどめを刺す祈り」というテーマで皆さんとみことばを学んでいきたいと思います。

 

本題に入る前に、本日のテーマの前提からお話したいと思います。それは言うなれば、「主の軍の霊的戦い」というようなテーマです。これは私が個人的に、今年の二月あたりからはっきりと主に示されていることです。

 

先ほどの第一サムエル記の時代よりも少し遡ったヨシュア記の六章五節を見たいと思います。

 

『祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな、大声でときの声をあげよ。そうすれば、町の城壁はくずれ落ちる。民はそれぞれまっすぐに攻め上れ。』

 

こちらも有名なエリコの城壁が崩れ落ちる場面です。このみことばの中に「ときの声」というキーワードがあります。この「ときの声」という言葉も、私たちクリスチャンであれば、今まで何度も触れているものです。しかし、この「ときの声」という言葉そのものをしっかりと考察したことがあるかと言うと、ほとんどの方がそうでないのではないのかなと思います。私自身もそうでした。

 

この「ときの声」、新改訳聖書ですと、ご覧の通りひらがなで書いてあります。私たちはこの言葉を、記事の内容とも合わせて、何か特定の時、そういう時、時間を表す「時」という言葉なのだろうと勝手に解釈して受け取ってきたかもしれません。しかし、新共同訳聖書で見ると、「鬨(とき)」という漢字で表記されていています。見たように時間を表す「時」ではありません。普段使わない、習ったこともないような漢字が当てられています。

では、「ときの声」とは何なのか。しっかりとその言葉の意味を受け取らなければ、聖書から、より正しいメッセージを受け取ることはできなくなってしまいます。

 

「鬨(とき)」というのは、「いくさなどの勝負事で勝ちを収めたときの勝ち鬨や、戦場で上げる声である。士気を高める目的で多数の人が一緒に叫ぶ声。」

とあります。

人類の歴史の中で戦い・戦争が繰り返されてきています。鬨、ときの声は、その中で使われてきた戦いにおける戦術の一つです。多数の人が一緒に叫ぶ声と書かれています。当然戦いにおいて多数の人というのは「軍」ということになります。その軍が一緒に声を合わせて大きな声を上げる。これを「ときの声」と呼ぶわけです。

ときの声にどのような意味合い、機能があるでしょうか。軍、あるいは人の集まりにおいて、「士気が高まる」ということが、その軍が軍としての機能を果たすために非常に重要な要素となります。持っている力を発揮する、あるいは持っている以上の力を発揮する、そのために非常に重要な点、ポイントになります。これは現代のスポーツなどにおいても、ある程度感覚的に理解できるお話ではないかと思います。

このように、ときの声というのは、実際の歴史の中で、洋の東西を問わず戦いの中で用いられてきた重要なものです。旧約聖書に出てくる戦い、イスラエルの戦いも同じように実際の歴史の中でおこなわれたもので、軍対軍の戦いです。何万対何万、何十万対何十万という大きな数の人同士がぶつかり合うそのようなものでした。そのような戦いの要素として「ときの声」を理解し、旧約聖書で描写されている戦いを、現実に即してイメージしながらみことばを読むとで、私たちが受け取れていなかった部分を理解する助けになるのではないでしょうか。

聖書は歴史的真空の中で書かれた書物ではないという風に語られます。抽象的な宗教書、哲学書や倫理書などの類の、手引き書として書かれているような本ではなく、歴史書であるというふうに評価されます。

特に旧約聖書で言えば、天地創造から始まり選びの民であるイスラエルの民の歴史が書かれています。この民の地上の歩みのなかで、神さまがどのように働かれるか。どのようにみこころを現して、主の勝利が実現していくかという、そういう記事の連続です。

その様な視点で旧約聖書における、個別の戦いに対して読み解いていく必要があります。今日で言えばエリコの戦いやダビデとゴリアテの戦いです。世界史の中でこの地上で実際に起こった出来事である。それを受け取った中でその記事に触れてきたかどうかという点を見ていきたいと思います。

 

これは聖書の舞台となった地も含めた実際の世界史の年表になります。エジプトの新王国時代の時に出エジプトして、そこから四十年荒野をさまよい、カナンの地に入ったということですね。それがエリコの城壁の場面、このあたりの年代です。

その後、ここではヘブライ王国と書いてあるのが、王国として始まったサウル、ダビデ、ソロモンと続くイスラエルの王国です。その後北イスラエルと南ユダに分裂します。そしてその後の、アッシリア捕囚(前七二一年)とバビロン捕囚(前五八六年)。

 

 これは軍の兵の基本構成です。歩兵、騎兵がいて、援護する弓兵がいてというような形です。こういうような単位がいくつも重なって大隊になり、また軍隊になり、というような形です。

これは紀元前八世紀、まさに北イスラエルを滅ぼしたアッシリアの兵の様子だということです。

 

 

 これはローマ兵の様子です。ローマというのは紀元前後に栄えた国で、新約聖書の背景になっている一番大きな周辺国になるわけです。ここでも、聖書を読む際、「軍」という背景は必ずついてくるということがわかります。また、ここで注目していただきたいのは、紀元前八世紀のアッシリアの兵と3〜4世紀頃のローマ兵の様子を比べても、八百年から千年程時代が経過していますが、大差ないということです。

 

 さらに時代が進んで一五七五年長篠設楽原の戦いが、私たちの立っているこの地で行われました。初めて銃が実践に本格導入された戦いというふうに言われます。ここ戦い以降、戦い・戦争は銃火器を中心としたものに大きく変化し、戦闘機、大量破壊兵器などが主役になるものに様変わりしていきます。

逆を言うと、この戦い以前まで、人類の戦いの基本構造は、十数世紀、あるいは数十世紀にもわたり、大きく変わらず繰り広げられていたと言えるかもしれません。それは私たちが読んでいる聖書の時代においても同様です。兵と兵、軍と軍が数と数で実際にぶつかり合うという戦闘の形式、これがずっと続けられたものであり、私たちが聖書を読む中で戦いの描写として持つべき正しい描写だということです。軍勢対軍勢の戦いです。

 

旧約聖書において、この「軍」に関連する描写は、本当にたくさんあります。第二サムエル記二十二章三十節。ここで「軍勢」というキーワードが出てきます。歴代誌に移っても軍勢、三十万の兵、ベニヤミンでも二十八万の兵とか、このように具体的な数も含めて(Ⅱ歴代誌 十四章八節)、また、『三十万七千五百人の軍勢があり、王を助けて敵に当たる強力な戦闘部隊』と、記述されています。(Ⅱ歴代誌 二十六章十三節)

そして、戦いの武具やいろいろな兵器の様子も書かれている箇所もあります。(Ⅱ歴代誌二十六章十四・十五節)。こういうところは聖書の中で読み飛ばしてしまうような部分なのかもしれません。

そして、取りも直さず、主ご自身の事を「万軍の主」と、肩書きを持って呼んでいるわけです。私たちが持つべき戦いのイメージは、やはり軍対軍の戦い、私たちは主の軍の兵だということです。これはみことばから受け取るべきことです。主ご自身が万軍の主であって、私たちはその万軍の主により頼んで、その力を信じ、信仰をもってその方に付き従っている主の軍の兵ということになるわけです。

 

そしてさらに、旧約から新約に至る中で、私たちの戦いは血肉ではなく霊的な戦いだということで、私たちも今、霊的戦いというものを掲げて、信仰の歩みをしているわけですが、その霊的な領域の描写も、すでに旧約聖書の中に描かれています。実際の地上の軍・兵と共に、霊的な主の軍、天の軍勢が戦っているということを第二列王記のエリシャの記事などで目にします。そして新約に至っても、この天の軍勢という描写があります。

 

ではこのような軍勢対軍勢の戦いというイメージを、我々が正しいものとして受け取ったならば、我々の信仰に対してどういう結果、効果があるでしょうか。一つは、霊的戦いという視点の中で、私たちのどんなに小さいと思えるような個人の祈りも、小さいものではないということです。私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈る祈りは、天の軍勢対悪魔の軍勢、その戦いにくさびを打ち込むような主の武具、武器であるということです。私たち一人ひとりの祈りに、どれだけの大きな力があるかということを、みことばからしっかり受け取ることができます。

そして私たちの祈りの方向性も、その視点が変えられます。私たちの祈りが、現実的な解決のみに集中し、極端に言うならばご利益宗教的なものになってしまっているとしたら、軍勢対軍勢の戦いということを受け取る時に、私たちの視点が天に向けられます。祈りにおいて持つべき方向性は、私たちの祈りの結果として天で勝利がもたらされて、その天の勝利の結果がこの地上に引き下ろされるというものです。祈りはそのようなベクトルでなければなりません。

 

以上、見てきたように、私たちが霊的戦いとして持つべきイメージは、軍勢対軍勢の戦いであって、私たちの軍の最高司令は、「万軍の主」ご自身、そして私たちはその主に付き従う中にこの地上の歩みとともに本当により天の軍勢対軍勢の戦いに参加しているというイメージを持ちながら祈りをささげる中に実際のこの地上の勝利も望みながら、この信仰の歩みをして行く。これがクリスチャンの祈りであり、霊的戦いだということになります。