まさにイザヤ書9章1節。「暗闇の中を歩んでいた滝元順は大きな光を見た。死の影の地に住んでいた順の上に光が輝いた」という感じです。苦しみの中で、主イエスがキリストであり、私の神であることを実体験したのです。
キリスト教を、決して「宗教」だと思っていただきたくないです。「転ばぬ先の杖」と言いますが、「自分1人でやっていける」と思ったら大間違いです。人間は強そうに見えて、弱いです。特に男は、強がっていてもポキッと折れる可能性があります。でも主イエスを知っているならば、励ましを受けることができる。そして「やがて会うことができる」という希望を抱けるようになります。
私は牧師ですから、以前から「主イエスを信じたら死後の世界もあるし、復活もありますよ」と語ってきました。しかし、どこかピンときていなかったようにも思います。でも今は、はっきりと実感しています。家内は今も天で生きているんだ、と。だから、クラプトンと同じような気持ちがあります。「家内と天で出会ったら、俺の名前を覚えていてくれるかな」「変わらないままでいてくれるかな……」と。
私が1人残されたということは、やはり強くならなければならない、生き続けなければならないのです。まだ残された使命が私にはあるからです。この歌の最後にはこうあります。 「扉の向こうにはきっと平安はある。そしてわかっている、もう天国には涙はないのだ」
『Tears in Heaven(天国の涙)』というタイトルですが、結びは「天国にはもう涙はない」となっています。やがて私自身も、涙のない国で、皆と一緒に住むことができるようになる。これが聖書の究極的ゴールです。
新城教会は今年で75年名。その歴史の中で、多くの方々が天に帰られました。今や「天の教会のほうが人口が多いんじゃないか」というくらいです。私の家内を含め、天に帰られた方々が今何をしているのか。聖書は教えています。
ヘブル人への手紙 12章1節 「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」
新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、ギリシャ語には「雲」という単語が2種類あります。それは「ネフェレ」と「ネフォス」です。ネフェレは、空にぽっかり浮かぶ輪郭のはっきりした雲。対してネフォスは、空全体を覆うような「雲塊(雲の海)」を指します。著者がここで選んだのは「ネフォス」です。
これは何を意味するのか。天を見上げたら、隙間がないほど、先に帰った先輩たちがびっしりと地上の私たちを見守っている。「ものすごい圧力」を感じる言葉だと言うのです。「天と地が一つ」。これがキリスト教の真理です。
時々、雲塊を見ることがあります。これからは、「これは天の聖徒たちが私たちを励ましている象徴だ」と捉えたらいいと思います。
ここで「競走」という言葉が使われています。ギリシャ語では「アゴーン」。英語の「アゴニー(激しい苦痛、苦闘)」の語源となった言葉です。それはトラック競技のような爽やかなイメージではなく、レスリングやボクシングのような「死力を尽くした戦い」を意味します。
私たちは今、ただ走っているのではなく、悪との戦いの只中にあります。そんな私たちを、先に帰った聖徒たちは、雲塊のように取り囲んで応援してくれている。「順、頑張れ、頑張れ!」と。天と地は決して離れていません。
「死者と会えたらいいな」と思うかもしれません。でも、ボクシングの試合中に「家族はどこかな?」なんて客席を探したら、一発でノックアウトされてしまいます。応援団の姿が見えないということは、人生がそれほどの「死闘」であることの証明です。
聖歌201番に『キリスト・イエスを基として』という賛美があります。サムエル・ストーンが1866年に作った『The Church’s One Foundation』という曲です。その4番にこうあります。
「この世と天にわかれ住めど、み民は聖き神にありて、ともに交わりともに待てり、キリスト・イエスの来る日をば」
当時、聖書を批判的に扱う思想が出てきて、教会が混乱していた時期でした。ストーンは「教会とは何か」「信仰の土台は何か」を教えるために、使徒信条の「聖徒の交わり」を解説する為にこの曲を書きました。「死を超えた教会の一致」を宣言しているのです。
単に過去を懐かしむのではありません。未来の「キリストの再臨」に向かって、天と地が声を合わせて進んでいるというダイナミックな希望が歌詞には込められています。
私たちは地上で孤独に戦っているのではありません。死は終わりではなく、住む場所が別れただけ。主によって繋がり続けています。天にいる聖徒も地上にいる私たちも、同じ完成を待ち望んでいる「チームメイト」なのです。今日、私たちが知らなければならないのは、そのような霊的な環境の中に生きているということです。やがて私たちは顔と顔を合わせて、再会できるはずです。
この3年の間で、そのことを知らされたことを本当に感謝しています。クリスマスのテーマである「暗闇の中の光」。死の影が覆った人生を吹き飛ばしてくれたのは、他でもないイエス・キリストです。
クリスマスは、単に「赤ちゃんのイエス様」を見る時ではありません。死を滅ぼして復活し、今も生きておられるイエス様に目を留めなければなりません。そして、やがて主イエスがこの地上に帰ってこられるという「ゴール」を見据えましょう。
トランプ政権になり、ペンタゴンでもクリスマス会が開かれたというニュースが最近ありました。フランクリン・グラハムという伝道者がこう語っていました。 「クリスマスはベイビー・ジーザスに目を留めちゃいけない。今も生きている主イエスを見ましょう。そしてイエスはやがて帰って来られる。まもなく帰ってこられるのではないかと私は感じている」
私も同感です。今や、主イエスが帰ってこられないとどうにもならない時代になりました。私は願っています。自分が死んでから家内と会うのではなく、生きている間に主イエスが帰ってきて、家内も共に帰ってきて、地上で迎えることができたら最高です。
私の孫の一人は、霊的に敏感なところがあって、近頃こう言うのです。 「じいじ、なんかイエス様が帰ってくる日が近い感じがする……」 私はあまり感じないのですが(笑)、彼は感じるらしいです。「どこで感じるの?」と聞くと、「学校で勉強してるとき」だそうです(笑)。本当かどうか分かりませんが、いいなと思いました。
また、彼がつい最近、家でゲームをしていたら、ソファの横に「イエス様とばあば」が座っていたと言うんです。「ばあば、どんな顔していた?」と聞いたら、「満面の笑顔だった」と言っていました。
苦しみも悲しみもないところに入った人たちは、決して遠い存在になったわけではありません。今、満面の笑顔で私たちを応援しています。それを知ったなら、残された人生を力強く生きることができるのではないでしょうか。
最後に、皆様の祝福をお祈りさせていただきます。そしてアンコールに応えてもう一曲歌っていただき、クリスマスを感謝したいと思います。
祈り
主イエス様を自分の救い主として迎え入れる祈りは、とても重要です。今から私が祈りますので、私の後について声に出して祈ってください。
「主イエス様。今、私はあなたをキリストとして、救い主として、心にお迎えします。私の人生に来てください。私を闇から光に導いてください。主イエス様だけを神として信じ進んでいきます。主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン」