また、「主の日が近い」という表現を我々が使う時、「グノーシス主義者」の様に地上的な努力をしない方向で物事を考えたい理由付けで用いる事が無いように注意したいです。「千年は一日のようであり、一日は千年のようなわけ」ですから、主の日が忍耐によって未だ来ていないことと、同時に盗人のようにやって来ることを、どちらも現実のことと認識して生きなければなりません。
第一テサロニケの五章二十三節にはこのようにあります。
“平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。“
これはSSBジム開設にともなって示されたみことばです。身体機能の維持のための運動や健康のための食事管理などは、ともするととても地上的なものとして考えられるかもしれません。しかし、主の永遠の視点に立つときに、霊、たましい、からだの区別もありません。これらすべてを全人的に、主にあって管理することは大変重要なことです。
今日みことばを、導いていただく中で、不思議に前回の私のメッセージの内容にもう一度目が留まりました。どの様な内容でしたでしょうか。「主が導く霊的戦い」という題で、その副題として「伏兵」ということを主に扱いました。その中で、主が導く霊的戦いには様々な方策があるということを学びました。
ヨシュア記の冒頭部分で、エリコとアイとギブオンという三つの敵の町を攻略する記事があります。エリコは、皆さんもよくご存知のように、七日間城壁の回りをまわり、七日目に、「ときの声」とともに城壁が崩れ落ちました。まさに超自然的な出来事で、誰も疑う余地のない華々しい主の業が起こされました。
一方で、アイに対しては、同じ主が地上的な戦術として、伏兵を用いて挟撃(挟み撃ち)することを命じられました。人間的な知恵によって決めたことではなく、主が言われた通りに彼らは実行しました。そしてアイを攻め取ることができました。そしてギブオンに対しては、和睦という形で戦わずして町が開かれたということが描かれています。
そのときにもお話ししましたが、時に私たちは主の働き、主の業を祈り求めるとき、エリコで起こされたようなことを求めがちです。超自然的で華々しく、誰が見ても主の業だとわかるような事に価値を置くことが多いのではないでしょうか。それはもちろん素晴らしいことです。
しかし、同時にアイに対して成されたことや、ギブオンに対して成されたことも主が命じ、主の主権の中で行われた主の働きであり、どこにも差はないと思います。それらに差をつけることも、もしかしたら私たちが時間的な概念や地上的な概念に縛られているということを指し示しているかもしれません。
特にアイにおいては、地上的な戦術を用いることが命じられたので、一見すると主の業ではないように見えることがあります。しかし主の指示によりアイを落とした時のように、私たちは現代にあって、しっかりと敵を知り、世の中を知り、時代を知り、敵の策略を知り、あらゆる知識も総動員して敵に立ち向かうことが、大変重要な霊的戦いの一部です。理屈をこねるために知識や情報を得るのではありません。また世の中の知識、世の中の情報に、無防備に心を開いてはいけません。
敵を知ること、あらゆる知識や情報を得ること、その目的は何かということを忘れてはいけません。その目的は、敵を撃破することです。私たちが賢くなるためでも、誤解を恐れず言えば、私たちの福音理解を深めるためでもありません。主を信じる者の一番の目的は、主の命令に従い、敵に立ち向かい、敵に打ち勝つことです。そのために、私たちはありとあらゆる手段を用いていかなければなりません。
この地上の歴史上で最も頭の良かった人は誰だと思いますか?クリスチャンであれば、一人の人物が浮かぶと思います。ソロモンです。彼は祈りによって主から知恵を与えられた人物です。そのソロモンが書いた箴言一章七節には、こうあります。
“主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。“
私たちは、知恵や知識を求めることを怠ってはいけません。しかし、それは「主を恐れる」という大前提が求められます。
私たちは現代に散りばめられている敵の策略を見破り、直面する敵に対して勝利を得ていかなければなりません。
少しだけ証しをお話ししたいと思います。先日、子どもの学校でマラソン大会が行われました。私の第三子、たびたび話題になる人物ですが、彼の姿に感動する出来事がありました。
彼はマラソン大会に向けて、良い結果が出るように真剣に取り組んでいました。しかし、当日スタートすると、彼はなんと一番後ろ、最後尾でゆっくりと走っていました。声をかけると、笑顔で手を振るくらいの余裕があり、気楽に走っているように見えました。
しかし、学校の敷地外を回り、戻ってくる頃にはなんと三位になっていました。一位、二位ではないので、どうってことないかもしれませんが、彼にとって、これまでの最高順位は六位だったのですが、本番でこれまでにない最高成績を収めることができました。
この出来事で私が感動した点は、彼がマラソンの本質を理解していたことです。マラソンは結局、ゴールの瞬間にどの位置にいるかが問われる競技です。途中経過はどの位置でも構わないのです。ゴールテープを切る瞬間にどこにいるのかということが問われるわけで、彼はまだ小学校三年生ですが、その本質を理解していました。
普通この年頃の子どもたちは、本番になると、気持ちが高ぶり、最初から普段よりも速いペースで走ってしまうことが多いものです。結果として途中で息切れして、普段よりも良くない結果になってしまうことも少なくありません。しかし彼は、いつも通りの自分のペースを崩さず、そして「必ずこのポイントで抜くことができる」という戦術を信じて、練習のときからその戦術を練り続け、それを本番で忠実に実行しました。そしてその結果、見事に自己ベストを達成することができたのです。
すごく小さな話かもしれませんが、戦い方というものがいかに重要かという点を、この小学三年生の子から学びました。私は彼に「最後尾にいたとき怖くなかった?」と聞いたところ、彼は「怖かったよ」と答えました。やはり、「このままずっと後ろの方だったらどうしよう」という思いはあったようですが、それでも自分がすべきことを確信し、自分がやる通りにやって結果を出した。小学校三年なのになかなかこの男やるな!と、思いました。とても感動しました。
このように私たちは、自分のなすべきことをしっかりと主の示される中で受け取り、それをどのように地上的には怖い局面があったとしても、信じて実行しなければならないのではないでしょうか。
では最後に、ギブオンでなされた和睦というのは、何が当てはめられるでしょうか。これはこれまでも語られている「被造物との和解」ということではないでしょうか。ギブオンになされた「和睦」という手段を私たちは現代の霊的戦いにおいては、被造物との和解と捉えて、人間的な側面だけでなく、全ての領域に対して主の計画を実行していかなければならないのではないかと思います。
人間は選ばれた存在ではありますが、単体では何もできません。生命活動に適した条件が全て整えられているおかげで、人間は生きることができています。また、地の産物を摂取することでエネルギーを生み出すことができます。これら全ての人間以外の被造物、一般的に言えば自然界全体に対しても、クリスチャンが正しい視点で管理しなければなりません。
時間の概念について物理学の観点からも学んでいますが、もう一つ「熱力学第二法則」、いわゆる「エントロピー増大の法則」というものを学びたいと思います。
エントロピーとは、物事の乱雑さ、無秩序さを表す指標です。この法則は、この地上では物事は放っておくと、どんどん乱雑な状態になっていくというものです。熱湯を放置すれば、必ず常温に戻ります。これもエントロピーが増大したことになります。ガラスが割れて粉々になることもエントロピーの増大。そして、人間が年老いてしわが増え、体が老化していくこと。これもエントロピーの増大です。
実はこのエントロピーが増大する流れと、この地上で私たちが感じる時間の流れが、同じ方向であるということが言えるわけです。私たちが時間の経過と感じているものは、エントロピー増大の結果を観測して認識しているに過ぎないという指摘もあります。
そこで、主のおこされる奇跡、超自然的な出来事を考えると、通常通りエントロピーが増大する方向ではなく、減少する方向に力が働くことを、私たちは奇跡と言っているのではないでしょうか。
例えば、死者がよみがえることもエントロピーの減少。ヒゼキヤの日時計が十度後ろに戻ったこともエントロピーの減少です。また、バラバラである塩基やアミノ酸がDNAという情報をもとに、秩序のある形で結合される生命の誕生や生命活動の維持は、正にエントロピーの減少であり、不思議であるとされます。
しかし、主を信じる私たちは知っています。この地上の物理法則を備えた方がいること。また、その方はご自分の定めた法則の第一人者であると同時に、その枠組を越えたはたらきをされる方であること。
学問的な領域においても、主の主権を認め、主の栄光のためにそれらが用いられるように今日はその様な視点をも学ばせていただきました。
先ほども触れたソロモンですが、「伝道者の書」の結論部分ではこの様に語っています。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」これが、この世の一番の知恵者が、様々な思弁をし尽くして至った結論です。
私たちも、知性や理性を最大限に用いた上でこのシンプルな結論に至ることが出来る信仰者に成長させていただきたいです。実は信仰はとてもシンプルなものです。自分と主である神との関係、自分にとって神がどういう存在なのかを日々忘れず、常に思い起こさせていただくことです。
信仰は主と自分の一対一です。誰かのために信仰を持つことはできません。二〇二四年、年の終わりにここまで学んできましたが、まだ主を信じる決断をされていない方がいらっしゃれば、良い決断の時かもしれません。いつまでも時が待ってくれると考えない方がいいかもしれません。時が残されていることを当たり前のように思わない方が良いかもしれません。主権者なる主にあなたの地上の時間をお委ねしましょう。そして永遠の視点を与えていただきましょう。
現在、過去、未来、全てを支配している方、そして私たちの霊、たましい、からだのすべてを支配しておられる方を、絶対的な主権者として、お迎えしましょう。そしてまた新しい二〇二五年という領域に向かっていけたら素晴らしいのではないでしょうか。
愛する天の父なる神さま、み名をあがめます。二〇二四年の終わりの時に、私たち一人ひとりがあなたに目を向けることができたことを心から感謝します。この年の終わりに、もう一度私たち一人ひとりが、あなたを主としてお迎えし、私たちの霊、肉、たましい、全人的にあなたの支配、管理のもと、この地上での使命を全うしていくことができるように、新たな力を与えてください。この地上には罪があり、滅びに向かう、そのような自然法則があります。そのなかで私たちの体が絶えず守られ、また新しい命が与えられ、命の主権者であるあなたが今日も私たち一人ひとりに忍耐と寛容と愛を持って接してくださっていることを心から感謝します。私たちはその愛を受け取り、私たちに託されているこの地上の使命を果たすことができますように。敵を打ち破り、主の到来を早めていく、そのような使命を全うしていくことができるように一人ひとりに油注ぎを与えてください。
今日、二〇二四年の終わりに、素晴らしい主のみことばに向き合えたことを心から感謝し、あなたに栄光をお返しして、主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。