初めの愛に

それはみことばにあるように、エペソの教会に、ヨハネの黙示録において語られていることです。ヨハネの黙示録第二章四節五節には、

“けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。”

と書かれています。悔い改めるということと行いということがセットになっています。「そうか、もう一度、沖縄を愛さなければいけないな」という思いを神さまから語られました。

そして今日は一年後です。
エペソの教会はどんな教会だったでしょうか?パウロが長く滞在し、三年間滞在したと言われますが、聖霊のバプテスマを授けることから始まりました。そしてそこには多くの不思議やしるしが伴う宣教がなされました。「神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた」と書かれています。パウロが身に着けている手ぬぐい、それを持って行くと病人が癒されたり、悪霊が出て行くというような不思議なことも起きました。でも、それはパウロの力ではなく、「神は」と書いてあります。主語は神です。
このように不思議やしるしというものは、聖書においてずっと学んでいくと分かることは、主語が必ず「神」です。「神は」パウロの手によって驚くべきわざを行われた。パウロが神の力を使って驚くべきわざを行ったとは書かれていません。聖書のどこでもそうです。神がなさったことでした。
そしてエペソの教会、あの六章では、「終わりに言います。」と霊的戦いということが語られていきます。
このエペソの教会に対して語られたみ言葉から、私たち霊的戦いを進めるこの教会においても、私自身もとりなしの中でも多く学んできました。
でもこのエペソの教会に対して神さまが黙示録で語られたことは、「初めの行いに帰りなさい」ということもあるんだなぁということを、私は教えられました。
これは今日、皆さんにもお届けしなければならないメッセージです。私たちの教会も「初めの愛」に帰らなければならないのではないかと、私は感じています。

最近、新城を歩いていると、自転車に乗った若者たちをよく見かけます。それもベトナムやインドネシアなど、いろんな国の人たちです。私はそれを見ながら、彼らにも福音を伝えなければならないのではないかと思うのです。昔、新城教会にペルーからの人たちが来はじめたとき、私たちは本当に彼らに心を尽くして関わり、インターナショナル部会を持つようになりました。この新城教会は、約三十数年前は外国人に対して本当に愛を持って関わっていたなぁということを思い起こさせられます。私自身も「なんとかあの人たちにイエスさまを伝えられないだろうか」とこの頃思います。


そして、エペソの教会についてめぐって、一つの本を読みました。これはこういう本なのです。「女が教えてはいけないのか」という本です。プレイズブックスに二、三冊あると思うので、もし興味のある方がいればお買い求めください。
いのちのことば社から出ているので過激な本ではなく、神学的に非常にしっかりとした土台を持った本です。第一テモテ二章十一節から十五節には、「私は女が教えたり男を支配することを許しません。むしろ静かにしていなさい」と書かれています。この言葉を主題にしながら、それがどうなのかを考えています。
この本は実は、女性教職や女性牧師ということをこれからもっとしっかり認めていきましょうという内容なのです。「女の人は黙りなさい」という内容ではありません。ぜひ読んでみてください。とても良い本で、でも難解です。一世紀時代の偶像礼拝がどうなされていたのか、エペソの町でどんな神々が祀られていたかなどが克明に書かれています。
あのテモテはエペソに遣わされていて、パウロはテモテに対して手紙を送りました。この中で、エペソの教会が直面していた戦いの現実がわかります。一つはグノーシス主義です。当時、すでにグノーシス主義が確立されていたかどうかは学者の間で議論がありますが、原始グノーシス主義がその当時に存在していたことはわかります。
私たちは聖書の中で「空想話」と書かれている部分を読みますが、これはグノーシス主義の人たちが語ったどうでもいい話です。今で言うと、日本の神話のようなもので、例えば、アマテラスがイザナギだかの左目から出てきた目クソみたいな存在だとか、そういうことです。
そしてまた当時、アルテミスなどの女性神が祀られ、それに仕える女性がいたり、男性が女性に去勢させられて女性になって拝むようにされているということもありました。またエレミヤ書の中にも、二度出てきます。「天の女王」と書かれているようなものと、似通ったもの。「天の女王に犠牲を供え、彼女に注ぎのぶどう酒を注ぐとき」と書かれていますが、それを女がしていたということです。

私たち、エペソ書から学ぶ霊的戦いというと、敵はすごく力強い、男性系のような存在だと思いがちですが、エペソで直面していた霊的戦いの現実は、そういう女性神であったり、またそこに女性が関わっていて、女性がそれに仕えていたというような構造がある中で、このみことばが語られたということを、この本で言っています。
今日、私は詳しく話せませんが、そしてそこで使われている「支配」と訳される「アウスセンティン」という言葉は、実は違う訳ができるのではないかと、この著者は言っています。「私は女性が、自分自身を男性の創始者だと教えることを許しません」と訳し直すことができると言うのです。そうすると随分違うでしょう。皆さんこれまで、「牧師になろう」と言うと、「男性しかなれない」とか思ってやめた方がいるかもしれません。
このエペソの地において、また小アジアの地域において、女性を主たる根源とする考え方がありました。
特に、エバというものが、その母なる神であり、また天地創造の話の中で、エバが中心であるということをグノーシスの人たちは語っていた。アルテミスのみならず、キュベレ、イシスという女性神がエペソとその地方において拝まれていて、グノーシス主義において、エバがアダムよりも先んじて造られたという神話(空想話)が語られていて、エバ信仰というものがそこにあったということです。
そうすると、先ほどのみことばの後に出てくる「アダムが初めに造られ、それからエバが作られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。」といった聖書の言葉の解釈も変わってくるというのです。エバ信仰に対して語っている。

今、現実に、この日本でも、天皇の祖先の神々であるアマテラスを祀る際には、天皇自身が拝むというよりも、種々の祭祀においては、天皇の妹の黒田清子さんが斎主として仕えています。
かつて、伊勢神宮でも斎宮というものがあり、そこに斎王と呼ばれる女性たちがいて、そしてアマテラスに仕えていたという歴史があります。これを見てもわかるように、日本も同じような構造の中にあるということを私たちは知ることができます。
私はこんな中で、女性を巡る霊的な問題があるのではないかと思います。カトリックにおいては、聖母マリアがイエスさまよりも中心になっていることがあります。これはまさにアダムではなくエバが中心となっているという同じ流れです。
また、最近のフェミニズムや同性婚、LGBTQの動きの中にも、ある意味で同じような「寛容と呼ばれる不寛容」という、一つの敵がいると思います。「何でもいいよ、何でも大丈夫」という姿勢で福音を閉ざしていく力があります。
また古代から日本はシャーマンと王という構造の中で安定し、社会を築いてきました。シャーマン自身が王様だと治めていけないので、王様自身は霊的ではない。そこにシャーマンがくっついている。そして、黙示録の第二章には、イザベルという存在が欲しいままになっていると語られています。
七つの教会のうち、「悔い改めろ!」と言われたのは、五つの教会。二つの教会は悔い改めよと言われていませんが、五つの教会に関して、それぞれに課題がありました。
そしてその背景に、あの小アジアの中において、女性神というものが拝まれていて、その女性神に仕える女性たちがいるという構造があったということをこの本は語っていくわけです。
皆さんの家庭でどうでしょうか。皆さんの家庭に行って、ワンちゃんがいるとしますよね。ワンちゃんに「お座り!」と旦那が言っても全然座らないのに、奥さんが「お座り!」って言うと、ピッと座るとか。もしかしたら逆転していませんか?それは世話をしている人に従うのが当たり前ですが、聖書は夫がかしらなるキリストに連なりながら、夫が妻を愛し、妻が夫に従うという秩序を語っています。この秩序は崩されてはならないと思います。

今日私は女性に対しての攻撃をするために語っているのではありません。女性がもっと高められることを望んでいます。構造的な問題を私たちは変えなければなりません。夫婦関係ももう一度顧みる必要があります。このことに関しては、今日は多くは語りません。
悔い改め、初めの行いをする必要がある。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさいと聖書は私たちに語っています。
この小アジア、エペソとか、ここに出てくるティアティラとか、フィラデルフィアとか、サルデスとか、この地域です。初めの愛に帰るために、私たちは悔い改める必要があります。
皆さん、悔い改めは好きですか?好きな人もいるかもしれません。「悔い改めで私は生きております!」みたいな人もいるかもしれません。「悔い改める」と言うと、涙を流して「ごめんなさい」と感情的になることを私たちは考えがちですが、悔い改めとは、先ほど最後に賛美してくれた「向きを変える」ことです。

「メタノイア」という言葉がそこで使われているそうですが、その意味は、視座・視点を変えることです。私たちがどういう視点で物事を見ているか、その視点を変えることです。この世を見ているのか。イエスさまを見ているのか。これ私たちの意思が関わっているのです。
悔い改めはもっとクールなものだと思います。そして変えよう!向きを変えよう!あの人を憎んでいたけど許そう!向きを変えて、そして新しい働きを私たちはしなければならないと思います。

悔い改めということで、皆さん、最も思い浮かぶのは誰ですか?ペテロですね。イエスさまは、ペテロが三度も裏切った後、ガリラヤ湖の湖畔で再びペテロと弟子たちに会い、最後にこんな言葉をかけました。

“イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。”(ヨハネの福音書 二十一章十七節)

ここからペテロは向きを変えました。よくこのストーリーは、漁師をしている者にとって「漁師なんかやめて、伝道しなさい」というふうに使われることがありますが、私はそれに大反対です。夜通し漁をすることがどれだけ大変か、やったことがありますか?夜通しやっても捕れなかったのです。彼らはプロの漁師でした。漁に出るには相当なパワーが必要で、夜まで戦ってしまう。だいたいちょっと行って、「あぁ釣れん。」とみんな帰ってくるでしょう。夜通し戦ったのです。やりきっているのです。彼らは自分の故郷で、神さまはそういう所で私たちに出会ってくださるのではないかなと思います。

高校時代の親友がドローンのことをきっかけにイエスさまに出会ったように、イエスさまは私たちに一番私たちの心が深く興味があったり、深く心が動く、そのことから私たちに語ってくださると思います。向きを変える。
今日、皆さんにとって、初めの愛に戻らなければならないことはあるのか?ないのか?
私はモンゴルに行くにあたり、何度も何度も訪ねた志賀島に行きました。そこは九州リバイバル聖会が行われていた場所です。四十年前にはあそこが戦場だったなんて全く意識していませんでしたが、朝早く山の上に行って、皆で熱心に祈っていました。その場所こそ、高野山からの僧侶たちが火を焚いて、そして蒙古襲来をやっつけようとした場所だったりするわけです。僕らは知らなかったけれども、神さまから祈らされていたということを思わされました。