〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
さあ、み国を受け継ぎなさい!

2023年5月21日(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイによる福音書25章31節〜34節

『人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。』

ハレルヤ!
先ほどの賛美、すごかったですね。本当に喜びにあふれていました。心の底からの賛美を感謝します。
私のために祈っていただき、心から感謝します。家内が天に帰って、来月で早、半年になります。私には、白内障と緑内障があって、妻を亡くし、目も悪いし、これからどうなるのか・・みたいなところがあったのですが、一週間ぐらい前に右目の手術を受けました。受けて良かったです。今週、左目の手術があるのですが、よく見えるようになりました。私の右目は矯正でも〇・二ぐらいしか見えなかったのですが、今、裸眼で〇・八まで見えます。車も一年ぐらい運転していなかったのですが、運転できるようになりました。今度は左がうまく手術できたらいいと思っています。皆さんのお祈りによって、支えられていますことを、心から感謝しています。

「この地に植えられ七十年」と一口に言いますが、新城教会、よくぞここまで守られたと思います。先人達の熱い祈りと信仰によって、ここまでやってくることができました。イエスさまが帰ってこられるその日まで、信仰を受け継がなければならないと思います。

先週は一つ嬉しいことがありました。一人の方が洗礼を受けられたからです。清水達子さんという、九十三歳の方です。清水さんの娘さんは、設楽町の設楽教会の牧師夫人、菅沼志保さんです。彼女はこの教会で、約五十年前にクリスチャンになりました。
すると親から大反対されて、勘当されたのです。その後、何年も家に帰ることができなかったそうです。しばらくは新城教会の屋根裏部屋みたいな所に隠れていたらしいのですが、その後は、関東に就職して、帰りたくても帰れない涙の日々が続いたそうです。
しかし彼女は、両親の救いのために、毎日、真剣に祈ったそうです。すると数年前、お父さんが亡くなる前に、イエスさまを受け入れて、天に帰られたそうです。しかしお母さんはなかなかクリスチャンにならなかったみたいです。しかしこの度、イエスさまを信じて、洗礼を受けられました。
お母さんが入所しているグループホームが新城市のすぐ近くにあるので、設楽町まで行くのはなかなか大変だから、ぜひ、母教会の新城教会で洗礼を受けさせてくださいということで、洗礼式を持たせていただきました。
主は真実なお方です。日本において、信仰を保つのは戦いもあります。しかし『主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます。』とあります。
最近、家から追い出されても信仰を貫くようなスピリットが、昔の信仰者に比べて、少し甘くなっているのかもしれません。一度信仰を持ったら、なにがあっても貫き通したいですね。

今日読んでいただいた聖書箇所、家に帰ったら読んで下さい。マタイの福音書二十五章を最後までお読み下さい。これはイエスさまが語られた、確実な言葉です。

『人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。』

と語られました。私たちが過ごしている時間軸の延長線のどこかに、このことが起きるのです。
アダムとエバから始まって、人類最後に生まれた人に至るまで、歴史上のすべての国々から、神はすべての人々を呼び出して、羊飼いが羊とやぎを右と左に分けるように、二つの集団に分類するからです。

西洋人は、東洋人と違って「個人主義的」だと言われます。自分で決断する傾向が強いです。それとは違って、東洋人、特に日本人は、自分ではなかなか物事を決められません。左見て、右見て、みんな一緒に行動しましょう〜みたいな考えです。しかしヨーロッパやアメリカは個人主義的です。その背景に、キリスト教文化が関わっていると言われます。
人は誰でも一人で生まれ、一人で死んで行きます。そして、このみことばにあるように、たった一人で神の前に立たなければいけないのです。その時、父も母も、兄弟も、友達も、誰も助けられないのです。一人で神の指示に従わなければならないのです。「あなたは右!」と言われたら、「羊グループ」、「おまえは左!」と言われたら、「やぎグループ」です。

この箇所はあまり強調したくないのですが、事実ですから仕方ありません。四十五節、四十六節、

『それから、王は左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。』

これが事実ならば、何が何でも、右側の羊グループに入らないといけないですよね。
どうでしょう。あなたが今、主の前に立ったら、右ですか?左ですか?
<>
この絵を見ると羊が左側になっていますが、あくまでもイエスさまから見て右側です。家族から迫害され、勘当されたって、右側グループに入ることが不可欠です。何があっても、信仰を貫き通しましょう。

しかし右側に入るキーは何か、それは『それから、王は右にいる者たちに言います。』とありますが、イエスさまを自分の王とするか否かです。
あなたの王は誰ですか。「自分が王だ!」なんて言ってはいけません。私たちの王はイエスさまです!宇宙を造り、支配しておられる王、それはイエスさまです。イエスさまを王とするならば、右側グループに入ることができます。「私の王はイエスさまです!」と、大きな声で宣言してみましょう。
「私の王はイエスさまです!」皆さんは右側グループです!
やがて誰もが体験する、厳粛な日が来ます。神は人類の歴史を放っておかれることはありません。どこかで終わり!という日が来るのです。その日にどちら側に着くのか、それが最も重要なことです。

今日は、聖さん式礼拝となっていますけれど、伝道礼拝も兼ねて、最近、教会に来られた方々の為にもお話ししています。

神の国の実現のために、イエスさまは続けて重要なことを語られました。神の国に入るのは大変だと思うかもしれませんが、右側グループの人たちに対して、三十五節から読みますと、

『あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときときに訪ねてくれたからです。』

と語られました。右側の人たちは、王であるイエスさまがお腹が空いているときに、食べさせてあげたと言うのです。喉が渇いているときに水を飲ませてあげたみたいです。また、イエスさまが旅をしているときに、泊まらせてあげたり、裸の王さまに服を着せたり、病気の王さまを見舞ったり、囚われの王を牢に面会に行ったと言うのです。
その結果として、右側に行くことができたというわけです。信じられない事です。
これを聞いた右側グループの人たちは、ちょっと混乱したみたいです。そのはずですよね。王さまにこんなことが起こるはずがないからです。

『すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

なんと、右側グループの人たちは、王だとは知らずに、王に親切にしたというのです。しかも王なるイエスさまは、どんな姿で現れたのかというと、『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』と語られました。

現在、ロシアという国が問題になっています。G7で話し合われている事柄のほとんどが、ロシアに関してです。広島は原爆を食らった街で、「平和」がテーマです。その中にゼレンスキーが来るのは、なんとも複雑です。西側諸国から武器援助を引きだそうとして来るわけですから、矛盾を感じます。ロシアに勝つためには致し方ないのかもしれませんが。
今やロシアは、世界の無法者になっています。しかし国民全体が悪いわけではないのです。プーチンは悪いですけれど、歴史を見ると、ロシアは精神的に、世界に良い影響を与えた国でもあります。特に「大文豪」と呼ばれる人たちが排出された、心豊かな国であることはご存知だと思います。

十九世紀のロシア文学を代表する文豪、トルストイについては誰でも知っています。彼は名作をいくつも残したのですが、晩年になって、彼は、文芸は何よりも、キリスト教を土台としたものでなければならないと、一般の民衆がよりよくキリスト教について理解できるように、「民話」という形式で文学を展開しました。その中の有名な民話が、「愛のあるところに神あり」です。日本では「靴屋のマルチン」という題名で知られています。本来の題名は、日本ではあまり強調されていないです。
トルストイは、マタイの福音書二十五章四十節、

『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

彼はかなりストイックな人物でした。この言葉に、感動して、人生をかけ、貫きました。
このストーリーはすでにご存知だと思うのですが、案外ストーリーの前半部分はあまり知られていないのかもしれません。

ロシアのある町にマルチン・アフデェーイチという靴屋が住んでいました。彼は誠実な靴職人でした。しかし、若くして奥さんを亡くし、カピトーシカという子ども一人が残されました。マルチンは大切にその子を育て、やがて父の手助けをするようになったのですが、まもなく、その子も病気になって死んでしまったと言うのです。

どうでしょうか。奥さんを亡くし、最愛の一人息子さえも亡くしたならば、相当ショックを受けると思います。彼は嘆き悲しんで、神さまに文句を言い、彼はロシア正教の信徒でしたが、教会に行くこともやめてしまったのです。それから彼は、自堕落な生活になってしまったのです。
そんなある日、マルチンの所に一人の老人が訪ねてきたのです。マルチンはその老人に、「何の望みもない。早く死にたい」と訴えました。そうしたら老人が、「自分たちには、神の仕事をあれこれ言う権利はない。」と言いました。
人生に、いろいろな事件が起こってきます。私も、マルチンの気持ち、分からないわけではありません。なぜ、俺の奥さんは早く死んじゃったのか?みたいなところが実際、あります。しかし人生の中で、「神さま、私に何をするんですか!」みたいに言う権利は人にはないと言うのです。
さらに老人は、「神に命をいただいたんだから、神のために生きていかなければならない。」とマルチンを諭したのです。そして、「君が本を読むことができるならば、福音書を読みなさい。」と勧めたのです。新約聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書ですよね。そこには、神のために生きるにはどうすればいいのかが記されていると伝えました。マルチンは行き詰まっていたから、福音書を読み始めたと言うのです。

“そこでマルチンは聖書を読み始めた。すると、読むごとに心が安らかになり、彼の生活が変わった。ぴったりと酒をやめ、朝から決まった時間働くと、ランプを手元に置き、聖書を読んで寝るのが習慣となった。”

人生に問題があったら、問題を横に置いてまずは聖書を読んでみてください。特に福音書を読んでみろと、老人は勧めました。心を落ち着けて読んでみて下さい。マルチンはそれで変えられたわけです。