〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ。来て下さい。パート2

2023年1月15日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ヨハネの黙示録 22章20節
『これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。』

イザヤ書61章1節〜2節

『神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。』

ハレルヤ!素晴らしいコーラスを聴くことができ、信仰が強められ、励まされました。もう一度、大きな拍手をしましょう。今年は賛美で溢れる一年であって欲しいと心から願っています。

この時刻、パプア・ニューギニアのラバウルで結婚式が行われています。私の弟の滝元望が参加しています。米谷愛さんという方と、モーゼスさんという現地の方が結婚されました。かなり前から、ラバウル地域の方々と和解の働きが滝元望を中心に、リバイバルミッションの働きの中でなされていました。五年ぐらい前でしょうか、私もそちらに出向かせていただき、地域の方々と、戦争によってもたらされた罪を悔い改めて、一致し一つになりましょうという、大集会に参加させていただきました。
そんな働きの中で、一人の日本人女性が現地の男性と結ばれるのは、大きな意味があると思います。主が和解の働きを前進させてくださっていることを、心から感謝します。
イエスさまが再び帰って来られたら、人種、民族、言語はすべて一掃され、統一されます。もともと神は一つの言語、一つの民族、一つの文化の中に人を創造されました。そもそも「文化・習慣」という言葉ができること自体、人類が分裂した証拠です。しかしキリストによって、このような和解の働きがなされていることを、心から感謝します。

私のために祈っていただいて、本当に感謝いたします。家内が召天して、早、一ヶ月が経とうとしています。多くの方々が心配して祈り、実際的にも助けてくださっていますことを、心からお礼を申し上げます。
私の二人の子どもたちも心配して、近くの孫たちは毎日のように我が家に来て、家中を荒らしてくれています。それも癒しになります。東京に住んでいる孫たちも、よく電話してくれます。
孫たちの中には、ユニークなのもいまして、私に熱心に提案してくれる孫がいます。
「じいじ、話し相手いないでしょう。」と言うので、「あまりいないね・・。」と言うと、「オウムを飼いなさい。」と言うのです。「オウムを飼って言葉を教えたら、話し相手になるよ!」と言うのです。「オウムって。オウム返しで同じこと言うだけじゃないの?」と言ったら、「それでも、癒しになるよ!」と言うのです。「外に行く時には。肩に乗せて行けばいい!」と言うのです。「いや〜、ちょっと変なおじさんになっちゃうよ!」と言うと、「じゃぁ?アニメとか、韓国ドラマに逃げるのはどう?」とか言って、いろいろとドラマのタイトルまで教えてくれて、「絶対これ見て!」とか勧めて、次には、「見た?」とか聞くわけです。「まだ見てない…。」と言うのですが、これも本当に温かい愛です。孫なりに一生懸命、考えてくれているんだなぁと感謝しています。
結婚すれば、どちらかが先に行きますから、結婚されている方々、早かれ遅かれ、私と同じ経験をされますから、覚悟しておいた方がいいと思います。私、人生の中で、結構、悲しみを経験したと考えていました。教会をやっていますから、悲しみも多く体験してきたと思っていました。「悲しみは知っているよ」と自信がありました。父も母も亡くしていますし、妹も一人亡くなっています。だから分かっていると思っていました。
しかし今回、妻を亡くした悲しみと寂しさは、異次元でした。五十年近く一緒にいましたし、色濃い人でしたから、存在が消えますと何と言うのでしょうか、今まで体験したことがない感覚を覚えます。

神さまって、なぜ、人類に喜びとか、悲しみという感情を備えたのかと思います。特に人類は、悲しみを多く体験します。もちろん、チンパンジーなんかも、連れ合いを亡くしたりすると、人と同じように悲しむそうです。人間と同じ感情があるそうです。しかし人の悲しみの度合いは、他とは比較になりません。なぜこのように神は悲しみという感情を備えられたのかと思います。今回私が経験している悲しみや寂しさは、誰でも経験することですから、特殊なことではありません。新城教会には、すでに奥様を亡くされた方とか、ご主人を亡くされた方は、山ほどおられますから、私もその一端を経験させていただいているに過ぎませんが、妻の死による悲しみを体験して、やっと、本物の悲しみを理解できたように感じます。そして悲しみという感情は、実は、大切であると感じています。
どうして大切かと言いますと、神の国が地上に現されるためには、「喜び」だけを強調したいですが、実は、「究極的な悲しみ」も必要ではないかと感じているからです。イエスさまの十字架は、神の国の現れの極みでしたが、そこには「究極的な苦しみ、悲しみ」がありました。
私たちが時に「悲しむ」ことは、神の国の働きの中で、重要な要素でもあるのです。ゆえに聖書には、究極的な苦しみ、悲しみの記述が多いのだと思われます。
聖書は、結婚式に出席するより、葬式に出席したほうが心が良くなると語っています。人生の中で、様々な悲しみに出会う事がありますが、これは私たちを成長させる重要な要素であり、主を信じる者たちにとっては、神の国実現の鍵であるということです。

先ほど読んでいただきました聖書箇所、黙示録は「主よ、来てください。」と、イエスさまがもう一度この地に帰ってくださることを願い、祈っている、聖書の結びの言葉です。世界には究極の苦しみ・悲しみが溢れています。しかし人類最後の望みは、主の再臨です。もう一度、イエスさまが地上に帰って来てくださり、王として私たちを治めてくださることです。

イザヤ書は、イエスさまがお生まれになる、七百年も前に記された預言書です。そこにはイエスさまご自身について預言されています。六十一章一節、二節、続く三節を読みますと、三節、

『シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、』

と語られています。究極的な悲しみから、究極的な喜びに変えられる預言です。それは「主の恵みの年」と関わりがあります。
「主の恵みの年」とは、「ヨベルの年/ジュビリー」のことです。イエスさまの再臨は、ヨベルの年と重なっています。それについては、前回もお話しさせていただきました。

イエスさまが山の上に人々を集めて、神の国の価値観について話されました。それは「山上の垂訓」といって、大変、有名なメッセージです。
マタイの福音書五章三〜四節、

『「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。』

神の国は、「心の貧しい者たちに現れる」と言うのです。心豊かな人にではなく、心の貧しい人の間に、神の国は訪れると言うのです。そしてその説明が、『悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』という言葉です。究極の悲しみの中に、神の国は現されるという意味だと私は理解しています。

時に、教会の中に、共同体を巻き込むような悲しみ、苦しみを体験します。それを教会の敗北だと考えてはいけません。それは恵みなのです。悲しみは、人にとって最も体験したくない領域の一つです。しかしそれは、神の国を引き下ろす、重要な役割を果たすのです。悲しみは、一見敗北のように見えるものですが、そうではなく、新しい扉を開く鍵なのです。
あなたに悲しみはありますか?「私は喜びしかありません!」という方は、聖書から言いますと、ちょっと神の国が遠のいているかもしれません。悲しみがあるところに慰めがあり、神の国は訪れるのです。
教会に来ますと、良いことだけでなく、別に来なければ共有しなくてもいいような、悲しみも共有してしまいます。しかし、その中にも大きな祝福があるのです。

聖書は、どのような書物でしょうか。今朝も、バイブル・リーディングがありました。皆さん、バイブル・リーディングって、すごくいいですよ。その後の解説、毎回、青年会の方々が語ってくださいますが、今朝は私の姪っ子の暁起がやりました。なかなかうまいことまとめていました。
昨日、彼女が私の所に来て、祈ってくれと言うので、何を祈るのかと聞くと、「メッセージを語る」と言うのです。私の代わりにやってくれるのかと思ったら、バイブル・リーディングの解説でした。皆、よく祈って関わっておられますから、みことばの真理が開かれます。

聖書とは、六十六冊の本で構成されていて、執筆者も、年代も、言語も違う、六十六冊の集合書物です。しかしその中に一貫性があるのです。創世記から始まって黙示録で終わるのですが、聖書の研究が進んでいない時代には、一貫性は認めるものの、なんとなくテーマ別に読まれる事が多かったのですが、最近、特に聖書研究が進んで、聖書は全体で物語になっていることが分かりました。
どのような物語であるのかと言うと、「天地創造から、新しい天と地の創造への物語」です。普通なら、全く脈絡がない六十六冊の書物ですが、六つのセクションに分かれると言うのです。
聖書は初めは、「世界の創造」から始まります。
次に、「人間の堕落」を扱っています。人間の堕落は現在も続いています。
三番目には、「イスラエルの物語」が始まります。神はイスラエルを選んで、人類を救いだそうと計画され、始動されたわけです。
そして次は、救い主イエスさまの登場です。先ほども「神さまに委ねましょう」と賛美がなされましたが、神さまとは誰か、イエスさまです。日本だと、八百萬の神々ですから、「神さまに委ねましょう」と歌われると、どの神さまか?と考えるのですが、教会で「神さま」と言ったら、イエスさま以外にありません。「キリスト」とは救い主メシヤのことです。四番目は「イエス・キリストの物語」です。
そして五番目に登場するのが、「教会の物語」です。私たちも聖書の登場人物の一人として、五番目の「教会の物語」に参加しているのです。
ということは、残すところは、「新しい世界の到来」しかないということです。

時々私たちは、「この時代に生まれて良かったな・・」と思います。特に、イエスさまの十字架・復活以後に生まれたから私たちは救われたけれど、旧約時代なんかに生まれなくて、本当に良かったと考えます。また日本の歴史の中でも、縄文時代とか、弥生時代に生まれていたらどうなっただろう・・、現代で良かった、と思います。昔の人たちはかわいそうだ、でも、彼らは遅れた人たちだから、私たちの為に犠牲となるのもしょうがないか・・。みたいに考えます。それは正しい考えではありません。いつの時代に生まれるかは選べませんから、神さまって不公平だなぁとも、思います。しかしそうではないのです。
聖書は一冊の物語で、それぞれの場面で、それぞれに役割があるのです。聖徒たちが神の国の到来のために働いた生の記録が聖書です。
現在私たちは、神の為に生きた多くの聖徒たちの声援を一身に受けて、教会時代を歩んでいます。それも、新しい世界の到来を目の前にして、主の為に働いています。過去の聖徒たちが、真剣に主の為に働いたのと同じように、私たちもまた、真剣に主の為に働かなければいけないのです。

紀元前七世紀頃に活動したダニエルという預言者は、やがてどのような時代が到来するのかについて、主からの啓示を受けました。ネブカデネザル王が見た夢を説き明かしたわけです。それは歴代の世界帝国、バビロニア帝国から始まり、メド・ペルシャ帝国、ギリシャ帝国、そしてローマ帝国の出現を預言しました。そしてその後に、「鉄と粘土が混ざった時代が来たら、この時代はまさしく、神の国の到来の時代」である事を示したのです。
バビロニア帝国は金の頭のような、世界帝国の根源です。今でも世界は、バビロニア帝国の強い影響下にあると思うのですが、巨像の足首は鉄と粘土が混ざった脆弱な構造をしていました。なんとその場所をめがけて、人の手によらずに切り出された小石が飛んで来て巨像を砕き、その後、小石は成長して世界に満ちるという夢の意味を、ダニエルは解き明かしたのです。
これは何を意味しているのでしょうか。小石とは、イエスさまであり、神の国の到来です。イエスさまのお生まれは、小石のようでしたけれど、それが拡大して、世界を治める日が来るのです。そのサインが、国々が鉄と粘土が混ざったような形態になった時であると言うのです。
以前にもお話しましたように、近年、世界の国境線がなくなってきています。以前話題になった「TPP」も、国も、文化も、国力も、言語も、宗教も違っても経済的利益の為には一緒になりましょう!みたいな考えです。TPPだけではなく、世界には様々な国境を越えた枠組みがあって、もはや国という枠組みは薄れてきています。徐々に世界帝国のような様相になって、脆弱な見かけの一致によって世界は成り立っています。それがまさに今の時代です。このような時代が到来したら、「新しい世界の到来」寸前ですよ!と教えています。