〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
さあ、み国を受け継ぎなさい!

ある晩、聖書を読んでいたときに、どこからともなく「マルチン!」と呼ぶ声が聞こえたのです。振り返って戸口の方を見たけれど、誰もいませんでした。
彼は寝床に入って眠りにつくわけですが、夢の中ではっきりと再度「マルチン!」という呼び声が聞こえて、「明日、往来を見ていなさい。わたしがあなたの家に行くから。」という、不思議な夢を見たわけです。彼は目を覚ましたが誰もいなかったという、ストーリーは語るまでもないと思うのですが。

翌朝、早く起きて、マルチンは祈ってから、窓際で仕事を始めて、一日中往来を見ていました。神々しい神が降りてきて、「よっ!」とか言って、マルチンの家に来るのではないかと、楽しみにしていたのです。すると神が来るどころか、隣家の商人に雇われているスパーヌイチ、スーパーマルイチみたいな名前ですが、老人がやってきたと言うのです。彼は雪をかく力もなく、疲れたようにたたずんでいたそうです。マルチンは彼を店に招き入れて温まらせて、お茶を何杯もご馳走したというわけです。
そしたら今度は、みすぼらしい身なりの女性が子どもを抱いてやってきて、窓のところにたたずんでいるではありませんか。神さまが来るというのに、なぜ、こういう人ばかり来るのかな?と。しかしマルチンは飛び出して、彼女を店に招き入れると、温かいシチューとパンを食べさせて、その上、帰るときには二十カペイカ銀貨と袖なしの上着まで与えてしまったというわけです。
彼はもうすぐ神さまが訪問してくれると思って、まずは先に来た人たちを歓迎したわけです。

さぁ今度こそ、神さまが来るかなと思ったら、次はリンゴの入ったかごを持った老婆が立ち止まるのが見えた。そのかごを置いた瞬間、ボロ着の男の子がやってきて、そのリンゴを盗もうとした。怒った老婆は子どもを捕まえて殴ろうとした。慌てて駆け寄ったマルチンは老婆をなだめて言うのだった。「聖書の中には莫大な負債のある小作人が主人から赦してもらった話がある。自分たちはお互いに赦し合わなくてはならないのではないか。」そんなふうに諭すと、老婆はすっかりと優しくなって、男の子も素直に老婆の背負っていた袋を代わりに背負って二人は仲良く帰って行った。

そんなことをしているうちに、一日が終わってしまいました。マルチンは店を閉めて聖書を読もうと、昨夜革の切れ端を挟んでおいたところを開いた。しかしどうしたわけか、別のページが開いてしまった。同時に、昨夜の夢がはっきりと思い出された。そのとき彼は誰かが後ろに立っているような気配を感じ、そしてこんな声がしたのである。
「これはわたしだよ。」と、老人が出てきて消えた。「これもわたしだよ。」暗い片隅から赤ん坊を抱いた女が出てきたのです。そしてにっこり笑って消えてしまいました。「これもわたしだよ。」と声がして、老婆とリンゴを手にした男の子が出てきてにっこりしたかと思うと消えていったわけです。
なんと神は、貧しい、いと小さき者たちの姿で、マルチンに現れたのです。その人たちを世話したことが、神である王を世話したことに他ならなかったという話です。

マルチンは眼鏡をかけて聖書を読み始めた。そして、マタイの福音書二十五章四十節に目が留まった。
『これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
その時、マルチンはまさしくこの日、彼のところに主が来られたことを知ったのだった。「愛のあるところに神あり。」という小話は、このみことばから作られたのです。

イエスさまと出会いたかったら、神の国に入るためには、小さき者の友とならなければいけない。これはイエスさまが語られた言葉です。大変重要だと思います。
トルストイは「人生論」も書いています。読まれた方もおられるかもしれません。「生命とは何か。幸福とは何か。ロシアの大文豪にして、大思索家が到達した究極の哲学的考察」と紹介されていましたけれど、彼は主イエスと出会った体験から、「人生とは何か。幸福とは何か。また命とは何か。」を深く考えて、聖書に基づいて人生論を展開したのです。そして彼の到達した境地は、やはりマタイの福音書二十五章四十節に集約されるのではないかと思われます。
彼はこんなふうに語っています。
“愛とは「他の存在を好ましく思う感情」のこと。”
皆さんに愛はありますか?他の存在を好ましく思う感情、これが愛だというのです。人間は面白いです。自分以外を好ましく思う心があるからです。すぐ思い出す愛は、男女の恋愛みたいな感情です。しかし彼は続いてこう語っています。
“愛の実践とは、自分ではなく、他の存在の幸福のために生きることであり、それは世界との関係を築く活動である。”
「愛」とは名詞ではなく、動詞だとよく言われますよね。愛に実践が伴わなければ、何にもならないわけです。愛とは、自分ではなく他の存在の幸福のために生きることだと言うのです。

最近、離婚が増えたりして、社会が混乱していますが、先日、ある人が、あるおばあちゃんにインタビューしていました。戦時中、戦前って、あまり離婚とかなかったわけです。「おばあちゃん、どうしてあの時代の夫婦は離婚しなかったの。最近はなぜ、すぐに離婚しちゃうんだろうね?」と聞いたら、そのおばあちゃん、こう答えていました。なかなかうまいこと言うなぁと思ったのですが、「この頃の人たちは、この人と結婚して幸せになろうと期待して結婚するから良くないんだ。私が結婚した頃は、この人と一緒に苦労を共にしようと覚悟して結婚したもんだ。」と答えていました。多少自分の幸せにそぐわなくても、苦労を共にするために結婚したのだから、我慢できたと答えていました。
トルストイの到達した境地にも、また、聖書の世界観にもよく似たものがあります。
愛の実践とは、自分ではなく、他の存在の幸福のために生きることであり、それは世界との間に関係を築く活動である、とトルストイは語りました。ここで「世界」という言葉が出てきます。愛には大きな世界観が含まれるわけです。あなたは他者の幸福のために、世界の幸せの為に、生きなければならないと言うのです。
私たちが自分の幸福のためではなくて、誰かの幸福のために行動し始めると、人生は変わるのです。試してみたいですね。自分が幸せになるためというのが世界の行動の原理です。しかし本来は逆で、他者が幸せになるために、生きなければならないのです。この考え方を世界中が持ったらどうですか。ウクライナとロシアの戦争なんか、一瞬で終わります。世界中の紛争もすべて解決します。
そうすると何が起こるのか、彼は人生論の中で、
“そうすれば、あなたの望む幸福が与えられるだろう。”
と告げています。これは事実だと思います。

パウロも同じ事を話しています。パウロが自分の行動の中心軸にしていた理念は、使徒の働き二十章三十四〜三十六節、

『あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきであるということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。』

と語っています。パウロはイエスさまと直接会ったことはなかったと言われるのですが、ここで『主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた』と、話しています。イエスさまがどこかで語られたのを誰かから聞いたのか、イエスさまの生きざまそのものでしたから、学んだのでしょう。パウロはいつも、弱い者を助けなくちゃ!と考えていました。そして、受けるよりも与えるほうが幸いだ!という理念を持って、人生を送っていたわけです。ゆえに彼は多くの人たちに恵みを与える働きができたわけです。

トルストイはこんなことを言っています。“そうすれば、あなたの望む幸福が与えられるだろう。”に続いて、“死の恐怖すら消滅するであろう。”と言うのです。弱い者を助け、他の人の幸福のために生きるようになると、死の恐怖すら消滅するであろう。なかなかの飛躍のように感じるけれど、聖書が教える愛を貫くと、死の恐怖すらなくなるのです。
彼は自分の体験から、このことを話しています。彼には一人の兄がいて、すごく彼を愛していました。兄は軍人で、ある時死んでしまうわけです。トルストイは兄が亡くなって、打ちひしがれたのですが、そんな中、彼はどういう境地になったのかと言うと、
“兄の生前よりも、兄の死後の方が、兄に対する輝きが増した!”
と言うのです。ということは、「愛の中で、死は、もはや死ではない」という結論に達したわけです。
私、この言葉を読んで、何となくわかる気がしました。死んだ家内のことばかり話すと、ある人に怒られるかもしれませんが、私の家内が生きている時、家内が居てもあまり気にしなかったけれど、死んでからの方が、毎日、気になります。兄の生前よりも兄の死後というか、妻の生前よりも妻の死後の方が妻に対する愛の輝きは増した!もはや死はない!彼女は今も私の内に生きている!という体験をしているわけです。それは神の愛の中で体験できることです。

トルストイはこう語っています。「イエスを見てみろ。イエスは地上で三年半の公生涯を送ったが、死後のほうがずっと多くの人を輝かせている。イエスは死後のほうがもっと有名になった!」と。
イエスさまは今でも生きておられます。ということは、主を信じる者たちにとって、決して、死は死ではない!のです。彼の主張は正しいのです。
“愛は幸福をもたらすだけでなく、死の恐怖すら消滅させる。”

自己愛が強い社会に住んでいますが、私たちは、イエスさまを王とし、仕える生活をしなければいけないのです。そのためには、いと小さき者の友となり、他者の幸福のために働く事です。そうしたら、気がつけば自分も幸福になると教えています。

ある時、律法の専門家がイエスさまに、「どうしたら永遠のいのちを自分のものとして受け取ることができますか?」と質問したとき、イエスさまの答えは、二つでした。一つは、「神を心から愛しなさい。」と、二つ目は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」でした。
そこで語られたのが、良きサマリア人の話でした。ある人がエルサレムからエリコに下る道で強盗に出会ったという話です。これはどういう話か。突き詰めると、隣人を愛するとは、隣り合って住んでいる異民族を受け入れる事に繋がります。なぜなら、これは対立するユダヤ人とサマリア人の間の話だからです。もちろん「お隣の人」という意味合いも含みます。しかしもっと大きな概念を含んでいるのです。
どうでしょうか。日本で教育を受ける中で、知らないうちに隣り合って住んでいる異民族を受け入れるどころか、拒否するような気持ちが形作られてしまいます。サミットでも、中国にどう対処したらいいだろうかという話し合い中です。それは敵対関係です。
また北朝鮮をどうしたらいいのか・・・。そして最大の議論はロシアです。これらは全て、日本の隣に住んでいる異民族を互いに受け入れられないところから発生しています。日本と韓国も、最近まで距離がありましたけれど、少しずつ近寄ってよかったと思います。
知らないうちに、私たちの心の中に、インプットされている異民族に対する苦々しい思いや、無批判に拒否する態度が、神の国を遠ざける大きな要因になっているのです。
ユダヤ人もサマリア人を受け入れることができませんでした。今でもイスラエルに行きますと、壁があります。壁の向こうには昔のサマリア系の人たちの血を引く人たちが住んでいます。案外、「あれ?」と思うようなことが、終わりの日に神から指摘されて呆然とするかも知れません。そんなこと、全く考えもしなかった!と。「隣の民族と、うまくいかないのは当然だ。そんなこと、まさか罪じゃないでしょう!」みたいなところが、実は、神の目から見たら最も大きな罪であり、神の国の実現の必須事項であったけれど、気にしていなかった!みたいなことが多くあるのかもしれません。日本の世論も、国際情勢も、神の国の視点とは反対方向に振れています。このようなときにこそ、私たちはもう一度、身の回りを点検しなければいけません。