〜この地に植えられ70年〜
主イエスよ来てください!
あなたは愛されています!

 

イエスを信じる者たちは皆、神から愛されている者たちです。その原点を、創世記一章に見ることができます。

一章二十六節、二十七節、

 

『神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。』

 

キリスト教は一神教です。神はただお一人です。しかしここを読むと混乱します。『「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」と、複数形になっているからです。キリスト教って、一神教じゃないのか・・、日本と同じ多神教か?みたいに思うかもしれません。しかしこの表現はヘブル語においては、主語が複数でも、動詞は単数だそうです。また、あまりにも偉大な人物を表現するためには、単数では表現しきれないので、古代の表現法として、主語に複数を使用したそうです。神はお一人だけれど、複数以上のすごいパワーの持ち主ということを現しています。

 

その神から、人は特別扱いされているのです。しかも複数形で表現されている神の姿に似せて造られたのです。『われわれの似姿に造ろう。』と、単数では現せない神に似せて造られたわけです。そして『すべてのものを支配するように。』と大きな役割も与えられたのです。

 

私たちは聖書を読むとき、現代人の文脈で読んで、しばしば意味を曲解してしまうことがあります。

この箇所は人が創造された経緯ですが、この時点においての人類は、動物と比べて大差ない存在であった事を忘れてはなりません。アダムもエバもいっさい衣服をまとわぬ裸でした。当時、人類は文明も、道具も科学技術も一切持っていませんでした。インターネットなんか当然、ありません。車も武器も一切無く、動物の方がむしろ能力が高いぐらいでした。動物は鋭い牙や毛皮を持っていて、餌だって容易に取ることができたはずです。今の人類の視点で読んでしまうと、人類がすべてを支配して当然だ!みたいな感覚で読むのですが、この時点では、人とは儚く、弱い、動物と比べても、劣るような状態だったわけです。

にもかかわらず、神は人類に対して、特別の言葉をかけ、役割を与えておられます。それは神が人間に対して、特別な思いを込めて、創造されたからです。

『神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。』と書かれています。

 

近年、性別について様々な議論がありますけれど、性別として神は、「男と女」しか造られていないのが聖書の主張です。そのことをよく押さえておく必要があります。

 

今から約三千数百年前、創世記はモーセによって書かれました。この箇所の主張は、三千数百年前においては、画期的なものであったと言われます。

聖書は当時の人たちが、どのように読んだのかを、まずは理解する必要があります。現代人の文脈で読むと、大きなミスを犯す可能性があるからです。当時の歴史とその背景を理解する必要があります。

 

『人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。』とありますけれど、「神のかたち」とは、ヘブル語で「ツェレム・エロヒム」です。これは「神の像」という意味です。

昨晩はワカモノワーシップウェーブがあったのですが、平岡新人先生がメッセージを語りました。彼も神のかたち、神の像について語っていました。インターネットでご覧下さい。

人間は、神に似せて、神のかたち、神の像として造られたのです。

 

「神のかたち」という意味は、「目に見えない神を現す存在として」という意味です。以前にも、一度お話ししたことがありますが、次に、「目に見える像として、神の代理人として」という意味もあるのです。

さらに人類は、「愛と正義を持って、全世界を治める管理人として」創造されたのです。

なかなか気づかないのですが、私たちは目に見えない神を現す、代理人なのです。それが事実ならば、すごい事です!天地宇宙を造られた偉大な神の代理人として造られ、愛と正義をもって全世界を治める管理人として働くのです。そんな存在だなんて、信じられないですね。

 

聖書が記された当時、世界帝国と呼ばれる国々が出現した時代でもありました。世界で最初にできた帝国は、「アッカド帝国」です。その帝国の王の名は「サルゴン」でした。

現代は世界に情報を発信することが、いとも簡単な時代となりました。大統領や首相たちも、ツイッターやフェイスブックとかを使用して情報発信をしています。彼らがちょっとつぶやくだけで、世界がその情報を共有します。怖いです。あまりにもSNSが発達しすぎて、うかつなことが言えない世界となりました。現代はAIでいろいろな発言がチェックされています。

アッカド帝国の時代、電話もネットもSNSもない時代、どのようにして広大な地域を支配したのでしょうか。それも一人の王が、この広大な地域全体を支配するのは、至難の業であったはずです。山の向こうの人たちは、誰が王なのか、見たこともないわけです。しかしこの広い地域を支配できたのには、一つの方法がありました。それは、王の像を作って、国境線に置く手法を通してです。誰も見たことのない、サルゴン王の像を作って、国境線に置いたのです。民はその像を見かけたら、「ここはサルゴンが支配している!」と認識したわけです。

その背景を持って創世記は、「神のかたち」と表現したわけです。それは時代背景を知っておられる、神の知恵でした。

 

当時、国々を区切るために、王の像を国境線におき、王の支配を主張しました。当時の人々は「王の像」の意味について、皆、理解していたのです。

同時に、当時は「王イコール神」でした。世界史を勉強してみると、世界帝国の王は、必ず、神として崇められていました。モーセの時代、エジプトのファラオは、エジプト神話の神の化身でした。ファラオ一族は、神々ファミリーでもあったのです。

日本も帝国主義の時代、天皇は現人神と呼ばれていました。

神であり、王であるのは一人だけです。サルゴン王は、神であり、王でした。それはただ一人でした。

 

そんなただ中に、「われわれの似姿に人を造ろう」と、人は全て、神のかたちとして、神の像として創造されたという主張は、時代背景からして、あり得ないことでした。その宣言は、とてつもなくショッキングで、センセーショナルな主張だったわけです。

ここから見るだけでも、聖書の世界観が一般とは異なる、神の知恵によるものである事がわかります。人とは、神から特別扱いされている重要な存在です。

 

当時は、王とその一族だけが特別扱いされて、民は皆、奴隷状態でした。そんなただ中、「人は全員、神から特別扱いされている」というメッセージは、とてつもなく大きなものであったのです。

 

「王だけが神の似姿ではない!すべての人間が『神の似姿』であるという主張!」これは、当時の世界と、全く異質の主張であったのです。そこから考えても、私たちが神に愛され、造られた存在であることがわかります。

 

ここにおられるお一人一人が、神の似姿として機能しているのです。では、クリスチャンは、どのようなところに配備されるのでしょうか。それは、神の国と悪魔の国の境界線に置かれるのです。

「私はクリスチャンになったけれど、戦いが多い。」と言うかもしれません。像が置かれる位置を知ると、戦いが多い理由がわかります。

どこに置かれるのか、それは、神の国のただ中というよりも、神の国と悪魔の国の境目に、神の似姿として配備されるということです。ですから常に戦いを感じるのです。そこは、神の国と悪魔の国の激しい戦いの最前線であるからです。

しかし私たちには、神からの権威が与えられていて、悪魔はその権威を犯すことはできないのです。悪魔は私たちという「神の像」を見るならば、私たちを造られた神を見るのです。

 

私たちは戦いの最前線に置かれて、国境線を押し戻し、侵食するために、戦っているのです。

今、ロシアとウクライナが戦争をしています。最近、ウクライナによる「反転攻勢」が話題になっています。ウクライナがロシアに奪われていた領地を押し戻しています。

私たちクリスチャンも同様です。悪魔の国に対して反転攻勢をかけるのです。

 

悪魔はどのようにして、自分の国境に姿を現すのでしょうか。それは、「悪魔のかたちイコール偶像」を通して現れます。偶像は、悪魔のかたちです。かつて、王の像が王の代理であったように、悪魔をシンボル化し、見えるかたちで現すのが偶像です。それはただの石だとか、金属だとか、物ではなくて、イコール暗闇の力の支配があるわけです。

 

「偶像」を定義するならば、「限定的な存在に、神的要素を与える事」です。石や木や金属は被造物であって、限定的な物質です。それに無限の神的要素を加えるのが偶像崇拝のメカニズムです。

人間も被造物で、有限の存在です。しかし人という限定的な存在に、神的要素を与えるのが、祖先崇拝です。人間なんて死ねば、何の力もありません。それを神と見なすのは、偶像礼拝です。

日本は偶像のただ中にあります。偶像はただの物質ではなく、背後に暗闇の力が働いています。

 

前回、「宗教とは何か」についてお話しさせていただきました。「宗教」というと、教えとか、儀式を連想します。しかし、宗教とはラテン語で「Religio(レリジオ)」、「きつく結ぶ」という、結び目のことを意図します。それが「宗教」という用語の元にある概念だとお話ししました。

エデンの園において、アダムもエバも、別に、神さまときつく結び合わせなくても、神がおられるのは当然でした。

しかし今はどうでしょうか。もちろん神がおられることを信じますけれど、神がおられるのが当然の世界に住んでいるわけではありません。一週間に発信されるニュースを見ると、およそ、「神はどこにいるのか?」と疑いたくなる、悲惨なニュースばかりです。

最近、日本においても銃による悲惨な事件が多く起こっています。信じられないです。

「神はどこにいるのか?なんとかしてくれ!」と叫びたくなる世界に生きています。しかし本来、人類は、神がおられるのは当然であったのです。常時、神と共に過ごす世界に住んでいたのです。

聖なる神の世界と、人類は重ね合って存在していたのです。別に、祈りも必要なかったわけです。祈らなくとも、神は全てを備えておられたのです。そんな世界に住んでみたいですね。

 

普段、空気があることを意識するのか。鼻や口を塞がれない限り、意識しないですよね。「空気をください!」と真剣に祈らなくとも、普通に呼吸しています。エデンの園は、神がおられるのが当然の場所でした。

しかし何が起こったのか。罪によって、神と断絶してしまったのです。

 

今なぜ私たちには、宗教という結び目が必要なのか、それは神の世界と、罪ある世界が断絶しているからです。断絶ゆえに、多くの悪い事が起きるのです。断絶した世界を、聖なる神に結ぶための結び目が必要です。それが、「人や動物のいのち」であって、それが宗教そのものであったと話しました。

創世記四章二節を見れば、初めの人間アダムとエバが罪を犯した後に生まれたカインとアベルは、神との結び目が必要でした。

 

『カインは大地の実り、アベルは自分の羊の初子の中から肥えたものを持って来た。主はアベルとそのささげ物に目を留められた。』

 

と記されています。

これが宗教の原点です。宗教学者って、結構、すごいところに目をつけています。宗教とは何か?それは、儀式とか教えではないのです。宗教の原点は、

 

「人類史的な尺度から見ると、動物供儀を中心とする犠牲の祭儀(供儀)が宗教そのものであった。超越的な世界と人間を繋ぐ媒介として、動物とか穀物が使われた。」

 

これは創世記の記述そのものです。

神の世界と繋ぐためには、動物は罪を犯さないがゆえに、人の身代わりになることができたわけです。人の罪によって、罪のない動物たちが、人の為に血を流さないと、神との交流ができなくなったわけです。