〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
さあ、み国を受け継ぎなさい!

『もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。』

とレビ記十九章三十三節に記されています。今、日本には多くの海外からの方々が来られて、日本を支えています。しかし同時に、様々なトラブルも発生し、しいたげられています。在留異国人を愛してください!というのが、聖書の勧めです。これが神の国に通じる、大きな道なのです。

来週、新城教会の何人かが、韓国からの方々も加わって、済州島にとりなしの祈りに行きます。
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済州島は九州の西に位置する韓国領の島です。ここにとりなしに行くのですが、かつて済州島に起こった「四・三事件」について知っている人はスイッチオン。ほとんど、知らないかもしれません。
一九四八年から五四年までに、ここで数万人の島民が虐殺されました。私は一九五一年生まれですから、私の幼少時代、日本のすぐ側で数万人が殺されたのです。その根本的な火種となったのが、かつての朝鮮半島に対する、日本の帝国主義支配でした。ほとんど日本では教えませんから、知らないのです。そのことに関してとりなす必要を主から知らされた人たちが自費で、日本から、韓国から、済州島に集まって祈ります。神の国が来るように祈ります。これはマタイ二十五章の実現のために大変重要です。このような働きのために、もっと、時間とお金を使わなくてはいけないと思います。

さて「隣人」とは、英語では「neighbor」と言います。「neighbor」の語源は、「near(隣)」「next(次)」です。
日本語は「隣人」で、「人」が入るのですが、英語だと「人」は入りません。ただの隣、近くという意味です。
これは何を表しているのか。聖書は何を語っているのかというと、「隣人」とは、動物とか植物を含む、「被造物全体」を指すものです。
日本語には、「人」が入ってしまって、被造物が隣人から閉め出されています。実際はすべての被造物は愛する隣人であると聖書は教えています。

今日の午後から、被造物と一緒に賛美するプログラムが持たれます。ぜひ参加してください。これはイエスさまに奉仕する機会です。ちょっとしたことが永遠に関わることになります。何を優先順位とするか、重要ですね。
最近プロテスタント教会の中にも、「聖書の教える隣人とは被造物全体を包括している。」との理解が広がってきました。それはクリスチャンでない領域からの批判と指摘によって変わった面があります。
一九六七年に科学誌「サイエンス」に、リン・ホワイトが掲載した論文が一つの発端となったと言われます。「生態破壊、自然破壊の中心はキリスト教にある。キリスト教の人間観、世界観こそが問題だ!」と、ものすごい批判をキリスト教会に浴びせました。その批判を受けて、世界の神学者たちが、聖書をもう一度見直し始めたと言われます。

新改訳第三版と最近発刊された新改訳2017の訳を比べるとニュアンスが少し違っています。例えばマルコの福音書一章十三節、第三版だと、イエスさまが四十日間荒野においてサタンの誘惑を受けた時、「野の獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた。」となっています。ここから受ける印象は、恐ろしい獣がイエスさまの周りにいたけれど、み使いたちが獣に「あっちに行け!近づくな!」と、イエスさまを守っていたというニュアンスです。
しかし新改訳2017だと、どうでしょうか。「イエスは野の獣とともにおられ、み使いたちが仕えていた。」と訳されています。こうなると、野の獣が味方的雰囲気になります。聖書学の中で、被造物に対する見直しがあるからです。
私たちが被造物も「隣人」である!と理解し、被造物のために愛と力を費やすことはすごく重要です。

『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

自分の幸せではなくて、他人の幸せのために働くのは重要です。新城教会では七年ぐらいに渡って、ネパールの山の中で奉仕をしました。ここに行っても、何も得することはありません。しかしこのような行動が大切なのです。
イザヤ書六章八節では、

『私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

またネパールとかの働きが始まったら、大変そうだな、汚なそうだなと思わないで、これがイエスさまに奉仕することだ!と、体力のある方は出かけてください。私もちょっと目が良くなったので、もう一度行けるかな?みたいに思っています。今週の手術にかかっていますけれど、行けるかもしれません。

でも、「私は行けない!」という人も心配しないで下さい。今の時代は、自分が行かなくても、「遣わす」システムがあるからです。それは何かと言ったら、これです。
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あなたはだれを遣わしますか?今日、ギデオン協会の聖書、私たちが配布しなくても、誰かを遣わせばいいのです。自分が行かなくても、諭吉を遣わせばいいのです。諭吉さんはたぶんこう言っています。「私を、必ず、遣わしてください!」と。樋口さんも、「私もご一緒しますわ!」と言っています。しかし二千円札は、「私を見つけたら、ぜひ遣わしてください!」と言っているのではないでしょうか。そして野口さん、「私を一人では遣わさないでください!」と言っていると思います。
今日は、ギデオン協会のための献金です。あなたが聖書贈呈に行かなくても、西村さんたちはじめ、多くの方々がその働きを担ってくれています。我々はただ、これらのうち誰かを遣わせば良いわけです。献金は経済を支配する悪霊からの解放です。「諭吉よ、行って来い!」「樋口さん行ってきて!」「野口さんたち、動員する!」みたいに遣わす時、それがいと小さき者たちを支えることになり、これが最も重要な働きに繋がるのです。

今日家に帰ったら、もう一度、マタイの福音書二十五章を最後まで読んで下さい。今から聖さん式が行われます。聖さん式は、パンとブドウのジュースをいただくわけですけれど、これこそ、いと小さき者のために奉仕してくださった、王の究極的な姿です。
イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって、十字架にかかって死んでくださいました。

『感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。』

イエスさまご自身が、自ら、見本となってくださり、その働きがどんなものであるのかを身をもって示してくださったのです。

今から聖さん式を行います。マタイ二十五章三十一節〜三十四節、特に、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』という、みことばを私たちも実行しようではありませんか。その時に死の恐怖さえ消えるのです。
一言お祈りして、今から聖さん式の時とさせていただきます。

父なる神さま、み名をあがめて、心から感謝いたします。イエスさま、あなたが教えられたみことばを実行したいと願います。まずはイエスさまが私たちのために命を捨ててくださり、私たちのような小さき者たちのために、犠牲となってくださったことを心から感謝し、み名をほめたたえます。
今日、パンとぶどうのジュースをいただきます。この時、天の教会が下りてきて、地の教会と一つになりますように。私たちもイエスさまと同じように生きることができますように。尊いイエスさまのみ名を通して、祈りをみ前におささげいたします。アーメン。