〜この地に植えられ70年〜
思い煩いをすべてゆだねよう

2023年3月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順

ペテロの手紙 第一 5章7〜9節
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。』

詩篇 55篇22節
『あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。』

ハレルヤ!
「Mori band」の演奏、素晴らしかったですね。新城教会出身のミュージシャンたちのために、祝福を祈ってあげてください。

今日は二〇二二年度最後の日曜日です。今週からは新しい年度が始まります。やはり少し緊張しますね。新しい年度、特に最近は先が読めませんから、不安になるかもしれません。

今日読んだ始めの箇所は、ペテロの手紙第一五章七節から、九節でした。その中に、

『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。』

とあります。
はっきり言って、私には、結構、思い煩いがあります。なんと言っても、三ヶ月前に家内が天に帰り、ひとりぼっちになったからです。徐々には慣れてきましたが、あまり先のことは考えないようにしています。これから、どうなってしまうのかと、ちょっぴり心配です。
一人の孫はいつも私に、「じいじ、死ぬなよ・・。」と言ってから帰ります。そう思われているのかぁと思います。人間は誰でも、いつかは死にます。このくらいの歳になると、いつ死んでもおかしくないので心配みたいです。人は永遠について準備しなければならない存在です。
先週、礼拝の中でサプライズがありました。私にもう一人の孫がこの秋に与えられるという、話でした。彼らは私にだけ秘密にしていました。周りは、みんな知っていました。少し様子がおかしいとは思っていました。なぜなら、私の所に赤ん坊時代の孫たちの写真が送られてきたりして、少しずつ、私に対する啓蒙活動がなされていたからです。それで心の準備はなされていました。嬉しいことですが、少し寂しいですね。なぜなら、家内に新しい孫を見せることができないからです。

去年の今頃、家内はこんなに元気でした。自転車で県民の森まで行きました。私のほうが付いて行くのが大変でした。私は普通の自転車、家内は電動自転車だったからですが、自転車で往復したぐらい元気でした。本当に人生は分からないものです。
私も、将来のことを考えると、やはり不安です。

しかし聖書は語っています。「あなたの重荷をすべて主に委ねてください。」と。「神があなたのことを心配して下さいます。大丈夫です。」と励ましています。

『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』

「委ねよ」とは「丸投げしたらいい」ということです。不安があったら、神さまにすべて丸投げして下さい。
しかしもう一つ必要な事は、「悪魔に立ち向かう」ことです。様々な思い煩いや問題は、敵が関わっています。思い煩いをすべてお任せし、同時に、悪魔に立ち向う姿勢が必要です。
ヤコブは「神に従い、悪魔に立ち向かいなさい!そうすれば悪魔は逃げ去ります!」と語りました。

しかし神に委ねているつもりでも、実は、委ねきれない社会に住んでいる事に気づく必要もあります。気づいているようで気づいていないのです。今朝は、委ねきれない社会に住んでいることに、気づかされたいと願っています。そして、その領域に働く敵に立ち向かうならば、未来も変わるはずです。

現代は、聖書が書かれた社会とは、全く違うことをまず認識しなければいけません。先ほど読んだ詩篇の言葉は、今から三千年ぐらい前の言葉です。今の時代とは、全く環境が違います。
明日から二日間に渡り、「霊的戦い専門課程」があります。今回はハイブリッドで、会場に来られる方々と共に、配信も行われます。先週もその為に、いろいろと準備をしていたのですが、YouTubeで、ある大学の講義を聞きました。そこで、なかなか示唆に富んだことが語られていました。霊的戦いの視点でこのテーマを捉える必要があると感じました。そこでは、現代人の特性について語られていました。

第一に現代人は「偶然を嫌う」というのです。それも偶然を極端に嫌い、偶然を制御しようとするというのです。また、時間がかかる事を極度に嫌い、インスタントな答えを求めていると言うのです。
スマホを使っておられますか。スマホを使えば、二秒後くらいに、心配している事柄の解決策が提示されます。スマホで得られる情報は、一口で言えば、将来起こりえる偶然を防止する情報です。
また現代人は、自分で意思決定しているように見えても、自分では決めていないというのです。例えば、「美味しいものが食べたいなぁ」と思ったらどうしますか。
私が大学生の頃、おいしいラーメンを食べるためには、どこの店が一番美味しいのか、地域のラーメン店を全て食べ尽くしたものです。そして、どこの店が一番うまいと、自分の足と舌で決めました。
しかし最近では、ちょっと検索すれば、食べログや口コミ情報で、「このお店がうまいですよ。星がいくつ付いていますから・・。」という情報が得られます。それで、ほとんどの人がその情報に基づき店を選ぶというのです。
これは、自分が欲していないものを選んでいるのだと指摘されていました。自分が実際に食べたわけでもなく、誰かの舌が判断したのを信じて選んでいるわけです。現代人は、他者の欲求に振り回されているのです。便利なように感じるかもしれませんが、知らないうちに、現代社会、他者に操作されているのです。現代人は、「他者の欲求の一部になることによって、自分の安定を得ている」というのです。

それらを突き詰めれば、現代人の神は科学だというのです。科学を神として崇拝しています。そして、科学技術が、未来を予測する予言者のような役割です。
そんなこと、あまり意識せずに、ネットを使っているかもしれませんが、ネット情報によって、将来起こり得る偶然を、かなり制限できるわけです。
「便利な時代に生まれて良かったなぁ」と思っているかもしれませんが、実は、他者の意思によって決定づけられ、行動していることに、気づいていません。自分があるようで、自分ではない世界に住んでいるのです。

ということは、将来の不安を神に丸投げしているようでも、丸投げ出来ないのです。なぜなら世界は、科学を神とし、技術を予言者としているからです。これでは神が働こうとしても、働く余地がありません。

現代人が信奉する科学の本質は、「推論と制御」にあると言うのです。近代科学の父は、ガリレオとニュートンと言われます。特にニュートンは、十七世紀の人物ですが、万有引力の法則を発見し、近代物理学の父とも呼ばれています。
彼のどこがすごいのかと言うと、りんごが木から落ちるのを見て、万有引力の法則を発見したと言われますが、この法則が地上だけでなく、宇宙にも適用されることを証明したからです。太陽の周りを地球は回っているわけですが、そこにも万有引力の法則は適用されるのです。
地上の法則と天の法則が同じであると主張するのは、リスキーな時代でした。なぜなら、地上には人間の世界の法則があり、天上は神の法則が支配していると信じられていたからです。

「地上の法則と天上の法則が同じ」とは、宇宙を造った神の秘密を、人が見破ったことに他ならないのです。ということは、科学技術をどんどん発展させるならば、最終的に、人は神の世界にまで入り込み、神になれる!とまで考えたのです。人間側で未来を数式化してしまえば、科学技術が予言者となり、神に成り代わってしまいます。
科学は推論と制御ですから、一つの公式が分かれば、未来にどこに行き着くのか、予測できます。
例えばペットボトルで作ったロケットでも、法則を当てはめれば、どこまで飛ぶのか分ります。ということは、未来の予測が可能なわけです。
時々、北のほうからミサイルが飛んできたりしますが、あれらも物理法則の中で、どこに飛ばすのか制御しているのです。
このように、科学全盛の世界に住んでいると、誰でも無意識に、様々な人生に起こってくる事柄を、必要以上に制御したいと考えるようになるというわけです。それは、信仰の世界にも多大な影響を与えます。

話の中で面白いことが語られていました。昭和の時代、大変有名になった映画がありました。ご存じでしょうか。「君の名は?」という映画というか、初めはラジオ番組でした。歳を取った方ならば、だれでも知っていると思いますが、春樹と真知子という人物が出てくるわけですが、東京大空襲の夜、見知らぬこの男女がお互いに助け合って、東京の数寄屋橋にたどり着いたという話です。
そして、もしも半年後、お互いに生きていたら、この橋で再会しようと約束するのです。お互いの無事を願いつつ、別れ際に、春樹が女性に、「君の名は?」と聞いた途端、空襲警報が鳴り響き、爆弾が落ちて、その音にかき消されて、名前も分からずに別れてしまったのです。
そして六か月後。春樹は、この女性と会うために、数寄屋橋に行ったのです。しかしその女性は、とうとう現れませんでした。その後も、いろいろとすれ違いや、偶然が重なって、なかなか会えない日々が続くわけです。
その映画を見た人たちは、手に汗握りながら、成り行きに心をときめかせたのです。偶然とすれ違いが、大人気作品を産みだしたのです。
しかしもしも、これが現代社会ならば、このストーリーは、始めから成り立たないというのです。
彼らの間に、もしもスマホがあったら、偶然はなくなります。数寄屋橋で「携帯番号教えて?LINEアドレス教えてくれる?」と交換したら、「君の名は」という感動的なストーリーは、まったく成り立たないわけです。半年後、どちらかが数寄屋橋に来れなくても、電話連絡すれば良いわけです。空襲のときだから、インフラが破壊されたとも言えますが、現代ならば、このストーリーは全く、ドラマでもなんでもありません。

ということは、神さまも、どこで働かれるのかというと、予測のつかない、偶然の中に働いてくださるということではないでしょうか。
スマホやネットで将来を予測できる社会は、知らないうちに、神が働く領域を削り取られているのです。

“現代のように携帯電話やスマホがあったら、「君の名は」のようなストーリーは、初めから成り立たない。ドラマは偶然やすれ違いの中に生まれる。
現代社会は神が働く領域を、加速度的に喪失している。その背景に、日頃、恩恵にあずかっていると思っている「最先端技術」がある。現代人はコントロール可能な、予測可能な人生を必要以上に求めている。”

私もそうですが、なんとか自分の知恵や知識、技術を駆使して、未来を予測しコントロールしたいと願っています。
今朝のバイブルリーディングも、まさに、私が語ろうしているテーマが語られていて、びっくりしたのですが、「神の奇跡を体験したければ、偶然に身をさらせ!」ということです。

考えてみれば、私が結婚に至ったストーリーを以前、お話ししましたけれど、偶然が重なった中で、主が働いて下さいました。それで私は、家内と結婚できました。
私たちは最先端の科学技術の中にどっぷりつかって生きていますが、それに流されるのではなく、神が用意されている偶然の中に身を置き、先の見えない中に主が働いてくださるよう、祈る必要があります。
今週、Googleで検索する時、是非、祈ってから検索してください。その結果にも、主が働いてくださるようにと祈り、使用して下さい。
しかし人生は、いくらコントロール・制御しようとしても、できないことが多いのです。

明治時代になって、外国から新しい文化と概念が多く入ってきました。それで、それらを日本語に翻訳する作業が必要となりました。江戸時代まで日本は、儒教的な社会でした。しかし明治になって、儒教的な社会にはない文化や習慣が入ってきたのです。
そんな中、原点の意味とは違った形で訳され、使われている言葉の一つが、「良心」という言葉だそうです。英語では「conscience」と言います。この「良心」という言葉は、日本語だったら「良い心」と書きます。しかし元々、良心という言葉の中には、「良い、悪い」という概念は、全く含まれていないというのです。
conscienceは、ラテン語から来ているようですが、元々はギリシャ語で、「シュネイデーシス」という言葉でした。それは、「共に知る・共に考える」という意味だそうです。それを明治時代になって「良い心」と訳してしまったのは、元々の概念から大きく外れているというわけです。