〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
被造物と共にうめく

モーセがもしも助からなかったら、出エジプトはなかったのです。そうしたら、私たちはクリスチャンになっていないはずです。神の偉大な計画はアフリカから始まったのです。
ですから救いの原点となった場所を覚えることは、たいへん重要です。案外、重要な事が忘れ去られています。アフリカの為に祈り、主が王となってくださるように、祈りたいものです。

イエスさまに帰ってきていただくために、何が必要でしょうか。先ほどもお読みましたように、

『御霊と花嫁が言う。「来てください。」』

という叫びが必要です。聖霊さまも私たちと一緒に、「来てください!」と、とりなしてくださいます。
そして「花嫁」も言わなければいけないのです。花嫁とは、教会です。聖霊さまと一緒に、教会も「主よ、来てください!」と声をあげないと、イエスさまは帰ることができないのです。
教会とは、地上だけのものではないのです。最近、お話ししているように、教会とは、「天上における教会と、地上における教会の集合体」を意味します。天の教会は勝利の教会です。地上の教会は戦う教会として、描かれています。
「天の教会」という表現を使うと、「聖書中に天の教会という表現はありますか?」という質問を受けることがあります。
ヘブル人への手紙十二章二十三節に、

『また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、』

というみ言葉があります。ここに「天の教会」が表現されています。私はこれで十分、天の教会を表していると思います。
「教会」という単語は、神が与えた神聖な用語ではありません。「教会」という単語は、教会が始まる以前から、一般のギリシャ社会にあった組織の名称でした。
新約聖書の「エクレシア、教会」とは、ギリシャ社会の一つの議会を表す用語でした。
バークレーのギリシャ語精解によると、「この議会は、種々の軍事行動に対する作戦と、宣戦布告の決定機関であった。」と解説されています。初代教会の時代、すでにエクレシアという組織がありました。一般人たちは、その組織についてよく知っていたのです。
一方、主を信じる者たちの群れをも人々が見たのです。彼らが両方の組織を比べて、共通点を見いだしたのです。
「イエスを信じる者たちの群れって、エクレシアというギリシャ議会と似てないかい?」という話になったわけです。
それで一般の人たちが、主を信じる者たちの群れを「エクレシア」と呼んだのです。それが原点です。
クリスチャンたちの集団、それは戦う者たちの集団でした。しかもそれは、「霊的戦いの勇士たちの集団」だったのです。「彼らの行動は、エクレシアと同じ概念だ!」と一般の人たちによって認められ、命名されたのです。
従って、「教会」とは、用語よりも、「概念」が重要だということです。教会とは、神が与えた神聖な用語ではなく、その集団が持っている「全体的概念」が大切なのです。それが何かと言ったら、神によって呼び集められたものたちの「行動そのもの」です。霊的戦いのために、よく組織された者たちの群れを、一般の人たちが「教会」と呼んだのです。

ヘブル語的概念と、ギリシャ語的概念を合わせるならば、地上の教会は「戦いのために呼び出された者たちの群れ」と定義できます。
今日ここにおられるお一人一人は、戦う教会に属しています。神の国を地上にもたらすために、戦う者たちなのです。

続いて、エペソ人への手紙一章二十二・二十三節を見ると、

『また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。』

と述べられています。これは結構、見落とされる概念です。教会とは、地上と、天の聖徒たちだけによる集団を指すのではなく、キリストは、「すべてのものの頭」として教会に与えられたと告げています。
「すべてのもの」とは、神が造られたすべての被造物を指します。教会とは、すべての被造物をも含み、その頭としてイエスさまがおられるのです。教会とは実に、宇宙規模であるのです。
忘れてはいけないのが、被造物も、すべて教会のメンバーであるという事実です。私たち人類は、神が造られた被造物を管理する「管理人」です。そのことに気づかされると、教会の幅がぐっと広がります。

今日読んでいただいたローマ人への手紙八章十八〜二十二節には、

『今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』

と教えています。パウロは実に広い教会概念を持っていました。教会とは、ただ人だけの集まりではなく、被造物も含むと理解していました。被造物のすべては、少しでも早く、贖いが完成するように、うめき祈っているのです。ここでは、「共にうめいている!共に産みの苦しみをしている!」と述べられています。
人間以外の神が造られたすべては、物を言わないかもしれないけれど、十九節、『被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。』と告げています。彼らは、切実に「自分たちのことを理解し、共にうめいてくれるクリスチャンって、一体、どこにいるの?」と真剣に神に訴えているのです。
どうでしょうか。被造物が、「共に」うめき、祈っているという事をどのぐらい意識しているでしょうか。人間同士の苦しみとか悲しみは、お互いに理解し合います。「切実な思い」、この言葉は、以前にも説明しましたが、ギリシャ語では「アポカラドキア」という合成語が使われています。それは、「頭をまっすぐに伸ばして観察する」という意味です。「どこに私たちのことを理解して一緒にとりなし、祈ってくれるクリスチャンがいるの!?」と真剣に、探しているのです。彼らは私たちと一緒に祈りたいと願っているのです。

『私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。』

地上の様々な戦いの中で、私たちには、「イエスさま。早く帰ってきてくれませんか?」という、うめきがあります。日本において信仰を守るのは大変です。うめきがあり、悲しみがあります。しかし被造物自体も、シンクロしているのです。これが事実ならば、すごいことではないでしょうか。

聖書を理解する上で、一つの条件があります。それは、

“正統的な聖書の教えの確信に堅く踏みとどまるとともに、今まで、聖書的と信じていたことが、実は、間違いだったと気づいた時には、それを認める謙虚さと勇気が必要”

ということです。
現代の教会の聖書理解は、人間中心主義の影響を強く受けています。ゆえに、被造物のうめきに関しては、理解出来ていないのです。視点を変えないといけないのです。
ある神学者が、次のように指摘していました。

“使徒パウロは地球が無生物の土とか石とか水とか、植物からなるただの物質だとは考えていなかった。彼は地球には記憶があり、選択する意思に近い何らかの能力があると信じていた。おそらくその意志は現在私たちが知っている意思とは違うだろう。ローマ人への手紙八章には、地球が期待したり、虚無に伏したり、呻いたり、その完成を切実に待ち望んでいることを明確に示唆している。”

と記していました。
私たちは、詩篇百四十八篇をよく賛美します。そこには

『彼らに主の名をほめたたえさせよ。主の御名だけがあがめられ、その威光は地と天の上にあるからだ。』

とあります。

“詩篇百四十八篇の作者は、被造物が聞き従うことを期待し、ほとんどすべての神の被造物に対して直接語りかけ、すべての被造物が主をほめたたえることができると考えていた。生物にも無生物にも同じように語りかけ、それらが同じように主をほめたたえるようにと勧めている。
同じ詩文の中で、彼は人間、海の巨獣、そして火や雹に語りかけている。また彼は、飼いならされた動物と野生の動物、耕作地とそうでない土地を区別することなく語りかけている。”

すべての被造物は主をほめたたえることができると、詩篇百四十八篇の記者は確信しているわけです。
数年前、主は、「すべての被造物に対して、賛美するように命じなさい!」と語ってくださいました。
しかし今一度、そのことを心に留めなければいけない時期に来ていると思うのです。

新型コロナ問題も、被造物のうめきが関連しているように感じます。彼らのうめきが神に聞き届けられた結果ではないかと思うのです。三年以上にわたって、人は今までのふるまいが出来なくされたからです。排出ガス規制や二酸化炭素排出問題など、いろいろ環境に関する論議がなされていますが、人類は三年にわたって、悪い物資を排出できなくなったからです。人が巣ごもりしている間に、被造物はものすごい勢いで回復しました。
現在、地球環境について、いろいろ語られています。人類が本気で環境を良くしたいと思ったら、肉さえ食べなければ、解決するそうです。なぜなら、一キロの牛肉を生産するのに、十一キロの穀物がいるらしいのです。そして牛とか豚とかの畜産が、ものすごい量のC02を排出すると言うのです。
でも、肉食べたいですよね。肉をたらふく食べながら、環境問題を論議しても仕方がないのです。人間中心主義がこの地を覆っています。
イエスさまは十字架において、何をしてくださったのでしょうか。コロサイ人への手紙一章二十節に、聖書の救済論が凝縮され、全容が語られています。

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』

イエスさまの十字架は、人のためだけではなく、万物との和解であったのです。

“キリスト教は魂の救いだけを言っていると勘違いしている人々が多いが、魂の救いは被造世界の救いのワンステップである。魂の救いを得た人々は、被造物の救いに乗り出すべきである。我々が神の目的と計画に従って各自の使命を実行する時に、その手のわざは救いの中に入っていく。”

と、ある神学者が記していました。続いて、

“世界を回復する働きはクリスチャンしかできない。クリスチャンが世界から手を引けば、世界は汚れたままである。せっかく洗濯機の中に入れて準備万端なのにスイッチを押さないでいつまでも汚れている洗濯物と同じである。クリスチャンが世界の回復を委ねられている唯一の者であることを自覚して、積極的に被造世界に働きかけるべきである。”

イエスさまのお帰りを待ち望むのならば、すべての被造物と共にうめき、彼らと共に賛美することが必要です。

家内は四ヶ月前に、天に帰りました。彼女はそのことをよく理解していた女性でした。毎日のように豊川の河川敷に行って、そこに生息する被造物に対して、「主を賛美しましょう!」と声をかけていました。被造物に対して、「主を賛美しろ」と命じるなら、彼らは人の命令に従うのです。
私がこのことに気づかされたのは、今から数年前の一つの出来事でした。まだこの分野に関して、しっかり理解していない時期でした。少しずつ、そのことを学び始めていました。
私はある場所に、とりなしの祈りに行きました。近くの公園のベンチに座って、あるテーマに関して祈っていました。ふっと見ると、私のベンチの横に、五メートルぐらいの細長い花壇があって、花が列になって、きれいに咲いていました。その時、何気なく花たちに、「おい花たち。俺と一緒に、祈ってくれない?」と、声をかけてみました。すると突然、風が吹いてきて、花たちが列になって「うん、うん」と、頷いたのです。私はたいへんびっくりしました。「でもこれって、偶然に違いない!?」と思って、もう一度、花たちに、「俺が祈っている祈りを、おまえたちも一緒に祈ってくれないかい?」と声をかけてみました。
するとまたもや、同じように風が吹いてきて、列になって花たちが「うん、うん」と頷いたのです。私はさらにびっくりしました。そこで、風と花ってペアである事が分かりました。
そうしたら、滝元開が一曲、主から与えられました。それは、「主の回復の時が」という歌で、「花が歌い、風も歌う。救い主イェスのみ名を♪」と歌っています。風と花って、ペアで働いています。それは科学的にも証明されています。風と植物はペアで、助け合っています。植物同士はコミュニケーションしているのですが、様々な情報を風が伝達するのです。
私は、そのような体験を通して、教えていただきました。