〜この地に植えられ70年〜
ここは天の門だ!

ヨベルの年は、主の初臨から再臨までを含む、壮大な霊的概念を含んでいます。その概念を念頭に聖書を読むと、ストーリーの中にその概念が組み込まれているこに気づかされます。
今日のヤコブのストーリーも、そのテーマが組み込まれています。二十八章十六節から十八節

『ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。』

ヤコブは双子の兄、エサウとトラブって、殺されそうになって家から逃げ出さなければならなくなったのです。
彼らはベエル・シェバという所に住んでいたのですが、お母さんの親族の地、八百キロくらい離れたハランに避難することにしました。
今までは裕福な地に暮らしていたのですが、突然、ひとりぼっちになって、荒野を旅してハランに向かいました。道中、猛獣や敵の只中を旅しました。
日が暮れたので、石を枕にして眠ったと言うのです。しかし眠りの中で、彼は不思議な体験をしたのです。二十八章十節〜十二節、

『ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。』

彼は不思議な夢を見ました。

これからどうなってしまうのだろう・・・。先行き真っ暗、辺りも真っ暗。しかしそこで見た夢は、天にはしごが伸びていて、天使たちが上り下りしている光景でした。
 聖書を見ますと、神は時に、夢を通して語られる場合があります。聖書が成立していない時代、神は頻繁に夢で語られました。現代においても、時には夢の中で語られる事もあります。
家内が病気になって、「三ヶ月、四ヶ月の命です。」と宣告されてどん底の時、孫の勝門が夢を見ました。当時彼は四歳になる少し前でしたが、イエスさまが夢の中に現れたというのです。人は神に造られた存在なので、三歳児でも、イエスさまを認識できるのです。彼はイエスさまってすぐに分かったそうです。
イエスさまは彼に夢の中で「ばぁばが治る薬をあげるね。」と言って、薬を家内に手渡していたと言うのです。ちょうど飲み薬の抗がん剤を選択した頃でした。そんなのは飲んでも無駄と言われていたのですが、勝門が見た夢通りになりました。その薬を飲んだら、どんどん良くなって、半年後には癌が消えてしまって、腫瘍マーカーも正常値になりました。あれはまさに、神が与えた夢でした。
ヤコブは天使たちがはしごを上り下りする夢を見たのです。そして続く十三節、十四節、

『そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。』

希望のないどん底で、このような言葉を主からかけられたのです。続いて十五節、

『見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。』

夢と共に主がヤコブに語られた言葉は、我々にも適用される言葉です。
時々、人生の中で、どうしたらいいのかと、行き詰まることがあります。荒野に追いやられて、石を枕に寝なければならないような環境になる事があります。しかしそこにも主は共におられるのです。ヤコブの横には天に届く、はしごがあり、そこを天使たちが上り下りしていて、その上には主が立っておられて、ヤコブに声をかけてくださったのです。
そこで主は、ヤコブに素晴らしい約束をして下さいました。「わたしはどこに行ってもあなたを守ります。」と言われ、「やがてあなたをこの地に連れ戻します。」と約束されたのです。
彼は故郷のベエル・シェバを去って、ハランという異教の地に向かっていました。まさしく波乱万丈の人生になっていたわけです。しかし、「もう一度、約束の地に戻してあげます。」と主は約束を与えて下さったのです。
これはヨベルの年の概念と重なります。

約束したことを成し遂げると主は言われました。神は途中で考えを変えるような人間とは違うのです。そして、「決してあなたを捨てない」と言われたのです。
私はこの箇所を読んで、ヤコブにかけられた言葉は、私に語られている言葉だと信じました。
新城教会、七十年の歴史ですが、まさに七十年を振り返れば、様々なことがありましたし、現在も様々なことが起こっています。しかし、主の約束は変わらないのです。

そして十六節と十八節、ヤコブが眠りから覚めて語った言葉が、今日の主題です。彼は全く希望のない中で、石を枕にしてただ眠っていたのですが、気づいていなかったけれど、その場は、主がおられる聖なる場所であったのです。
彼は一人ぼっちだと思っていましたが、主が共におられたのです。その現実を、夢を通して気付かされたわけです。
夢からさめて彼はこう語っています。

『「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」』

これは「教会」の姿を表しています。教会は、霊的な砂漠地帯の真ん中に建てられるものです。特に日本の教会はそうです。クリスチャンが少なく、日本で教会はなかなか難しいです。皆さんの周りも、ある意味、ヤコブと同じような霊的環境かもしれません。しかし気づかないのですが、「この場所はなんと恐れおおいことだろう、神の家に他ならない」教会は「神の家」なのです。
そしてヤコブは「ここは天の門だ」と言いました。ヤコブの横からはしごが天にまで続いていたのです。
私たちは教会に何気なく集っていますが、教会は第三の天、パラダイスと繋がっている天の門です。
地上では、様々な問題が起こるのかもしれないけれど、我々には天の門があるのです。この門はいつでも主のもとにつながっています。

私たちはただ地上の共同体だけに属しているのではなくて、天上の共同体にも属していると前回のメッセージで語らせていただきました。
エペソ人への手紙三章十五節で、パウロがこんな祈りをしています。

『天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。』

パウロは、教会は共同体であり、大きな家族であると認識していました。しかしその家族は、地上だけではなく、天上にもあることを知っていたのです。それは、すでに主を信じ、先に天に帰った人たちによる、天の家族です。その元は父なる神であることを、パウロは認識していたのです。
パウロは「天の家族、地の家族を包括している、父なる神に祈りをささげます」と告白しています。彼は非常に大きな家族概念を持っていたのです。新城教会七十年の働きの中で、何百人という人たちが、すでに天に帰って行きました。新参者は、私の家内です。死は、決して家族を引き裂くものではありません。地上と天上は、繋がれています。

ヘブル人への手紙十二章を前回も引用しました。

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまつわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。』

ここに「多くの証人たち」が雲のように取り巻いていると述べられています。これは「天の家族」のことを指しています。
前回もお話ししましたが、パウロたちの時代は、ローマ帝国が世界を支配していました。そして大きな街にはこのような、ローマ式の競技場がありました。
 今でも各地に残っています。そこでは様々な競技がなされていました。しかしそれはただのスポーツではなく、残酷な戦いが多かったようです。観衆は殺し合いを喜んで見に行っていたわけです。
へプル人への手紙は、これをイメージして、天上の家族が、地上の戦いを見て応援している姿に重ねています。多くの聖徒たちが地上で戦っている教会の戦いに注目し、声援を送っているのです。
 天上の家族が加わっている天の教会は、「勝利の教会」です。しかし、地上における教会は「戦いの教会」です。勝利の教会に属する聖徒たちは、地上でどのような戦いが繰り広げられているのかに大きな関心を持って、声援を送っています。地上での戦いは、常に、注目されているのです。
地上の教会は、ヤコブが見た夢のように、天とはしごで繋がっています。天上の勝利の教会と、戦う地上の教会は、はしごで繋がっていて、その間を、天使たちが上り下りしながら戦う教会をサポートしています。また天上の家族たちは、アダムとエバから今の瞬間、天に帰った人たちまで、一同に集まって、地上での戦いを応援しているのです。ですから、私たちは勇気を失うことなく、戦い続けなければいけないのです。

それは個人レベルにおいても同様です。ヤコブと同じように、主はどんな場所においても、守り、助けます!と言われます。常にあなたは天と繋がっていて、天使たちはあなたの為に上り下りしながら、あなたの人生をサポートしています!
主は約束したことを決して反故にしたりしません!必ず成就しますよ!と約束しておられます。
常に地上においては激しい戦いがありますが、主は私たちの傍に立って、今後も助けてくださるのです。

主は、七十年前に新城に教会を建てられました。七十年経った今、街全体を教会としたいと願っているはずです。街全体にはしごをかけて、天の門の街になるように、働き祈りなさい!と語っておらます。
私と家内は、時折、新城市全体が見渡せる山に登って祈っていました。
新城市にはしごが下りて来て、天使たちが上り下りし、天の門となるように、神の家となるように、今後も祈り続けたいと願っています。

先週の日曜日の午後に、愛知県民の森で祈り会がありました。またあると思いますから、是非とも、県民の森に行って、お祈りしてみて下さい。
私たち一人ひとりが天の門ですが、神は特別な場所を用意しておられます。
そもそもイスラエルの神殿とは、以前にもお話ししたように、「特殊空間」でした。安息日に人々が神殿に集まれば、神がそこに降りてきて、神が人と出会う特殊空間でした。神は天と地が出会う場所、神殿を地上に設定されたのです。新約時代になって神殿の概念は、個人にまで拡大しているのですが、最初の概念は、変わったわけではありません。ゆえに「教会堂に集う」ということは、すごく重要です。「ネットだけでいいんじゃない?」という人もいます。もちろん、ネットもいいです。ネットも神の家です。しかし皆で、同じ空間・場所に集うのはすごく大切です。同じ空気を吸う、ウイルスがいるのではないかという心配もあるかもしれませんが、多少、危険を犯しても共に集まる時に、そこに主が降りてくださるのです。そのような霊的法則があることも、知らなければいけないですね。

同時に、主が降りてこられる特別な場所が地域にあるわけです。新城全体が神の家であり、天の門ですが、そんな中でも特別にはしごが下ろされる場所、それは、私は県民の森だと思うのです。
愛知県民の森で一九七〇年ぐらいから祈りが始まって、私も家内と本当によく祈りに行きました。
あの県民の森には、はしごがあると思います。天使が上り下りして、聖霊を注ぎ、祝福を注ぐ場所だと信じています。ですから、たまには愛知県民の森に来て祈ると、教会よりもさらに祝福をいただくことができます。是非とも来ていただきたいと思います。

先週、私は県民の森に行ったのですが、ちょっと悲しいことがありました。ちょっとと言うより、本当に悲しいことがありました。なぜなら、祈りの広場に薬の殻みたいのが、落ちていたからです。それが、私と家内がよく祈っていた場所に落ちていました。そこで祈っていて、奇跡が起きたので、飲み終わった薬の殻を感謝と共に埋めて、もう二度と飲まなくてもいいようにと、家内が埋めた場所でした。それがこの頃の雨で、薬の殻が地表に出てきたようです。拾ってみたら、まさしく、家内が埋めた薬の殻でした。
それが長雨で姿を現していたわけです。ちょうど孫の選生と架語がいましたから、「ちょっと来て」と呼んで、見せたら、二人ともたいへん悲しんで、涙を流していました。ばぁばがかつて飲んでいた薬の殻を手にして、私もたいへん悲しく、複雑な思いになりました。一度は癒やされたのに・・、今はいません。もちろん三年四ヶ月も生きてくれたから、良かったのですが、残念だったなぁ・・・と寂しく思いました。
祈祷会の最後に、聖さん式の時間がありましたので、選生と架語と私の三人で、その場所で聖さん式を行いました。ここが天の門で、ばぁばは一度は癒やされたのに、死んでしまった・・・。
選生が土を深く掘って、「二度と出てくるな。」と宣言して、薬の殻を再び埋めました。寂しかったです。