〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ。来て下さい。

誰でも経験しなければならない「死」、常に追いかけられていると考えるのが一般的です。
しかし主を信じる者たちは、死に追われるのではなくて、立ち向かう者たちです。第二の天とは悪魔の支配している領域です。悪魔は、その空間に人々を閉じ込めようとするわけです。第二の天に閉じ込められることこそ、本当の死です。
しかし主を信じる者たちは、イエスさまによって、死をものともせず、死に立ち向かい、第二の天を突き抜けて、第三の天にまで到達できるのです。
誰でも迎えなければならない死、逃げるのではなく、真っ正面から勝負して、勝利を得る者になりたいです。

死を恐れてはいけないのです。先ほども言いましたが、この教会からすでに何百人という人たちが第三の天に帰って行きました。死は絶望で、何の利益もないと一般では考えられています。しかし私たちにとって死ぬことは、「最大の利益」なのです。主を信じる者は、死んだ瞬間、第二の天を貫き、引き裂いて、最も多くの敵を倒すのです。その勝利と共に、神の国に入るのです。
旧約聖書に、サムソンという人物が出てきます。サムソンは死ぬ時に最も多くの敵を倒したと記されています。私たちもまさにその通りです。家内は霊的戦いの勇士でした。彼女は死の瞬間、最も多くの敵を倒し、神の国に凱旋したと信じます。

今年は新城教会にとって、大変重要な年だと先ほども話しました。今年は教会設立、七十周年の記念の年です。一九五三年三月、この街で両親が伝道を開始しました。
前にも何度かご紹介しましたが、その時のことを記録した新聞の切り抜きが残っていました。「豊橋新聞」という新聞社があったみたいです。そこに、「神の國を築く設樂教會」と記事が掲載されました。当時、南設楽郡だったので、「新城」ではなくて、「設樂教會」と名乗っていたのですが、後に新城市になって、「新城教会」と改名しました。新城教会は一九五三年にこの地に植えられて宣教を始め、今年、二〇二三年は七十年が経過したことになります。七十年が経過したとは、聖書的には大きな意味があり、一つの節目です。この二〇二三年は、きっと主が素晴らしい事を成してくださると、私は、期待しています。

この教会の最大の転機は一九九二年の霊的戦いが始まった瞬間でした。そして去年、二〇二二年、家内が召天したりして、「死」というテーマが色濃く重なったのは、最大の霊的戦いの年ではなかったかと思うのです。ある意味、霊的設楽原の戦いみたいな年でした。そして今年、二〇二三年が「七十周年」ということは、何か主が大きなことを計画されている気がしてならないのです。

「七十年」を聖書から見ますと、ユダ王国がバビロンに捕囚となり、七十年目に解放されたという記事があります。七十年は、神が人々を哀れみ解放される節目の年です。
七十年は、五十+二十で現されます。昨年、エリザベス女王が亡くなったわけですが、本来イギリスでは、お祝いの年でした。どうしてかと言うと、エリザベス女王即位七十周年で「プラチナ・ジュビリー」と呼ぶ祝賀年であったからです。ジュビリーとは「解放の年/ヨベルの年」の意味です。七〇年を五十年と二〇年に分けて、五〇年目は「ジュビリー」と呼ばれ、最大の解放をもたらし、利益をもたらす年です。それに二十年をプラスした七十年は、プラチナ・ジュビリーと命名されています。

聖書中で、最も節目の年としてフィーチャーされているのが、五十年ごとに訪れる「主の恵みの年、ヨベルの年」です。それはもっとも重要なテーマです。なぜなら、ヨベルの年は、聖書のゴールである、「イエスさまの再臨」と繋がっているからです。
イエスさまがいつ帰って来られるのかは、隠されていて分かりません。しかし初代のクリスチャンたちは、もしかしたら、今日イエスさまは帰ってくるかもしれない、自分たちが生きている間に帰って来られるに違いない!と信じ、日々、期待して過ごしていたのです。ということは、今を生きるクリスチャンたちは、さらに期待しなければならないのです。
クリスマスは、主の「初臨」です。しかしもう一度、イエスさまは地上に来てくださるのです。それが「再臨」です。
再臨は、ヨベルの年の概念と繋がっています。ヨベルの年とは、五十年に一度訪れる解放の年です。ヨベルの年になると、借金は全てチャラになり、先祖からの土地を誰かに売っても、元の所有者に戻って来ます。奴隷たちは、その年になると解放されて自由になりました。社会の不平等が、すべてリセットされるのがヨベルの年です。

この制度はいつから始まったのかと言ったら、神が天と地を創造した時点から始まったはずです。五十年ごとに時を刻んで、ヨベルの年が行われたはずですが、実際、イスラエルでヨベルの年が祝われた記録を見つけることは出来ないそうです。
いつから始まったのかも分からないから、ヨベルの年を特定するのは難しいのですが、ユダヤ人たちは、神が天地を創造して何年経ったのかに関して、独自の「ユダヤ暦」を持っています。ユダヤ暦によると、二〇二三年は、「五七八四年」になります。「えーっ!地球って、何億年も経っているんじゃないの?」と言うかもしれません。人類も何万年も経っているのではないの?と言うかも知れません。創造を信じるクリスチャンでも、年代に関しては様々な理解があります。ユダヤ人が考えているのは、天地創造以来、五千数百年と言うのです。
しかし現代では、科学的に言って、地球にはそれ以上の歴史があることが確認されていますから、どう理解するのかは意見が分かれる所です。現代のユダヤ教徒たちは、このように理解しているようです。
「神が人間を被造物の管理人として、神の友として、機能を与えたのが五千数百年前。」と言うのです。それが証拠に、それ以前の人類による文明は確認されていないというのです。もしも人類がそれ以前に造られていたとしても、神が人に一つの役割、機能を与えたのは、五千数百年前だと考えています。
その理解によれば、今年は「五七八四年」だと言うのです。彼らが一般的に考えているこの年号を使って、ヨベルの年を計算すると、太陰・太陽暦を使っていたり、バビロンに捕囚されていた七十年は差し引いたりと、複雑な計算手順があるらしいのですが、それを太陽暦に直すならば、「二〇二三年」の今年が「ヨベルの年」であるという説があります。これが正しいかどうかは誰にも分かりません。
しかしもしもそうだとしたら、新城教会七十周年にとって、期待が高まりますね。

地球は第二の天の支配と影響を強く受けています。なぜこの地球に悪いことが多く起きるのですか?病気があるのですか?問題があるのですか?戦争があるのですか?苦しみがあるのですか?神がいるのならば、どうして解決してくれないのですか?地震や津波で大勢亡くなったり、コロナ・ウイルスで何百万人も亡くなったり、なぜ神は助けてくれないのですか?
そのような問いに関する回答がここにあります。第一の天の上に、第二の天、悪魔の王国が君臨しているからです。悪魔の王国の支配と影響が神の国の影響よりも大きければ、第一の天は地獄と化すわけです。
しかし第一の天も、第二の天で暗躍している悪魔たちも、元々は、神の被造物です。ゆえに地上まで貫いて神の国とすることは、神にとって、どうしても成し遂げたいことです。それを成し遂げるために、神は教会を組織されたのです。
主の再臨は、第一の天を覆っている第二の天を打ち破る事によって実現します。再臨とは、第三の天が第一の天にまで完全に及ぶ瞬間です。

天国ってどこですか?「死後の世界です。」この解答はある意味、間違いです。もちろん第三の天までは、神の国の支配が及んでいます。しかし、天国とは、私たちが苦しみ戦っている第一の天に実現するものだからです。これが神が最も望んでおられる天国です。私たちが住んでいるこの場所に、やがて天国は現れるのです。今はちっぽけで、見えないぐらいの神の国が拡大して、見える形で現れるのです。

私の孫の一人に、小学五年生の選生(えりぃ)という少年がいるのですが、二日前に彼からこんな話を聞きました。
彼が、親友の善(ぜん)という少年と、ハンモックに揺られながらゲームをやっていたそうです。すると突然、まばゆい光が現れて、巨大な天使が現れたと言うのです。するとそれに続いて、イエスさまが現れたので、「うわーー!再臨だーー!」と、二人で叫んだそうです。すると、天から無数の天使たちがどーーっと降りて来たというのです。
しかし、そこで目が覚めたそうです。この話は、二日前に彼が見た夢の話でした。かなり鮮明な夢だったそうです。
この夢の話を聞いて、もしかしたら、今年は本当に再臨の年のような気がしてきました、
私たちが経験した戦いは、ただ単に個人的な戦いではなく、新城教会全体の、また、おこがましいですが、日本、世界を含む再臨を見据えた戦いであったような気がしています。今年、主が帰って来られる日が含まれているかもしれませんね。しかしこれは誰にも分かりません。私たちは、その日を目標に、毎日、祈り続けなければいけないのです。この世のことに囚われるのではなく、主が帰って来られる日、すなわち、第三の天まで来ている神の支配を、第一の天にまで引き下ろしてくださるように、心から祈り、戦いましょう。

昨晩、私を除く七名の先生方にメッセージを語っていただきました。メッセージの順番は、毎回、くじ引きで決めます。最初は上條先生、二番目が岡本先生、三番目が開先生、そして雅也先生、充彦先生で、陽介先生、フェルナンド先生という順番になりました。今後印刷されますから、それを読んでいただいと思いますが、事前に、先生方にメッセージを要約してもらい、私のメッセージを加えて、集会後に組み合わせて、預言的メッセージとしました。私は一応、主任牧師ですから、最後に加えました。「順先生は奥さんを失ったから、たぶん主任牧師をやめるだろう」と期待してくださっている方が多いかもしれませんけれど、私もやめようかと思っていたら、先日、岡本先生と上條先生に「ちょっと順先生、来て」と呼ばれて「そういう気持ちを持たないように!がんばれ!」と、はっぱをかけられたのです。だからもうちょっと・・頑張ろうかなみたいなところですが、お祈り下さい。

八人の牧師たちが語ったメッセージを繋げると、まさに、二〇二三年、もしかしたら、もしかする、というような、希望の年になるのかもしれません。断定はできませんよ。私たちの祈り次第です。
今から、それを朗読していただきます。この教会には声優さんがいます。それでは、よろしくお願いします。

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<<二〇二三年、預言的メッセージ>>

今年は「喜び躍る」年となります。それも、ただ踊って楽しかったというものではなく、飛び上がる程の喜びの年となります。恐れず、気力を失わず、戦いなさい。わたしが敵を追い払います。あなたのただ中にいます。わたしもあなたを大いに喜び、安らぎを与え、高らかに歌います。
人間的に誇るものがなくても、わたしを信頼して生きなさい。どこまでも、神に選ばれていることを誇りとし、人に頼るのではなく、争うことなく、心を合わせて賛美し、この地に栄光が現されるよう続けて祈りなさい。
昨年、教会は、大きな悲しみを経験しました。それはまるで、大洪水に見舞われた大地のようでした。しかし、水は引きました。これからは永遠の契約が実現するのみです。あなたがたは、わたしの究極的な夢の実現のために働くのです。わたしは世界が存在する以前に持っていた栄光を奪回し、永遠の契約を実現します。
その為にわたしは「死はいのちを生み出す武器」であることを、あなた方の心に深く刻みました。たとえ病で苦しんでいても、問題の只中で格闘していても、どんな環境でも、わたしが十字架の苦しみと死の瞬間に実現した、復活の勝利を宣言し、悪魔に立ち向かいなさい。先に天に帰った雲のような証人たちも、あなた方を応援し、激励しています。
刈り入れの時がきました。大胆にかまを入れなさい。主の日は近いのです。王なるわたしを仰ぎ見て、幼子から年寄りまで、総力を尽くして立ち上がりなさい。敵の面前で賛美し、礼拝するのです。わたしが敵を裁き、永遠の繁栄と勝利を与えます。
昨年、「布陣を敷け」という号令に応じて、それぞれが役割を果たしました。地上の栄冠のためにではなく、神の国の栄光のために、果たすべき役割を全うし続けなさい。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
神は約束されたことをすべて成就されます。わたしは約束を忘れません。アブラハムとその子孫にカナンの地を約束し、どんなに多くの困難があっても、彼らにその地を返しました。しかも、その働きは今も続いています。
今年は神の約束の成就の年となります。わたしが、この街に教会を建てて、七十年が経ちました。二〇二三年は希望の年です。大きな期待を持って毎日を歩みなさい。なぜなら、わたしはまもなく、あなた方の所に来るからです。