〜この地に植えられ70年〜
思い煩いをすべてゆだねよう

ヨーロッパにおいて、「良心」とは、三つの側面があるとして、論議されてきた歴史があるそうです。第一にそれは、「自己との対話(内なる他者との対話)」だと言うのです。
内側には、自分意外の自分が住んでいるのではないでしょうか。そのことに関して、パウロも語っています。
ローマ人への手紙七章二十二〜二十三節、

『私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。』

自分では、神に仕えたいと願っているものの、一方では、神から離れて悪さをしたいという、悪い思いもあります。本当に人とは複雑な存在です。
まず最初に、もう一人の自分との対話が必要なのです。しかしながら、先ほども話したように、現代は自分で物事をなかなか決められない社会なのです。ゆえに自分の内側のもう一人の自分と向き合い、対話が出来ないのです。
私たちが将来、幸せに生きるためには、神と良い関係を築かなければなりません。そのためには、もう一人の自分との戦いに勝利しないといけません、

新しい年度になって、社会に出て行き、様々な環境の変化に、いろいろ葛藤が起こると思われます。罪の誘惑もあると思います。そんな時、人の意見とか、周りの環境とかではなく、自分自身に勝利しなければいけないのです。
自分の内側の古い性質に勝利するために、真剣に自分と向き合い、神に祈ることが必要です。新しい年度に向かって、武装し下さい。

今の時代は、自分自身との対話ができていない為に、社会的な「他者と共に知る」という領域もうまく機能しません。自分と向き合っていない人が外に出ても、他の人を受け入れることはなかなか難しいのです。
「私って、なかなか人を受け入れることが不得意で・・・。」という人がいるかもしれませんが、自分自身を聖霊によって、受け入れないと、他者を受け入れる事が難しいです。

そして最後に、最も大切なことは、「神と共に知る心」です。これこそが「良心」と訳してもいい言葉です。神さまは良い方で、完璧なお方です。「あなたの重荷を委ねなさい」とか、「あなたの計画を委ねなさい」とは、神とともに知る心に属する領域です。
新しい年度を迎えて、新しい環境のすべてにおいて、神と共に知る、神と共に考えることが重要です。
そうするならば、神はあなたの未来に働き、計画は揺るがないのです。

旧約聖書にエリシャという預言者が登場します。彼は神と密接に通じていた人でした。
列王記第二の六章を見ますと、こんなストーリーが出ています。六章八〜十一節、

『さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」』

アラムの王がイスラエルを攻めようとして、秘密裏に「この道を通って、イスラエルを攻めよう!」と、綿密な計画を立てて兵を送ったら、なんと、すでにイスラエルはその計画を知っていたかのように、待ち構えていたのです。それが一度や二度の事ではなかったと言うのです。
アラムの王は怒って、「絶対に内側にスパイがいるに違いない!スパイは誰だ!」と激怒したわけです。
その時に家来の一人がこう言いました。六章十二〜十三節、

『すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。』

ある家来は知っていたのです。「預言車エリシャが、神と通じていて、王が何をするのか分かるんだ!」と。
エリシャは地獄耳ではなく、天国耳を持っていて、敵がどこから攻めてくるのかを、事前に主から知らされていたのです。
しかしアラムの王は、「それならばエリシャをやつけてしまえばいい!」ということで、「エリシャがどこにいるのか調べろ!」と命令したのです。
いろいろ調べたところ、ドタンという場所にいることを突き止めました。
それでアラムの王は、夜のうちに、エリシャが住んでいるドタンを包囲したのです。
六章十四〜十五節、

『そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。』

朝起きたら、エリシャはアラムの軍勢に取り囲まれていたわけです。エリシャの弟子のゲハジが外に出てみたら、なんとアラムの軍隊が山に満ちて、まさに、エリシャは絶体絶命の状態でした。
しかしエリシャは何と語っているのかというと、六章十六〜十七節、

『すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。』

ここに二つのコントラスト、対比があります。アラムの王は、人間的な知恵と情報を使って、エリシャがどこにいるのかを調査して、エリシャの将来を制御しようとしました。彼は人間的な方法でエリシャを包囲したのです。また、それを見たエリシャの弟子も同じでした。現実を見て、大変恐れました。

しかしエリシャは、そのような状況でも、全然、恐れませんでした。彼は神と共に考え、共に知っていたからです。神に対する百パーセントの信頼関係があったのです。人間的に起こるであろう出来事よりも、もっとすごい神の軍隊が満ちている現実を見ていたのです。
その結果、どうなったのかと言ったら、アラムの軍隊は捕まえられて、サマリアまで連れて行かれてしまったというストーリーです。
アラムの王は、ただ自分の知恵と、地上の情報だけに頼り動いたのです。斥候を遣わし、「今エリシャはドタンにいる。」・・これは地上の情報です。しかしエリシャは、天の情報で動いていました。その結果、エリシャは大勝利を体験したわけです。

現代においても同様です。特に今の時代、地上の情報が溢れていて、その情報さえつかめば未来は安全だという錯覚に陥りやすいのです。しかしその結果は、決して完璧ではありません。
私たちもエリシャと同じように、神にすべての重荷を委ねて、神の計画を受け取るならば、決して、未来は揺るぐ事はありません。

新しい年度が始まる前、「あなたの重荷を主に委ねよ!」と主は語っておられます。皆さんの重荷を、すべて主におゆだねしてください。
しかし委ねていると思っていても、委ねきれない時代の中に生きている事も、よく理解し、その領域を祈りによって勝ち取る必要があるのです。
神の働きは、我々が全く予測できない偶然と思われる中に起こされます。ですから、新しく出発するお一人お一人、決して偶然を恐れないでください。将来が見えないのを恐れないでいただきたいのです。そここそ、神が働かれる現場であるからです。

それだけでなく、もう一つ、忘れてはならないことがあります。それが「悪魔に立ち向かう」ことです。それを忘れてはならないとペテロは語っています。神にすべてを委ねると共に、敵であるサタンに対して、挑戦しなければなりません。その時、未来は開けるのです。

今朝は、自分は大丈夫だと思っているようでも、大丈夫ではない現実に気づかれたかも知れません。結構、支配されている事を、私も気づかされました。未来を制御しようとしている自分の姿にも気づかされました。私はせっかちですから、時間のかかる事をたいへん嫌って、簡単に答えを求めてしまうのです。
しかし案外、神さまは長い期間をかけて、答えをくださることが多いです。
Google検索のように、一秒か二秒後に答えが来ればいいですけれど、すぐには答えをくれないかもしれません。しかし、粘り強く祈っていくことが大切です。

一度、立ち止まって、悪しき支配の中に陥ることがないように、全幅の信頼を主において歩んでいきたいと願っています。

四月九日は復活祭です。復活祭の祝福のために祈っていただきたいと思います。復活祭は、イエスさまが十字架について、死んで、葬られて、三日目によみがえるという、普通では考えられない結果です。
イエスさまは死んで、敗北のように見えます。しかしその後起こったことは、誰も考えもしなかった、よみがえりでした。一般では、絶対にコントロールできない死という問題を、イエスさまは勝ち取ってくださったのです。
ですから、死を打ち破ったイエスさまとともに、私たちは未来を歩んでいくことができるのです。
最後に一言お祈りをさせていただいて、メッセージに代えさせていただきます。

天の父なる神さま、み名をあがめます。今日は二〇二二年度、最後の日曜日です。様々な不安があります。しかしそのような見えない、将来が分からない中に、あなたは働いておられますから感謝します。
悪魔が真剣に、神のスペースを削ぎ落としています。主よ、どうか奪われることがないようにしてください。科学技術に振り回されることがないようにしてください。アーメン!

しばらく、ご一緒に、お祈りしたいと思います。我々の生活の予言者は科学技術ではない!と、主が私たちの神である!と宣言して下さい。
今週Google検索をしたとしても、決して、神の働き場を奪われることがないように、エリシャと同じように、神と直結して歩むことができるように、祈っていきたいと思います。しばらくの間、新しい年度を念頭において、お祈りの時を持ちたいと思います。