〜この地に植えられ70年〜
未来のために、天に宝を蓄えよう!

2023年2月26日(日)新城教会主任牧師 滝元順

マタイの福音書 6章20節〜21節

『自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。』

皆さん、おはようございます。ハレルヤ!

今のHiraku&Norikoの歌にもありましたが、「鏡に映る自分の姿を受け入れられなくて、着飾ってみる・・・」という、なかなか微妙な、誰のことを歌っているのかと思う歌詞でしたが、人は一生自分の顔を見ることはできません。鏡は虚像です。しかし私たちはやがて、永遠の国で、二度と歳をとらない最高の姿で過ごすことができるのです。それを思えば希望があります。

 

皆さんに祈っていただき、感謝しています。家内が天に帰って、早、三ヶ月近く経ちました。あっという間でした、少しは慣れてきましたが、まだまだ寂しさもあります。最近、寂しい写真を皆さんにお見せしているのですが、これは一昨年、家内と一緒に河川敷に祈りに行った時の写真です。

この頃、彼女は結構、元気でした。しかしこの写真は先週、私が同じ場所に行った時の写真です。ここには、誰もいませんでした。あたりまえですが、寂しいですね。

人生って、一体、何なのかなと、時々思います。人生とは、準備に尽きるのだと思います。三月・四月は、環境が大きく変化する月です。中学三年生の方は、高校に入学したり、高校生の方は大学に、または就職したりとか、様々な環境変化があります。

教会には毎週、「受験がありますから祈ってください!」というリクエストがあって、一喜一憂しています。しかしほとんどの方が、願った所に導かれていることを感謝しています。そのように人生とは、常に、準備の中にあるわけです。

 

「人生はATMのようだ」とある人が言いました。誰が言ったのかというと、私が言っただけですが、それも、送金専用のATMでしょうか。私なんか、老後の準備どころか、すでに現在進行形の「老中」です。そのうち後期高齢者になります。どんどん時は過ぎていきます。準備して、準備して、準備して、やがて人生は終ります。

しかし人生において、最も準備しなければいけない領域に関して、人は準備を忘れています。それは何かと言ったら、「永遠への準備」です。

 

皆さんはどのくらい現実的に、「自分のために」永遠の準備をされておられるでしょうか。

私もこんなことを話していますけれど、家内が天に帰るまで、あまり永遠や天国について考えませんでした。また、死についてもあまり、現実的ではありませんでした。しかし家内が死んでから、永遠の世界への準備をしなければいけないことを、強く感じるようになりました。

やがて私たちは全員、地上から出ていくわけで、本来は真剣に永遠への備えをしなくてはいけないはずです。

 

その為の最も重要な準備は、「主イエスを自分の救い主として受け入れる」事です。それが最大の永遠への準備です。

あなたが信じても、信じなくても、死んだ瞬間、死後の世界がどんなものであるのかがはっきりします。数ある宗教の中で、永遠の世界を、ここまではっきりと提示しているのは、キリスト教しかありません。イエスさまを救い主として受け入れておくことは、人生において、最も重要です。

イエスさまをご自分の救い主として、受け入れておられますか?永遠に救われる条件は、たった一つです。それは良い行いでもなく、様々な修行や努力でもない。イエスを救い主として受け入れるか否かにかかっています。その他、全てができていても、イエスさまを救い主として信じなかったら、残念ながら、永遠の世界が大変になります。

 

ここにおられる、ほとんどの方が、すでにイエスさまを救い主として信じておられると思います。

しかしイエスさまは、「ただ信じ救われて、天国に入れたらそれでいいですよ」とは言われませんでした。

今日読んでいただきました箇所は、マタイの福音書六章です。ここは「山上の垂訓」と言って、大変有名な箇所です。家に帰ったら、是非とも全体を読んでいただきたいと思います。

ここで語られているのは、「自分のために」というテーマです。生きるのも死ぬのも、自分一人で体験しなくてはなりません。教会に来ると、他の人のために生きることを学び、実行します。

しかし同時に、「自分のため」にしなければならない大切なことに気づかされます。

 

今からお話しすることは、「あなたのため、私のため、自分のため」の話です。

マタイの福音書六章十九〜二十節、

 

『自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴をあけて盗むこともありません。』

 

イエスさまの時代、ローマ帝国がイスラエルを支配していました。今のような銀行のシステムはありませんでした。人々はどのように財産を蓄えていたのかというと、いろいろな場所に宝物を埋めたり、壁の後ろに秘密の部屋を作って保管したりしました。お金が必要な時は、宝石類とか、金とか、銀を持ち出して、両替屋に行って、ローマの通貨に変えました。だから現代のように、お金を銀行に預けるのではありませんでした。

人々は、未来の経済の守りのために、宝を蓄えておいたわけです。

しかし当時、盗掘専門の泥棒たちが横行していました。宝が隠されている場所を見つけて、壁に穴を開けて盗んでいました。

この写真は、「ある教会に隠されていた宝を、盗人が壁に穴を開けて盗んで、建物が崩れそうになっている。」というニュースです。

また聖書の他の箇所には、ある人が畑で作業をしていたら、カチンと何かに当たって、それが宝だった。その宝を得るために、彼は小作人だったので、まずはその土地を買い取ってから、宝を手に入れたという話がありますが、同じです。宝を土の中に埋めておいたけれど、様々な社会的変化で、そこに住んでいた人たちが移動させられて、埋められた宝がどこなのか分からなくなって、他の人の手に渡ったという話です。そのような社会的背景と共に、イエスさまは、「地上に宝を蓄えても盗まれます。しかし天に宝を蓄えたら、それは安全です。自分のために天に宝を蓄えなさい。」と語られたのです。

 

皆さんの心は、今、どこにありますか?『あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。』と語られました。心が貯金通帳にあったり、家族にあったり、愛する人にあったり、様々なところにあるかもしれません。しかし、最も関心を払わなければならないのは天であり、「天に宝を積む」ことを、意識しないといけないわけです。さらには、「天に宝を積む」ことに目が開かれない人生は、最大の悲劇でもあるのです。

マタイの福音書六章二十二〜二十三節、

 

『からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。』

 

この意味、私にはよく分かります。私、目が悪いのです。緑内障と白内障があって、五月に手術をします。すごく楽しみにしています。今はくもりガラスみたいで、よく見えませんが、綺麗に見えるようになるという噂です。家内の看病中に見えなくなってきた感じです。

最近、私は車を運転していません。もっぱら自転車です。先週は自転車で豊川まで行って、カレーを食べて来ました。目が悪いと、相手が見えなくて危ないです。しかし最も見えなければいけない相手は、人生の主人です。人には二人の主人候補者がいて、どちらを主人とするかについてです。

 

マタイの福音書六章二十四節は、イエス様が語られたことばです。

 

『だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。』

 

先ほどの「自分のために宝を天に積みなさい」という文脈の流れで、「だれも二人の主人に同時に仕えることはできない」と語られたのです。「仕える」とは「奴隷になる」という意味です。また僕とは、当時の奴隷の身分でした。そんな社会の構図の中で、このことばが語られたのです。

「人生における二人の主人候補者」とは、「神」なのか、または「富」なのかです。二者択一の中に生きるのが人生です。そして両方に仕えることはできないのです。人生の主人は、たった一人です。

皆さんはすでにイエスさまを信じて、神の聖なる奴隷として生きておられるはずです。

 

“イエスが唯一、真の神に対比して挙げたのが、「富(マモン)」であった。そしてこの両方に仕えることはできないと戒めた。言い換えれば、「富(マモン)は神に取って代わって主人となる」ほどの、強力な存在であるということである。”

 

ある所で、このように説明されていました。イエスさまが唯一、神に対抗しうる存在としてあげたのが、他でもなく「富」でした。富とは、現代ならば、銀行に積んである金だとか、宝石だとか、貴金属類、不動産類です。それらはすべて、無機質なものばかりです。それらを百年保管しても、それ自体では何の動きもなく、生産性もありません。そんなものを、創造主なる神と対比すること自体、あり得ません。

しかし、富と訳されている原語を調べると納得できます。それは「マモン」という語が使われているからです。この言葉はカルデヤ方面から流れてきた、富を現す言葉でした。しかしそれは無機質な富ではなく、「経済神」を意味していました。ということは、「富の背後に暗闇の力が関わっていて、その奴隷になってはダメだ。」と戒めているわけです。

唯一、神に対抗しうる存在が「この世の富」であるというのです。ということは、天に宝を積むことが、いかに大切かが理解できます。

 

金の奴隷として生涯を終える人は結構多いです。この世の富ではなく、天国の富に目が開かれることは、たいへん重要です。

もしも私たちの心が常に、地上の富にあるのならば、悲しいことです。

誰でもやがて、地上から出て行きます。家内が召天してから、天国を強く意識するようになりました。

以前、こんな例え話を聞きました。

ある人が天国に行ったそうです。そうしたら豪華な家が建ち並んでいたそうです。天使がその人をガイドしてくれたそうです。「この家はすごいですね!誰の家ですか?」『ペテロさんの家ですよ。彼は主の為に頑張りましたからね。』「これは誰の家ですか?」『これはパウロの家ですよ。』「さすがすごいですね!」

様々な聖書に出てくる有名人たちは、天国で素晴らしい家に住んでいたそうです。

しばらく歩いて行ったら、みすぼらしい工事中の家があったそうです。「ところでこのみじめな家って誰の家ですか?」と聞いたら、『言いにくいですが、あなたの家なんですよ。』「えっ!私の家?なぜ、こんなにみすぼらしいんですか?」すると、『あなたの家をちゃんと造ってあげたかったのですが、あなたが地上から、材料を送ってくれなかったから、ここで止まったのですよ。』と言われて、ガッカリしたという話です。

 

この教会にも来てくださった、鈴木留蔵さんという方がおられました。すでに天にお帰りになりましたが、あの方は日本の信徒代表のような方でした。リバイバルミッションの働きを、よく助けて下さいました。

彼は建設会社を経営していて、たいへん儲けた人でした。しかし、ある経験から、主のために全力で献げる人に変えられました。それを記録した本も出版されています。

変えられたのには、一つの神秘的な体験がありました。

ある日彼は死んで、天国の入り口まで行ったそうです。すると天使が出迎えて、こう言ったというのです。「鈴木さん、あなたの宝が天国にあまりないんですよ。地上には多くの宝があるでしょう。あれらをすべて、神さまのために献げて、天に宝を積んでから、もう一度、天国に来てください。」と言われて、地上に再び戻されたというのです。